8.「母と子」
●【8.「母と子」】
買い物をしながらもフェリシダドはそわそわと落ち着かなかった。
目の前にいる黒髪の少年は、間違いなく十二年前に置き去りにしてきた我が子。
もう二度と逢うことも叶わないとあきらめていた最愛の息子。
その息子に助けられたのだ。
偶然とはいえ、なんと皮肉なことか。
そもそも、彼女はよもや自分が再びミヅキの地を踏むとは思ってもいなかった。
エーレウスをペタに送り届けるだけだったのが、いつのまにか予想以上の長旅になってしまった。
エーレウスに不自由をさせたくなかったが、それでもこの状況だ。あらかじめ用意してきた食料や着替えは不足した。
戦時下の混乱で多少は必要なものを手に入れられたとはいえ、エーレウスにこれ以上不自由な思いをさせたくはなかった。
食料を手に入れるにはホムル軍より先にアヴェリアに入るしか術は無い。
ホムル軍はアヴェリアの街の手前に布陣し、首都総攻撃の準備をしていたが、フェリシダドはこっそりとアヴェリアに入るために少し遠回りをすることにした。
ホムル軍が陣を敷く街門を避け、東側に迂回した。
フェリシダドはアヴェリアの東の森の中を無理して抜けてトト側へ抜けて、トトの街門からアヴェリアへ入ろうと考えたのだ。
東の森はろくに道もなく、切り立った崖や、迷路のようなけもの道ばかりで、よほどのことがなければ通る人も無い。
狩人や木こりが利用する林道があるぐらいで、狭くて整備されていない道は大規模な軍が通ることはもちろん不可能だ。
だが、この道ならホムル軍の野営地を避けてトト側へ抜け、アヴェリアに入ることができる。
アヴェリアに住んだ経験があったフェリシダドだから知っていた道だった。
整備されてない道を馬車でゆくのだから、かなりの無理をした。
そのため、彼女もエーレウスもひどく疲れていた。
ようやくアヴェリアに入ったとき、フェリシダドはほっとしたと同時に、少し重い気分になった。
二度と戻ることはない筈だった街に、また戻ってきてしまっただのから。
しかし、感傷に浸っている暇は彼女には無かった。
エーレウスは元気を装っているが、かなり疲労しているように彼女には見えた。
元気の出るものを食べさせなければならない。服も汚れてしまっている。
自分だってそれは同じだったが、フェリシダドは自分のことよりもまず、エーレウスを優先していた。
アヴェリアの街には顔見知りもまだ残っているかもしれないし、少なくとも必要なものを手に入れることはできるはずだ。
フェリシダドはエーレウスを乗せた馬車を安全な場所において、昔よく利用した商店に食料品を買いにきた。
歩いている最中にも、人々が自分を見る目が冷たいことに彼女は気づいていた。
仕方が無いことだ。彼女はそう思うことにした。
戦を仕掛けてきたのはホムル。それは覆しようの無い事実。
逆恨みされることは充分に予想していた。だから、彼女は目立たないようにフードを深く被って髪と顔を隠し、ひっそりと歩いた。
そして、大人しく列に並んでいた時に言いがかりをつけられたのだ。
きっかけはたわいのないことだった。
フェリシダドの後ろに並んでいた男に少し彼女の肩が触れただけだった。
男はきっといらいらしていたのだろう。
そして、彼女がホムル人と知るや、言いがかりをつけてきた。
ストレスのたまるこの状況で、鬱憤を晴らすには彼女ほど好都合なスケープゴートはいなかったろう。
いわれの無い言いがかりと罵声が飛び、ひょっとしたら危害を加えられるかもしれないと彼女は覚悟を決めていた。
そんな時、助けてくれた一人の少年。
黒髪と緑の瞳の男の子。
母親か父親がきっとホムルの出なのだろう。
そういえば、生まれてすぐに別れた我が子も父親そっくりの綺麗な緑の瞳と、自分と同じ黒髪を持つ子供だった。
自分の子……ジョアンもきっと生きていればこの子ぐらいの年になっているはずだ。
フェリシダドはそんなことを考えていた。
本当に……なんて運命は皮肉なのだろう……。
咄嗟に名乗ったのは旧姓。
息子の知らない自分のホムルでの姓。
いまさら自分が母親だと、どうして名乗ることができようか。
「ジョヴィネおばさん!ほら、果物はこっちだよ」
ジョアンがにこにこしながら話し掛けてきてフェリシダドは我に返る。
「あ……ああ、ありがとう。ジョアン」
「ねえ、ジョヴィネおばさんはずっとアヴェリアに住んでいたの?」
ジョアンが急に明るい緑の瞳を輝かせて、フェリシダドに聞いてくる。
「あ……いえ、私はジャラクにいたから……アヴェリアのことはあまりしらないの」
「ジャラク?じゃあ僕とおなじだね!僕もこのあいだまでジャラクにいたんだ」
「ジャラクに?」
息子はアヴェリアにいた筈だ。引越しでもしたのだろうか?
「うん。本当の家はアヴェリアにあるんだけどね、いろいろあって家を出て、ジャラクのホルガ先生の診療所で働いてたんだ」
「家を出た?なぜ!どうして?」
いろいろあったという部分に一抹の不安を感じたフェリシダドは思わず焦った声を出してしまい、ジョアンは不思議そうな顔をした。
「家を出たのは、おばあちゃんと一緒に居たくなかったから」
ジョアンは目の前にある林檎を無造作に籠に入れながらぽつりと言った。
「僕の髪黒いでしょ?僕のお母さんはホムル人なんだ」
「ええ。とても綺麗な黒い髪よ」
「ありがと。僕もこの髪の色は気に入ってるんだ。お母さんと同じ色だから」
「お母さんと同じだから?」
「うん。僕、お母さんに会ったことは無いけど、お母さんの友達だったって人から聞いた話ではとても綺麗な黒い髪だったって。だから僕もちょっと自慢なんだ」
フェリシダドは、息子のその言葉に泣きそうになる。
お母さんと同じ色の髪だから気に入っている……なんと嬉しい言葉だろう。
「でもね……僕のお母さん、僕が生まれてすぐに家を出て行ってしまったんだ。だから僕はずっとおばあちゃんと暮らしてた」
「おばあちゃんは元気でいるの?」
「たぶん。二年前に家出したっきり逢ってない」
ジョアンは少し目を伏せる。
その表情はどこか気まずそうだった。
「どうして、家出なんか?」
「おばあちゃんのことは別に嫌いじゃなかったよ……でもね……おばあちゃんはお母さんの悪口ばかり言う。僕のこの髪の色も嫌いだって言うんだ。毎日のようにそんな汚らしい色の髪は染めてしまえって……それはどうしても僕は許せなかった」
「……そうだったの……」
フェリシダドの胸は今にも張り裂けそうなほど痛んでいた。
苛められてはいないだろうか?つらくあたられてはいないだろうか?そればかり気になっていた。
「おばあちゃんは僕のことは好きだった思うよ……可愛がってくれたし……でもね、僕のこの髪の色と、僕がお母さんの事を聞くことは凄く嫌いだった」
「そうなの……」
「おばあちゃんは言うんだ。お前のお母さんがお父さんを殺した。あんな女は居なくなって当然だって。でも、僕は知ってる。お父さんは病気で死んだ。お母さんのせいじゃない……だから僕はもう少し大きくなったら、お母さんを探すんだ……そして、謝りたいんだ」
「謝る?なぜ?」
「たぶん、僕のせいだから」
フェリシダドはもう、気持ちを抑えられなかった。
この子は全て知っている。あの悲しい出来事を。
突然、抱きしめられてジョアンは戸惑った。
「……ジョヴィネおばさん?……どうしたの?」
「……なんでもないわ……ただ、いろいろ苦労したのねって思ったの」
「……うん」
ジョアンは心地よい温もりをなぜか懐かしく感じながらじっとしていた。
そして、フェリシダドの脳裏に蘇ったのは十二年前の記憶だった。
━━━━━━━ 「この子を置いて出てお行き!」
十二年前。
彼女は身を切られるような思いでアヴェリアを後にした。
まだ、生まれて一ヶ月ほどだった我が子を置いて出て行くことなどできなかったが、彼女はどうしても我が子を連れて行くことが叶わなかった。
守ってくれる夫は既にこの世にはいない。
息子が生まれる一週間前に、突然亡くなってしまったのだ。
臨月を迎え、まもなく子供が生まれようとしていたフェリシダドは、自分の体調があまりよくないことに気づいていた。
微熱が続き、体がだるかった。
医者に診てもらおうと出かけたのはよかったが、途中、酷い雨に遭ってしまった。
しかも、悪いことにその時の彼女の体調はかなり悪く、雨の中で倒れてしまった。
幸い、通りがかった竜王教の修道士が近くの竜王堂に彼女を運び、応急手当をしてくれたおかげで、彼女は事なきを得た。
しかし、帰ってこない妻の身を案じ、探しに出かけた夫は、何時間も雨の中を彷徨った。雨の中、街はずれで倒れていた所を発見された彼は、それが元で持病の心臓の発作を起こしてしまい、彼女が家に戻ったときには既にこの世の人ではなくなっていた。
「お前のせいだよ!ロイドはもともと心臓が弱い子だったのに、お前のせいであの子は雨の中何時間も歩いたんだ!そのせいであの子は死んでしまった!」
夫の葬儀の時、義母は泣きながら彼女を責めた。
これは不幸な事故だった、あんたは悪くないんだよと街の人たちや、彼女の友人たちは嘆き悲しむフェリシダドを慰めてくれたが、もともと彼女を嫌っていた義母は彼女に毎日のように恨み言を言った。
「竜王アヴィエールに牙をむくガイアルなんかを信仰している不届きな国の娘なんかを嫁に迎えたからこんなことになっちまったんだ!」
信心深い義母は毎日のようにそう言った。
竜王教の五柱の竜王。
それは全て同じであったはずだ。
禁じるもの、許すものの違いはあるとはいえ、本来はどの竜王を信じるのも自由だった。
ただ、いつの頃からか、それぞれ自分の信仰する竜王こそが一番であるという考え方が広まり、それ以外の竜王を信仰する者は異端だと考える風潮が根付いた。
アヴィエールを信仰するミヅキでは貞節、節制を重んじ、ガイアルを信じるホムルにはその習慣がないだけだった。
それだけのことなのに、習慣の違いと解釈の差が人の心に溝を生んだ。
彼女の夫、ロイドは「竜王を信じ、敬う心は同じ筈なのに、そういう分け隔てはおかしい」と常日頃から言う人だった。
だから、ホムルで出会ったフェリシダドに恋した彼は、彼女を妻としてミヅキに連れて帰ってきたのだ。
その夫も亡くなってしまった。
これは天罰だと思い込んでしまった義母はよりいっそうフェリシダドを忌み嫌った。
夫が亡くなって一週間後、フェリシダドは無事に男の子を産んだ。
夫にそっくりの緑の瞳と、自分と同じ黒髪を持つ男の子だった。
彼女は息子にジョアンという名前をつけた。
亡くなった夫に代わり、大事にこの子を育てようと心に決めていた。
しかし、義母は彼女から強引に生まれたばかりの息子を奪い、彼女に出て行くよう言ったのだ。
「大事な息子のたった一人の忘れ形見をまたお前に殺されてはたまらないからね!出ておいき!」
泣きながら何度もここへ置いてくれと頼んだが無駄だった。
挙句の果てには「この女が孫を殺そうとした」と義母は街の人たちに吹聴して回った。
ただでさえ目立つホムル人の彼女は奇異の目で見られ、とてもこの街にはいられなくなってしまった。
こっそりと息子を連れてホムルへ帰ろうとしたが、見つかってしまい、今度は誘拐犯だと騒ぎ立てられた。
もう、彼女の力ではどうしようもなかった。
息子を置いてはいけなかった。
だけど、彼女は追い詰められていた。
たった一人でホムルへ戻ったとき、彼女は死ぬつもりだった。
夫を無くし、子供を取り上げられた彼女はもう、生きる術を見つけられなかったからだ。
しかし、彼女はそこでエーレウスと出会った。
再び彼女を本当の息子と出会わせる鍵になる少年に。
━━━━━━━ 運命とは本当に皮肉だ。
「ジョヴィネおばさんって、なんだか懐かしい感じがする」
ジョアンは少し照れくさそうに言った。
「上手く言えないんだけど……」
はにかみながら、頭を掻くジョアンにフェリシダドは優しい笑みを向けていた。
それは我が子を慈しむ母の笑顔だった。




