第1部 7 由美と佐伯家③
一週間後、由美は大学の書店で、文庫の棚を眺める男性を見つけた。
左肩にぶら下げたギターバックのぬいぐるみは、黄土色になっていた。男性はジーンズにダウンコートを着ていたが、一月下旬にも関わらず足元は雪駄だった。
「すいません」
由美が話しかけると、男性はこちらに顔を向けた。
「この間はありがとうございました」
由美はそう言って頭を下げたが、男性は不思議そうな表情を浮かべていた。
「人違いじゃないですか?」
由美はもう一度ギターバッグを確認する。
「人違いじゃないです」
「よかった」
男性が笑う。くしゃっとした人の良さそうな笑顔だった。
「で、何かしたっけ?」
由美は周囲を確認する。あまり学内でこの話をしたくなかった。
「あの、この後時間ありますか?」
「夕方までなら」
「この前のお礼をさせていただきたいんですけど」
我ながらなんて下手な誘い文句と思ったが、「じゃあコーヒーでも飲みに行く?」と、男性はあっさりOKした。
「一応言っておくと、自分、柏木っていうんだけど……」
書店を出た所で柏木に言われ、由美は自分が名乗っていなかったことに気づく。
「佐伯です」
由美が答えると、「サエキさんサエキさん」と柏木は歌うように口ずさんだ。
キャンパスを出て、新宿通りを麹町方面に向かう。
並んで歩きながら、由美が一週間前のことを説明すると、「ああ、あれか」とようやく合点がいったようだった。
「殴られたりしませんでした?」
「何度も謝ったら許してくれたよ」
飄々と答える柏木の様子に、由美は安堵する。
柏木が案内したのは、新宿通りから右に入って少し坂を下ったところにある雑居ビルにあるカフェだった。
階段を上がり2Fのドアを開ける。店内に入って、最初に驚いたのは明るさだった。正面の大きな窓からたっぷりと日差しが差し込み、コンクリートの打ちっぱなしにも関わらず、暗い印象が全くない。
続いて由美は気づく。年代や素材の異なるテーブルが並んでいるが、それらの多くには椅子がない。
「こっちこっち」
柏木の声がする方に向かうと、入り口からは見えない場所に、様々な種類の椅子が積み重なっていた。
「ここ椅子を自由に選んでいい店なんだ」
そう言った柏木は、紫が特徴的なキューブスツールを手にしていた。
「窓際でいい?」
由美が頷くと、柏木は窓際の席にスツールを置き、ギターバックを下ろす。
由美は、空いているテーブルに置かれた椅子も眺めてから、ダークブラウンのアームチェアを手にして、向かいの席に置く。
柏木がカウンターの男性と軽く話をした後、水の入ったグラス二つとメニュー、荷物入れを手に戻ってくる。
「ごめんなさい」と立ち上がろうとする由美を目で制すと、グラスを置き、メニューを渡し、荷物入れを開いて由美の隣に置く。
由美はメニューを開きながら、慣れた様子の柏木に「おすすめは?」と尋ねる。
「コーヒーも紅茶もおいしい、ケーキも外れはないから、好きなものを頼めばいいよ。佐伯さんが払うんだし」
メニューを閉じた由美を見て、柏木が手を挙げる。
柏木はコーヒーとティラミスを、由美はアールグレイとチーズケーキを注文する。
注文後、由美は改めて店内を見まわす。気づかなかったが、至る所に植木鉢が置かれ、緑がちりばめられていた。
「気に入った?」
「ユニークなお店ね」
「それは褒めてる?」
「もちろん」
由美は何度も首を縦に振る。
「この曖昧な感じが良いよね。チェーンのカフェやファミレスとは違って、明確な境界がなくて遊びがある感じというか。店に入って、最初にすることが、自分で席を作るっていうのがさ」
眼を輝かせて話す姿に、物静かな人物という第一印象は、どんどん変わっていく。
「どうしてこういう形になったんだろう?」
「マスター曰く『飽きっぽいから』だって」
「どういうこと?」
「店を開ける時は毎日カウンターに立つ。でも、毎日同じ景色は見たくない。だったら、毎日テーブルの配置を変えて、椅子も客に選んでもらおうってなった」
「かしこい」
由美は感心する。
「あと、マスターが言ってたのは、『客が椅子を選ぶのを見るのは楽しい』って」
「言われてみれば、たしかに椅子を選ぶ機会ってないかも」
「なかなか自分で選ぶものじゃないから、自由に選んでいいってなった時、その人がどんな基準で選んだのかを考えるのは楽しいって」
そんな話を聞くと、ついつい相手の椅子に目がいってしまう。
「柏木君は、すぐにその椅子に決めたけど、どうして?」
「あまりこだわりはない。今日は佐伯さんを連れてきたから、見本を見せないとなって思って、目についた椅子を手に取った感じかな」
「なるほど」
「佐伯さんは?」
「最終的には色が気に入ったから選んだけど、長時間座るには疲れる椅子かもしれない」
「今ので、佐伯さんはその色が好きってわかったね」
柏木は笑い、グラスの水を口に含む。
「改めて、この間は助けてくれてありがとう」
由美がお辞儀をする。
「そんな『助けた』とかの程でもないと思うけど。困っている様子だったから、間に入っただけ」
「それを『助けた』とは言わないの?」
「例えば、佐伯さんが足を怪我していたとかなら別だけど、あの状況はそこまで決定的なものじゃないよね。自分が何もしなくても、佐伯さんは男性を振り切っていただろうし。だから、そんな恩みたいなものを感じる必要なんてないと思う」
由美は柏木を見ながら「そうなの?」と尋ねる。
「たぶん」
「たぶんって」
柏木の自信なさげな答えに、ついつい笑みがこぼれる。
「いや、自分としてはその程度ってだけで、他の人のことはわからないから。返報性の原理みたいなものを利用して、しきりに恩を売りたがる人もいるし」
「返報性の原理?」
「この前読んだ本に書いてあったんだけど、人ってさ、何かしてもらったら恩を感じる生き物らしいんだよ。街で化粧品の試供品とか無料でもらうと、買わなきゃいけないような気にならない? もちろんあれには、商品を知ってもらう目的もあるけど、同じくらいの目的で、エビで鯛を釣ろうとしているわけ。じゃないと企業は儲からないじゃん?」
「その話だと、今の私は鯛になる?」
「もし、自分が翌日にでも佐伯さんを見つけ出して、『昨日のお礼に高級フレンチを』って要求してたらそうかもね」
「なるほど、そうではないという証拠ね」
「そうそう」
ちょうど注文した品がテーブルに運ばれてきたので、二人は一度会話を止める。
柏木は由美に「どうぞ」と手を向けて、コーヒーを飲む。由美もカップを持ち、紅茶を飲む。
言葉通り、濃くて美味しい。香りもよい。
「でも、柏木君は勇気あると思う。ほとんどの人は、ああいった状況に首を突っ込もうって思わないから」
「そうかな」と言った柏木はティラミスを口に運ぶ。
「そう。見世物としか映らないから」
「見世物ね……。舞台や幕があるわけでもなく、目の前に明らかに困った様子の人がいる。もしそれを現実と捉えられないなら、一体何が現実なんだろう」
「自分にとって都合の良い状況よ」
そう言って、由美はチーズケーキを口に入れた。
柏木は思考を整理するように、小さく何度も頷いてから、「なるほど。そういうことか」と言い、もう一口ティラミスを食べる。
そこからしばらく会話は途絶えた。
「おいしい?」と、柏木が一度話を振ってくれたが、
「とっても」
「よかった」というやりとりの後、再び無言になった。
「それはギター?」
今度は由美が訊く。
柏木が頷く。
「バンドとかやってるの?」
「まあ、そんなところ」
「どんなバンド?」
「激しいバンド」
「激しいバンド?」
由美が聞き返すと、柏木はコートのポケットから財布を取り出す。
「もしよかったら、明日渋谷でライブあるけど……来る?」
由美は受け取ったチケットを眺める。“Act.”の下に、何組かバンド名が書いてある。
「どれが柏木君のバンド?」
由美の質問に柏木は身を乗り出すと、「これ」と“緊急煽動装置”という名前を指差す。
「さっきの『返報性の原理』の話を聞いた後じゃ、意味ないかもだけど、もし興味と時間があったら。出番は21時くらいかな」
それから、バンドのリハーサルがあるという柏木と一緒に店を出た由美は、麹町駅まで行き、そこで柏木と別れた。




