第1部 7 由美と佐伯家④
翌日、由美は宇田川町のライブハウスの前にいた。ネオンで照らされたライブハウスの名前を確認し、アーティストのポスターで覆い尽くされた階段を降りる。受付でチケットを見せ、500円を払いドリンクチケットをもらう。
防音の重いドアを開けると、大音量の演奏が聞こえ、照明で照らされたステージと演奏者の姿が目に入る。
汗や煙草などが混ざったにおいがする。ガンガンに効いた空調で、少し寒いくらいだった。由美は初めての環境に戸惑いながら、壁沿いに空いているスペースを見つけると、そこからステージに目を向ける。
耳馴染みのない曲だった。ボーカルの男性がベースを弾きながら、英語の歌詞を歌っている。ステージ正面の最前列で、何人かがリズムに合わせて頭を前後に振っていた。
演奏が終わり、メンバーが袖に捌ける。ステージが暗転し、幕が掛けられる。客電が照らされ、前方にいた観客が後方に戻ってきた。一つしかないトイレにはすぐに順番待ちの列ができ、バーカウンターでドリンクを買った人々が、カップ片手に談笑している。
少し混雑が落ち着いたところで、由美はカウンターに向かい、ジントニックを注文する。透明のカップを受け取ると、すぐに元の位置に戻る。
ちびちびと飲みながら、周囲を観察して時間を潰す。後方のドアからは新しい客が続々と入場してきて、いつの間にかフロア全体は、ほぼ人で埋まっていた。
ステージの袖から懐中電灯で合図がされる。それを見て、後方で談笑していた客が再びステージ前方に向かっていく。
客電が落ち、有名な怪獣映画のテーマ曲が流れる。客席から歓声が上がり、何度も指笛が鳴らされる。
暗闇の中、ステージ上を動く人影を追いかける。テーマ曲はまだ鳴っていたが、突然、マシンガンをぶっ放したようなドラムの演奏が始まった。
現実に亀裂が入ったような衝撃。それだけで先程のバンドの演奏とは、明らかに違う。
ギターの音が加わる。その瞬間、ライブハウス全体が一つの生き物になったかのように大きく揺れた気がした。由美は、一度自分の足元を確かめてから、再度ステージを見る。
暗闇の中、鳴り響く音に合わせてステージ前方の観客が拳を突き上げ、身体をぶつけ合う。誰かが観客の上に乗り上げ、ステージへと運ばれていく。
ステージの照明が点き、演奏者の姿が現れる。ドラムの前で前傾姿勢の男性が客席に背を向けながら、腰の辺りに構えたギターを掻き鳴らしている。黒の長髪がドラムに合わせて揺れる。その男性が柏木であるとは、最初、由美には信じられなかった。昨日カフェでティラミスを食べていた穏やかな姿と、今ステージの上で激しく演奏する姿とが結びつかなかった。
ステージに運ばれた観客は、ステージを右から左に移動すると、客席に飛び込む。それをキッカケに何人もの観客が運ばれ、同じ動きを繰り返す。
二人の演奏に真っ向から挑みかかる唸り声があがる。ステージ左側で踞った坊主頭の男性が口元にマイクを抱えていた。男性が立ち上がった瞬間、叫びへと変わったそれは、演奏と一つになり大きな渦となる。
ドラムに、ギターにマイク、楽器自体は決して大きくはない。だが、柏木達が演奏し、スピーカーから放たれる音は、人々の理性を剥ぎ取る巨大な龍のようだ。
由美は音に中ったような気がして、壁にもたれかかると、外の空気を吸いにドアに向かった。ドアを開け、外に出る前に後ろを振り返る。曲の終わり際、ステージでジャンプした柏木が、ギターの先端部分をドラムのシンバルに叩きつけていた。
ライブが終わり、客席の明かりが完全に点く。汗まみれのTシャツ姿の男性客がぞろぞろと出口に向かって歩いていく。由美は柏木に会って、挨拶できればと思ったが、どうすればできるのかわからないまま、人の流れに乗って会場の外へ出る。
由美はライブハウス前でたむろする他のファンから離れた場所で柏木が出てくるのを待った。耳鳴りを感じながら通りを歩く人々を眺めていると、当たり前の世界もどこか違ったものに感じられる。
二〇分くらい待っただろうか。まずは、ボーカルの男性が大きなケースを抱えて階段を上がってきた。その後ろから、別の機材を抱えた柏木とドラムの男性も出てくると、ライブハウスの前に駐車したバンに機材を詰め込んでいく。
何往復かした後、バンのドアが閉められ、ようやく柏木達は、待っていたファンと雑談を始める。
親しげな様子に、その輪に加わることができずにいると、気づいた柏木がこちらまで歩いてきた。
「来てたのは気づいてたけど、待ってるとは思わなかった、気づかなくてごめん」
柏木は、ステージではしていなかった眼鏡をかけていて、パッと見は、昨日会ったままの雰囲気だったが、少しだけ頬が紅潮し、湿った髪からは汗のにおいがした。
「佐伯さんはライブハウス始めて?」
「まだ耳がキーンとしてる」
由美が頷きながら答える。
「いや、来てもびっくりして、途中で帰っちゃうんじゃないかと思ったよ」
柏木は昨日よりも早口だった。
「びっくりはした。あとは何だろう、まだうまく言葉にできないけど、すごいね」
ちょうどその時、柏木の背後からボーカルの男性が近づいてきた。
「なに、智樹の彼女?」
気さくな笑みを浮かべている。
「ちげえよ」
柏木が否定する。
客席から見た時も、背の高さは感じていたが、こうして間近で見ると190cm近くあるのではないかと思う。でも、浮かべている笑顔は、男子中学生のようで、まったく威圧感を感じさせない。
「めずらしい」
「何が?」
「はじめてじゃない? お前が女の子呼ぶの」
「そうだとしても、そういうのは黙ってなきゃ意味ないだろ」
柏木が笑みをこぼす。それは本当に信頼している人間にしか見せない穏やかな表情だった。
「佐伯さん、紹介するね。うちのボーカルのカツ」
「はじめまして」
カツが姿勢を正して一礼する。引き締まった体格からか、Tシャツとハーフパンツという格好でも凜としている。
「でもお前、うちらの音楽聴かせたら嫌われちゃうって」
「それは、どうして?」
由美が訊ねる。
「こんな音楽やってると、『普段からロックなんでしょ?』って思わない?」
「過去にそういうことがあったわけ?」
今度は柏木がカツをからかう。
「そう。そのことで、何度泣かされてきたか」
カツは涙を拭う身振りをする。
「ほら、俺ってこんな形してるけど、実際はチョー繊細でナイーブじゃん? だから身に沁みてるわけ。元カノに『俺、一人暮らしで生活苦しいから家計簿つけてる』って言ったら、『そんな細かい男嫌い』って言われるし」
「はいはい」
柏木が遮る。
「ちょっと!」
「いや、その話、前に聞いたし」
「それでも、失恋したばかりの男には、もう少し優しくしてくれてもいいじゃん?」
「じゃあ別れて後悔しているのか?」
「全然。あんな女、こっちから願い下げだぜ」
カツはプイッと顔を横に向ける。
由美は二人のやりとりを微笑ましく眺める。
「おい、佐伯さんに笑われてるぞ」
「お前がな」
「えっ、俺だけ? 佐伯さんそうなの?」
「いや、仲良いなあって思ってつい。ごめんなさい」
由美が謝る。
「いやいや、謝るほどのことじゃないから。なんだよ、佐伯さんいい人じゃん」
カツが柏木を肘で突く。
「智樹ー、カツー、打ち上げ行くぞー」
ドラムの男性が二人を呼んだ。
「わかったー」
カツが返事をする。その声量にギョッとした様子で、道行く人が振り返る。
カツは周囲を特に気にする様子もなく、「じゃあ、佐伯さんまたね」と言って歩いていく。
「ステージの上とは別人みたい」
「だって別人だもん」
柏木の言葉に、由美は目線を向ける。
「自分にとっても、他のメンバーにとっても、ステージは特別な場所だから。そういった意味で、普段と同じなわけがないんだよ」
そう話す柏木の澄んだ瞳を見た由美は、柏木に惹かれ始めていることを自覚した。同時に、なすべき事に対して、努力を重ねる姿に悔しさを覚える。
「楽器があって、ステージがあって、そこに音と熱があるから、自分達は演奏できる」
柏木の言葉に、「そう」と小さく答えた由美だったが、その言葉は飴玉のようにポトリと落ちた。
「自分も行かなきゃ。送っていけなくて申し訳ないけど、今日は来てくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
「こちらこそ誘ってくれてありがとう。また大学で」
由美が答えると、柏木は軽く手を振り、メンバーの元に走っていく。
その後ろ姿を眺めながら、由美は胸の奥に湧き上がってくる思いを感じる。
「彼と対等な存在になりたい」
「対等と思えるような自分を手に入れたい」
一月の夜の寒さを忘れるくらいの熱い思いが、由美の中で燃えていた。




