あの日、全てが失われた
遂に明かされるあの日の事。
「お、おい! 沢田! お前どこ行ってたんだ!」
「あなた? どうしたの? 大丈夫?」
「え? ゆ、夢か......」
田中幸子は、一郎がうなされているのに気付いた。
腕を突き出し、苦しそうに叫んだからだ。
「疲れてるのよ。だって毎日忙しいもの」
「すまん。夢に沢田の奴が出て来たんだ。笑顔で頭を下げてな」
夢に出て来た沢田は、一郎が覚えているより老けていたように見えた。
何かあったのか? 何処に居るんだ?
「あなた。休んだ方が良いんじゃない? 仕事は私も手伝いますし」
「いや大丈夫だ。まだまだ俺も若いからな。あいつらが帰ってくる場所を守らないと」
突然消えた会社の建屋と従業員達。あの日、一郎の大切な物が失われた。
◇◇◇
あの事件が起こった日、一郎は夢を見た。黒髪の女性が出て来る夢を。
『彼らの帰る場所を守って下さい』
あの女性はそう言った。その言葉は鮮明に覚えている。
当初はただの夢で、その女性も昔の知り合いの人物だと考えていた。
夢から覚めた一郎の体調は悪く、熱が出た為に出社を遅らせた。
しかし取引先からの電話で驚く事になった。
『田中さん。お宅の会社が無くなってますよ。何かあったんですか?』
古い取引先から言われた言葉に、一郎は困惑した。
会社が無くなる? どういう意味だ? 直ぐにタクシ-を呼び会社へ向かった。
そこで見た光景は、どう表現したらよいか言葉が出ない。
見慣れた道路を進み、角を曲がれば見えてくるはずの建物が無い。
運転手に無理を言って、急ぎ辿り着いた会社があった場所。
そこは完全に更地になっていた。まるで初めから何も無かったかの様に。
「何だこれは! 何が起こったんだ!」
体調が優れない上に、信じられない現実。
もう立っていられなかった。
そんな一郎に声を掛けて来たのは、近所の会社員だった。
「どうされたんですか? あれ? ここって? え?! 何で?! 会社が無い?」
その人物もパニックになっていた。彼が言うには朝この道を通った時、会社はあったはず。
それが数時間で無くなっている。こんな奇妙な出来事はあり得ないと。
その後、会社の周辺がパニックになる。納品の車は会社が無いために道路で渋滞。
何度掛けても繋がらない電話。取引先の社員が集まり出す。
一郎に説明を求めるのだが、本人も現状が理解できない。
とにかく皆に帰ってもらう話が終われば、今度は従業員の家族が来る。
この時にはSNSで、この摩訶不思議な出来事が広まっていた。
従業員の家族に現状を説明している時に、やって来る報道関係者。
昼には全国に大きく報道されていた。一郎も警察などに連絡。
収拾の付かない事態になって行った。
最初の1週間は、『消えた建物と従業員』と言うセンセ-ショナルな見出しに日本中が沸いた。
テレビでは連日このニュ-スで持ちきり。面白おかしく報道していた。
しかしそれもひと月が過ぎると、徐々に沈静化していった。
そこまでの間、一郎の生活も激変した。
連日、家に報道関係者が詰めかけ、プライべ-トも無い。
それは従業員の家族にまで及んだ。取材対応など慣れていない一般人。
精神的に病んでしまった家族もいた。中には引っ越しを余儀なくされる人も。
そんな家族を守る為、弁護士を通じ報道を控える様にお願いする一郎。
妻である幸子もそんな一郎を支え続けた。
さらに一郎にはすべきことがあった。失踪した従業員は必ず帰ってくるはず。
彼らが帰ってくる場所を、守らねばならないと考えていたのだ。
先ず一郎は会社があった土地をフェンスで囲んだ。万が一の事故に備える為だ。
そしてその一角にプレハブ小屋を建てた。このまま会社を潰すわけにはいかない。
何も進展の無いまま、1年は瞬く間に過ぎて行った。
その間、事業は縮小したが、幸子の協力と配達を業者に委託する事で何とか継続する。
突然居なくなった従業員の家族の為に、少なくない金額も毎月捻出した。
だが全ての従業員の家族に保証は出来ない。苦渋の決断で子供のいる家族にしか出来なかった。
ただ2年が過ぎると、ある決断をしたいと言う相談が増えた。
それは『失踪宣告』だ。これは容易にも戻る見込みのない者につき、法律上死亡したものとみなす効果を生じさせる制度の事。普通失踪の場合は7年間と決まっているが、戦争や震災などの場合は1年で申し立てできる。
今回の事件の場合、1年が適応されると弁護士に教えられた。
だが一郎は家族に待って欲しいとお願いした。
あの日見た夢。あの時聞いた言葉が忘れられないのだ。
『彼らの帰る場所を守って下さい』
あの言葉を信じたかった。勿論、残された家族の生活もある。
そこで一郎は期限を決めた。最長で5年待って欲しいと。
自分は彼らが戻ってくると信じている。その為に帰る場所を残して欲しいと。
小さい子供や学校に通っている子供がいる家族は、その一郎の言葉に涙した。
しかしもう忘れたい、次に進みたいと言う家族も居た。
そんな家族や子供の家に、一郎は通う。
確実な根拠がある訳では無い。
「私は従業員を家族だと思っています。息子や娘が帰る場所を守りたいんです」
そう伝え続けた。
◇◇◇
仕事が終われば従業員の家へ向かう。そんな生活も4年目を迎えた。
「一体何処に居るんだ? もう時間がない」
一郎はそう呟いた。説得を続けて来たが、約束は5年。
もう後1年しかないのだ。
それに事業も思ったほど上手く行っていない。競合する会社は多い。
古くからの取引先も、何社かは取引が終わってしまった。
一郎と幸子だけでは顧客のフォロ-も充分に出来ない。
これまで上手く行っていたのは、営業部がそれだけ優秀だったのだ。
「速水。お前は凄い奴だったんだな。行く先々で褒めてくれたぞ」
夜道を歩きながら、思い出す日々。
小さな商店を仲間と一緒に大きくした事。最初は大学の後輩でもある沢田と共に頑張ったんだ。
父親の残した土地と資産を元手に、周囲の工場を吸収。生意気な蓮見やその従業員の来栖。
沢田はそんな蓮見達を上手く使っていたなぁ。
自社で製品を作る事で、コスト削減。これには大塚君が細かかった。
浮いた経費を使って新規で事業を起こす。最初はかなり反対された。
だが皆を説得して、品質管理部を作ったんだ。
堅物な岡田が面接に来た時、雇うかどうか悩んだな。
事業が軌道に乗り出した時、清水の提案で営業部を拡大したんだ。
中村君が来て職場が華やかになったっけ。
その後に大卒採用で来たのが速水と田村だったな。
その頃から女性社員も積極的に採用した。
俺達では思いつかない発想が、女性社員から生まれたんだ。
そんな社員達は本当に頑張ってくれた。
まぁ俺の性格が社員に移ったのか? ちょっとお気楽な社員が多かったが。
「なぁお前達。俺も皆もお前らの帰りを待ってるんだ。早く帰って来い」
一郎はそう言って幸子の待つ家へ急いだ―――
現実も同じ時間が経過していた。
帰りを待つ家族。そして社長は、皆の帰る場所を守ってくれていたんだ。