23.「裁かれた竜王」
●【23.「裁かれた竜王」】
中空高くに昇った月をその背にして、女神は鏡湖をじっと見つめていた。
流れる銀灰の長い髪は風になびき、その頭上には鈍く輝く銀の兜。
淡い緑の衣は彼女を優しく包み、どんな穢れた空気も浄化させてしまう優しい香りを漂わせていた。
切っ先鋭い剣を抜き、大きな楯を構え、彼女は波立ち始めた鏡湖を見ていた。
大きな力強い空色の翼は彼女を優雅に宙に留め、彼女の背後には見守るように五羽の白鳩が控えている。
「わがしもべよ」
「控えております」
女神の側に桜翁が現れた。
「竜たちの道と、召喚の空間を作っておくれ」
「仰せのままに」
桜翁はうなずくと、叫んだ。
「草木の王が命ず!すべての草木の精よ。この世界の生ける者を全て眠らせよ。女神の裁きを目撃する者、邪魔立てするものがあってはならない」
世界中の草木の精たちは、それぞれ持てる力で、この命令を実行した。
眠りの成分を含む花粉を風に乗せる者、あたりを徘徊する動物や、街の人間たちに自らの棘をそっと刺し、眠らせる者もいた。
森や林の木々、花壇の花たち、窓辺の鉢植えの植物たち、野生の草花、人が育てる野菜や果物、全ての草木とその眷属たちがこの命令に従った。
「閉ざされし檻の扉よ開け!」
次に、桜翁は両手を広げると、その体の回りに無数の桜の花弁が現れた。
桜翁を中心に東西南北へ向かって、花弁の舞い散る道が延び、その花弁で出来た道は、それぞれの竜たちの聖地へと伸びていた。
普段、竜たちは自らの領国の国境から先へは出ることができない。
目に見えない障壁があり、それが竜王たちを閉じ込めている。
彼らの領国はいわば、彼らを封じた檻でもある。
そして、竜王たちは、女神が裁きの為に召喚した時に限り、任意の場所へ導かれる。
それが竜の道だ。
女神の忠実なしもべである桜翁だけが唯一、この障壁の力を解除することができるのだ。
「巫女様方。お願いします」
桜翁がそう言うと、五羽の白鳩は、それぞれが仕える竜王の聖地がある方角へと飛んだ。イーラだけは鏡湖の上空で留まっている。
暫くして鏡湖の湖畔が完全に静まり返った頃、波立つ鏡湖から青い一筋の光が天空に向かってのびた。
「女神デーデ。お待たせいたしました」
現れたのは一人の青年だった。
目の醒めるような鮮やかな青い色のゆったりとした衣を纏い、銀色の髪は踝までの長さがあった。
瞳は輝く金色で、ソーナ族と同じ縦長の瞳孔を持っていた。
「わたくしの言いたいことはわかっておりますか?アヴィエール」
「はい」
穏やかで優しい声。
その姿は線が細く中性的で、二十代ぐらいの青年のような姿に見える。
「大人しく裁きを受けますか?」
「仰せのままに」
アヴィエールは静かにその場で待った。
南の方角から、フェリスに先導されて現れたのはガイアルだった。
まるで戦いの装束のような緋色の衣と燃えるような赤い髪。紅蓮の炎のような赤みを帯びた金の瞳はアヴィエールと同じく獣の瞳孔を持っていた。
こちらはアヴィエールとは対照的で、荒々しい雰囲気の体格のいい男だった。
「女神デーデ。お久しぶりです」
体格にふさわしい重低音の声だ。
「わたくしがなぜお前を呼んだかわかりますね?」
「はい」
ガイアルは神妙な面持ちでその場に控えた。
次に、ウネに先導されて到着したのはユズリ。
長くのびたさらさらの白い髪に新雪のような白い肌は、彼女の領民であるネッカラ族の姿を彷彿とさせる。切れ長の瞳は落ち着いた琥珀のような色合いだが、その瞳はどうやら見えていないようで、ウネに手を引かれていた。
彼女は真っ白なドレスを着て、純白の雪狼の毛皮の飾りがついたケープを纏った優雅な姿の女性だった。
「女神デーデ。ご無沙汰しておりました」
ユズリは優雅に女神に向かって会釈した。
「お前も元気そうでなによりです。目は不自由ありませんか?」
「大丈夫です……この目にもすっかり慣れましたから」
「そうですか……大事になさいね」
女神がユズリにそう言うとユズリは優雅に会釈をした。
東の方角と、西の方角からは竜王たちが同時に到着した。
イングリッドに先導されてやって来たフォルカは、イングリッドを追い越し、もの凄いスピードで鏡湖上空にたどり着いたが、勢いあまって危うく通り過ぎそうになった。それに気づいたフォルカは慌てて逆戻りしてきた。
「相変わらずお前は元気がよすぎますね、フォルカ」
女神は少しだけ微笑んだ。
「申し訳ありません女神デーデ。領国から出るのが久しぶりで、つい……」
フォルカは小柄で、十代の少年のような姿。カイエやエーレウスとそう変わりないような印象を受ける。
深い緑色の髪は短く、他の竜王たちとは違い、動きやすそうな軽装に深緑のマントを羽織っていた。大きな丸い瞳は他の竜王たちと同じく、キラキラ輝く金色だった。
「女神デーデ。到着が遅れて申し訳ありません」
麗花に先導されて到着したヤパンは落ち着いた低い声でそう言った。
古代の彩岩楼皇国の民族衣装によく似た漆黒の衣を纏い、少し長めの黒い髪は綺麗に束ねて纏められている。三十代ぐらいの思慮深そうな雰囲気をもつ男の姿だった。
「大人しくしていましたか?ヤパン」
「約束は守っております」
「それならばよろしい」
女神は表情を変えずにそう言っただけだった。
竜王たちは同じ時に作られた兄弟でありながら、姿も雰囲気も違うのは、創造主が彼らを作るときに使った泥の成分の違いと量の差によるものだといわれている。
デーデジアの各地から集められた泥や土や粘土を使い、最初に作られたヤパンや二番目に作られたガイアルは地の力が凝縮された石英や炎の力を取り込んだ火山灰を多く含んだ土が使われ、泥の量も多かったので大柄になったが、最後に作られたフォルカなどは軽い砂を多く含んだ泥が少ししか残らなかった為、小さな竜になってしまったと創生の書には記されている。
「これより裁きを始めます」
女神がそう言うと、竜王たちは女神の前に横一列に並び、跪いた。
「わたくしは本来、お前たちを裁くのは本意ではありません」
女神は最初にそう言った。
竜王たちはその言葉を神妙な顔で聞いている。
「しかし、今回は由々しきことが起こりました。説明せずともわかっておりましょう?アヴィエール、それにガイアル」
アヴィエールとガイアルは無言で頷いただけだった。
「アヴィエール。お前は領民をあまりに放置しすぎた……これは認めますか?」
「認めます」
アヴィエールは静かに言った。
「戦が起こり、多くの領民が命を落とし、国中に嘆きと悲しみが溢れた。ミヅキの王はこの事態を収めるために命を投げ出さざるを得なかった……これがどれほどの罪か、お前はわかっていますか?」
女神の問いかけにアヴィエールは黙ったままだ。
「答えなさい。アヴィエール」
「……何を仰られるか……何千年ものあいだ、何もしなかったのはあなたのほうだ……」
ガイアルがいきなりそう言った。
「わたくしはアヴィエールに問うているのです。ガイアル」
しかし、ガイアルは女神の言うことを聞かなかった。
「我が弟アヴィエールを脅えさせ、領民から目をそむけさせたのは他ならぬあなたの存在だということがおわかりにならないか?女神デーデ」
ガイアルは女神を睨みつけた。
黄金の瞳が燃えるように輝いた。
しかし、女神は動じることもなく、無表情にガイアルを見つめていた。
彼女の持つ慈愛の楯には、紅蓮の瞳と炎の鱗を持ち、牙を剥き出す荒々しい竜の姿が映っていた。
「どういうことです?説明しなさい。ガイアル」
「女神デーデ。お聞きください……」
アヴィエールがやっと口を開いた。
「ガイアル兄様も私も怖かったのです」
「怖い?」
「はい。私は穏やかで深いこの鏡湖の水底でずっと考えていました。私は何のためにこの世界に存在しているのだろうかと。定められた地を出ることも叶わず、時がたつほどに我が分身である領民たちは私のことを忘れていく。そして、何かおこればあなたの持つ、その忌々しい剣がいつも私を狙っている……私はそれが怖かったのです……何も起こさないためには領民に深くかかわらなければいい……我ら竜の眷属の都であったソーナ国が滅びたとき、私はそう決めたのです」
アヴィエールに続いてガイアルも女神に訴えかけた。
「そうだ。アヴィエールがソーナを滅ぼしたのはあなたの命令があったからだ。あなたがその剣で脅したからだ。その忌々しい『契約の剣』がソーナ滅亡の時に現れたのは、アヴィエールを従わせるためではなかったのか?あの時のアヴィエールの悲しみをあなたはわかっておられるのか?女神よ」
ガイアルは臆することなく女神をじっと見つめている。
「確かに、ベルガー一族の者を使って契約の剣を導いたのはわたくしです。しかし、わたくしはアヴィエールを脅してなどいません。ソーナ滅亡の原因はおまえたち竜の慢心であったことに、まだ気づかないのですか?」
「違う!慢心などではない。あなたが影で我々を監視していることが我々の心に恐怖を生んだからだ。我らの眷属であるソーナ族が大きな魔力をつけたのはあなたへの恐怖に対抗するためだ」
ガイアルは興奮し、語気が荒くなっていた。
「ではガイアル。だから、当時のソーナ王はわたくしの代理人である竜巫女を殺したと?あのラドリアスめは大罪を犯したのですよ?竜巫女の殺害はわたくしへの反逆。あの大それた行いがラドリアス一人の意思ではなかったことはわかっていました。ガイアル、あれはお前の意思なのですか?」
「違う。我々全員の意思だ。我々はその剣が怖い。あなたの存在が怖い」
ガイアルは女神が持つ銀色の『契約の剣』を指差した。
「そうでしょうね」
女神は冷たく言い放つ。
「この剣はあなたたちの命を奪い、ただの土くれに還すことができる唯一の剣。しかし、この剣がなければあなたたちは、またあの時のように暴れるでしょう?お前たちの父であるあの方との約束をわたくしは守っているだけなのですよ」
女神はそう言って、竜王たちを見回した。
皆、一言も何も言わない。
俯く者、じっと彼女を見つめる者、それぞれが何か思惑を持っているように見える。
「では、あらためてお前たちに問います。今、ガイアルが言ったこと……これは全ての竜王の意思ですか?もしも、是ならば沈黙を持って答えなさい。否ならそう名乗り出なさい」
「私は、違う」
最初にそう名乗り出たのはヤパンだった。
ガイアルは驚いたようにヤパンの方に向き直り、苦々しそうに言った。
「……兄上……なぜ?」
「ガイアル。確かにお前の言うことは私も認める。しかし、我々全員の総意ではない。少なくとも私は違う。私はかつて、お前やアヴィエールと同じ考えを持ち、女神に一度裁かれた身だ。我が力があの剣により半減したことはお前も知っているだろう?」
「だったらなおさらだろう?兄上は何とも思わないのか?かつて我々兄弟の中で一番強力な力を持っていた兄上の力はあの忌々しい剣の力で半分以上奪われたのだぞ?」
「だからこそ辞めよと言っているのだガイアル。私と同じ目に遭いたくなければ」
ガイアルとヤパンから凄まじい殺気が溢れ出した。
二人は突然、人の姿から荒々しい竜の姿に変わり、牙を剥き出し激しく咆哮した。
今にも戦いがはじまりそうに見えたその時、女神が二頭の竜の間に割って入った。
「兄弟喧嘩はおよしなさい」
女神は剣をガイアルの鼻先に突きつけ、楯でヤパンの頭をぐいと押し返した。
「冷静におなりなさい。二人とも」
デーデの声は冷徹だった。
「……女神のおっしゃる通りだわ。みっともなくてよ。兄様がた」
ユズリが二人を一瞥して冷たく言い放つ。
「女神デーデ……我らの父は何を考え我らを作った?我らをこの世界に閉じ込め、あなたに監視させ、その忌々しい剣で脅しつづけてきた。父は何をしたかったのだ?」
ガイアルは叫んだ。
「都合のいい願いばかりを私に投げる者、私の名を借りて悪事を働く神官たち、我が鱗から生まれたことも忘れ、自分さえよければいい領民たちを、なぜ今更保護してやらねばならないのですか?我々はいったい何なのですか?」
「いい加減聞き分けなさい、ガイアル。この世界はおまえたちのものなどではないのです。おまえたちは、この世界の本来の持ち主である、領民たちを守るものたち。あのかたはそのためにお前たちを作ったのです」
女神はガイアルにそう諭した。
「領民が本来の持ち主だって?」
ガイアルはあきれたような声を出した。
「領民は我が鱗から作った我らの分身だ。この世界の持ち主が分身である領民ならば、その本体である我々のものも同然でしょう?」
「ちがいます」
女神はガイアルに言い切った。
「お前たちの鱗から生まれた純粋な領民などもう殆ど残っていません。お前たちが惰眠をむさぼっている間に領民たちは交わりあい、交流し、もうすでにお前たちの手から離れているのです。いつまでも自分の領地と領民に固執するのはそろそろおやめなさい。ガイアル……」
ガイアルは言葉を返せなかった。
女神の言葉は事実だった。ガイアル自身にもそれはわかっていたことだった。
「では女神デーデ……なぜ、我々をその恐ろしい剣で脅すのですか?」
アヴィエールが恐るおそる言った。
「私がどれだけその剣が恐ろしかったか、土に還ることが怖かったか、あなたにはおわかりになられないでしょう?かつて、我が兄弟たちはこの世界の覇権を欲し、お互いに牙を剥きました。私も臆病者と言われるのが嫌で、兄弟たちに習って牙を剥いた……だが、私はこの静かな水底で、穏やかに暮らしたかっただけなのです……」
女神はアヴィエールをじっと見つめて、穏やかな声で言った。
「お前たちの心にはまだ、争いを望む心が残っています。力で制しなければ収まらぬほどの荒々しさがまだ残っている。それがなくならない限り、このデーデジアから争いはなくなりません。純粋な竜の鱗の領民はいなくなっても、基礎となったお前たちの心は受け継がれているのです。お前たちに荒ぶる心がある限り、わたくしはこの剣でお前たちを制しなければならないし、監視しなければならないのです」
その言葉を聞いたアヴィエールは悲しげな声で言った。
「ならば女神デーデ……私の力を斬って下さい。ヤパン兄様と同じように。私の心から荒ぶるものを取ってください。それで、穏やかな日々が訪れるなら、私はそれを望みます」
「アヴィエール!なんということを」
ガイアルが叫んだ。
「いいのですガイアル兄様。私はもう、領民の嘆きを聞くことに疲れました」
ガイアルの方を振り返り、アヴィエールは微笑んだ。
「私がもっと早くこうしていれば、あの二人の王も穏やかに仲良く暮らせたでしょう……私はそれを悔やみます」
アヴィエールは女神の方を向くと、言った。
「女神の翼である二人の王たちよ。私はおまえたちになにもできなかった。私の弱さがお前たちを苦しめた。許しておくれ……そして私を正しく裁いておくれ」
女神デーデはその瞬間、言い切れぬ悲しみを感じた。
今は彼女の翼であるカイエとエーレウスの想いが、彼女の心の中に流れ込み、胸を痛ませているのだ。
「アヴィエール。力を斬るということは、私がお前をお前が恐れるこの剣で傷つけることですよ?お前はそれで本当にいいのですか?」
しかし、アヴィエールはその問いに答えることもなく突然、蒼き鱗と銀の鬣を輝かせた竜の姿に変じた。そして、女神に向かって牙を剥き、いきなり襲い掛かった。
「それがお前の答えですね。わかりました」
女神デーデはアヴィエールに剣を向けた。




