15.「危機」
●【15.「危機」】
「エーレウス!」
カイエは元の姿に戻ってしまったエーレウスの姿を見て驚いていた。
「どうやら魔道の効果が切れてしまったらしい……俺がロップの忠告をわすれていたばかりに……」
エーレウスは焦りの表情を浮かべている。
「カイエ陛下。このままエーレウス陛下がここに留まるのはかなりまずいかと」
ラルフの言葉にカイエはうなづく。
「とりあえず僕が時間稼ぎをしよう。その間に二人はここから外へ……」
カイエは、大きな書棚に近寄ると、中から一冊の本を抜き取った。
その瞬間、書棚の側の壁が重い音を立ててゆっくりと開き、中から階段が現れた。
「これは……?」
「緊急避難用の隠し通路だ。これは王宮の北の門の近くに繋がってる。ここから外へ」
「ありがとうございます。陛下」
ラルフはカイエに礼を言った。
「エーレウス陛下。急いでください」
ラルフが先に階段を降りてゆく。
「わかった。すぐに行く」
「ちょっと待って!エーレウス」
階段を降りかけたエーレウスをカイエが呼び止める。
「これを。通路は暗いから」
カイエはエーレウスに小さなランプを手渡しながら言った。
「北門には魔道士団の詰め所があるから気をつけて。君たちが北門に着くまでには僕が手を回しておくが、万一何か手違いがあったら、逃げ延びてくれ」
「カイエ……」
エーレウスは振り返り、名残惜しそうにカイエを見た。
「またすぐに逢えるさ……」
「ああ」
「では……また逢おう。エーレウス」
「わかった。カイエ」
エーレウスの姿が暗闇にまぎれて見えなくなってから、カイエは本を書棚に戻し、通路を閉じた。
カイエは部屋を出ると、大声で叫んだ。
「誰かいないか?」
「陛下。御用でしょうか?」
カイエの呼びかけに応じ、すぐに現れたのは隣の部屋に控えていたマリカだった。
「魔道士団の副団長を呼んでくれ。火急の用事だから、すぐに」
「かしこまりました。陛下」
鏡湖は不気味なまでの沈黙に包まれていた。
エーレウスがカイエの部屋から隠し通路に入ったその頃、アヴィエールの竜巫女、イーラ・トチは浮島の中央にある竜巫女の館を出て、鏡湖の湖畔に一人佇んでいた。
その名が示すとおり、磨き上げられた鏡のような鏡湖の湖面は、天空で誇らしげに輝く麗しい姿の月の光を受けて輝き、漆黒の夜の世界を銀色に染めていた。
イーラの銀灰の長い髪は、月の光を受けてよりいっそう輝きを増し、遠目より見れば、鏡湖の湖畔に女神デーデが降り立ったかのようにさえ見えた。
イーラは右手に持った竜巫女の錫杖を月に向かって掲げ、静かに祈りを捧げていた。
今の彼女には祈るしか術がなかった。
竜王アヴィエールは沈黙を守ったまま、彼女がいくら呼びかけても何も語らなかった。
白鳩が毎日運んでくる暗い知らせは彼女の心を重くした。
神官長のエセル・エフィニアス・ミヅキが命を削って作った最強の結界に守られてはいても、彼女の心は不安で一杯だった。
これ以上多くの命が傷つきませんようにとイーラは一心に祈りつづけていた。
竜王の言葉が聞こえぬ今の彼女は、単に長く生きただけのか弱い老婆にすぎない。
自分の無力さを嘆きながらも、それでも彼女は自分にできることをしていた。
ふと、イーラは何者かが自分を呼ぶような気がした。
閉じていた目を開き、伏せていた顔を上げると、決して波立たない筈の鏡湖の滑らかな湖面がざわざわと波立っていた。
「……これは?」
『イーラ……イーラ・トチ……アヴィエールの竜巫女……』
この世のものとはとても思えぬ美しい声が、イーラの頭の中に直接語りかけてきた。
竜王アヴィエールの声ではない。
初めて聞く、女の声だった。
『イーラ・トチ……わたくしの声が聞こえますか?』
高すぎず、低すぎず、まるで美しい調べを聞いているような穏やかで、心地よい声が自分を呼んでいた。
「わたくしを呼ぶのはどなた?」
イーラは鏡湖に向かって問い掛ける。
鏡湖の湖面に映る銀色の月の光が輝きを増したかと思うと、その中から白く眩しい光が溢れ出した。
『アヴィエールの竜巫女よ……わたくしの声が聞こえたなら、その手のなかにある竜巫女の錫杖を鏡湖の水につけてみよ』
イーラは言われたとおりに竜巫女の錫杖を鏡湖の水にそっと浸した。
「あっ!」
イーラは小さく一声悲鳴をあげると、そのまま気を失って倒れた。
イーラが意識を失っていたのはほんの数分だった。
彼女はのろのろと立ち上がり、服についた汚れを軽く手で叩くと跪き、頭を垂れ、そして小さな声で言った。
「……仰せの通りに……女神様……」
同じ頃、異変は中央診療所でも起こっていた。
「む……これはまずい。近衛師団長閣下の姿が……」
ホルガ医師は突然、事務室に姿を現したエフィを見て驚いていた。
「せがれたちはまだ帰ってきていないのに、閣下の姿が現れたということは……術が解けたのか?」
エフィは驚いたように部屋をきょろきょろと見回している。
「ホルガ先生……もう、六時間がたったのですか?」
「そのようですよ、閣下。閣下は術がかかっていた間の記憶はないのですか?」
「ええ、先生。私にはほんの一瞬の出来事です。まだ数分しかたっていないような気がする……」
エフィは頭をふるふると横に振って、目頭を軽く指で押さえた。
「エーレウス陛下とラルフ先生は?」
「まだ戻っておりません」
エフィの表情が一瞬曇る。
「もう、王宮の外に出ていれば問題ないが、まだ中にいると少しやっかいですね」
「うむ」
ホルガ医師は困惑の表情を浮かべている。
「とにかく、私は王宮に戻り、陛下とラルフ先生を探します」
「お願いします。閣下」
ホルガ医師がエフィに頭を下げたその時、ミーサが部屋に入ってきた。
「どうかしたのですか……あっ!閣下が……」
事態を察したミーサは慌てて言った。
「ラルフ先生と陛下はお戻りに?」
「まだなんだ。私が今から探しに行く」
エフィはそういい残すと次の瞬間にはもういなくなっていた。
「私も探しに行きます!」
ミーサはいてもたってもいられずエフィに続いて外に飛び出す。
「ミーサ!危険だから行ってはだめだ」
ホルガ医師は慌てて、ミーサを止めようと後を追ったが、ミーサの足は速く、彼女の姿はあっという間にホルガ医師の視界から消えてしまった。
「……まったく……みな無茶をしおって……どうなってもしらんぞ……」
ホルガ医師は困ったような顔をして肩を竦めると、診療所に戻っていった。
暗い地下道を、小さなランプの灯りだけを頼りにラルフとエーレウスは出口を目指していた。
ひんやりした石造りの地下道は、嫌な湿気と静寂に包まれていた。
足元には苔がびっしりと生え、ふわふわする感触が靴を通しても伝わってきて、なんとなく気持ちが悪かった。
この道は人が殆ど通っていなかったのだろう。伸び放題の苔がそれを物語っていた。
「作られてから、殆ど人が通った形跡がありませんね」
ラルフの言葉にエーレウスは無言でうなづいた。
通路は一本道で、そのまままっすぐ歩きさえすれば、魔道士団の詰め所のある北門周辺に出る筈だった。
しかし、狭い石の通路は真の闇。ランプの灯りが消えれば闇の真っ只中に取り残される。エーレウスは軽い恐怖を感じていた。
本当に道はこれであっているのか?どこかで迷ってしまったのではないか?
暗闇を長く歩いたせいで、不安な気持ちがエーレウスをすっぽり包み込もうとしていた。
やがて、ラルフが何かに気づいたように言った。
「そろそろ出口が近いですね……」
「なぜ、わかるんだ?」
「ほら、ランプの炎が強く揺れている。進行方向から風を感じます……出口が近い証拠ですよ」
ラルフは手にもったランプを指差し、エーレウスに言った。
「急ぎましょう。陛下」
「ああ」
やがて、石の通路は上へ続くゆるやかな上り坂になった。
そして、その終点はなんと壁だった。
出口らしきものはどこにもなく、ただ苔の生えた壁があるばかりだった。
「行き止まりだ……何てことだ……せっかくここまできたのに」
エーレウスは悔しそうな声をあげる。
「諦めるのはまだ早いです陛下。ここは脱出のための隠し通路ですよ?こういった通路の出入り口には必ず何らかの仕掛けがあるはずです」
ラルフはそう言って、壁面をよく調べる。
苔がびっしりと生えた壁は一見どこも変わったところはなかった。
ラルフはランプを壁に近づけてみる。
すると、ある部分にランプを近づけた時だけ炎が揺れ、時折そこから風が吹き込んでくるのがわかった。
先ほどランプの炎を揺らした風だ。
「このあたりに何か仕掛けがあるのでしょう」
ラルフは苔が生えた壁をさらに丹念に手で探ってみる。
「やっぱり……!思った通りだ」
ラルフは苔に埋もれて隠いた小さな突起見つけた。
そして、ラルフは躊躇することなくその突起を思い切り押した。
目の前の壁が重い音をたててゆっくり動き始める。
壁は両側に開き、階段のある小部屋が現れた。
「きっと今度こそ本当に出口です。行きましょう」
二人は階段を上った。
最上段と接する形の天井は小さな扉になっていた。
鍵などはなかったが、内側からしか開かぬような作りになっているようだった。
ラルフは扉をそっと開いた。
同時に、土塊や、枯れ草などがラルフの頭の上に落ちてくる。
「うわっ!」
ラルフは土塊や草を払い落とす。
開かれた扉から月の光が二人を照らし、新鮮な空気が二人を包んだ。
「……なるほど、こんなところに出てくるのですか」
二人が出たのは魔道士団詰め所に程近い銀薄荷草の畑の真中だった。
この畑はソーナ族たちが、自分たちが飲用するための銀薄荷草を育てている畑だった。
銀薄荷草は、年中ふさふさとした緑色の葉をたくさんつけ、ひとところに重なるようにして生い茂るので、これが隠し扉をうまく隠していたのだ。
扉は深い緑に塗られ、近づいてよく目をこらして見なければそこに扉が埋め込まれているなど誰にもわからない。
二人が隠し扉から出たその瞬間だった。
「そこにいるのは誰だ?」
背後から声がかかった。
本日の当番の魔道士だ。黒いローブを着ている。
顔が見分けられないほど遠くにいたが、魔道士がこちらにやってきてからでは遅い。
「まずい!陛下。早く」
ラルフがエーレウスを呼ぶ。
二人は銀薄荷草の畑をつっきり北門と反対方向を目指す。
北門に行っても無駄なことはすぐにわかった。
当番の魔道士は一人ではない。白いローブを来たもう一人の魔道士が北門を閉鎖しようとしていた。
逃げる二人の前に光で出来た壁が現れた。
黒衣の魔道士が魔道を使ったのだ。
光の障壁は二人を閉じ込めるように取り囲み、エーレウスとラルフは逃げ場を失った。
「そこを動くな!」
逃げられない。
エーレウスは覚悟を決め、懐に隠し持った短剣をそっと取り出し、握り締めた。
ラルフはそれを見て慌てた。
「だめです。陛下……落ち着いて」
「しかし、いざという時はそうは言っていられない」
「陛下。いけません!ここで誰かを傷つけるのはまずい!」
「俺はどうしても戻らなきゃならないんだ。そのためには……」
黒衣の魔道士は光の障壁に閉じ込められた二人の側にゆっくりと近づいてきた。




