24.「大樹倒れし時」
●【24.「大樹倒れし時」】
ラドリ・フェットは死の床にあった。
カイエをホムルから呼び戻して以来、彼の病が回復することはなく、彼はずっと生死の境を彷徨い続けていた。
多くの治療術士が彼の治療にあたり、多くの神官たちが彼のために毎日祈りをささげたが、彼の重い病は一向に回復する兆しを見せなかった。
ラドリの体力は日ごとに失われてゆき、一日の殆どを眠って過ごす毎日だった。
カイエは毎夜のようにラドリの元へ通い、その日の事を報告する。
昏睡が続き、話し掛けても殆ど反応することもない師に向かって、カイエはそれでも語りかけた。
その夜、カイエは暗い顔をしてラドリの元を訪れた。
ジャラク陥落の報に打ちひしがれたカイエは、とてもラドリの前で笑顔で語ることなどできなかった。
カイエの表情がどうであろうと、眠りつづけるラドリにはカイエの表情など見えないけれど。
「先生……残念なお知らせです。ジャラクが占領されてしまいました」
ラドリは眠ったままだ。
「先生。竜王が僕に与えた罰は僕が思っていたよりもはるかに過酷なものでした。多くの人の血が流れ、悲しみが国中を覆っています……先生……僕の選択は間違っていたのでしょうか?」
カイエは消えそうな声でやっとそれだけ呟くと、顔を両手で覆った。
「僕はあの時、エーレウスの命と引き換えにしてでもこの国の民の平和と幸せを護る王であるべきだったのでしょうか?」
カイエはそう言ってまた項垂れる。
「……自分の選択を疑うというのですか……?陛下」
かすれた声が聞こえ、カイエははっとしたように顔をあげた。
ラドリの目がうっすらと開かれていた。
「先生……お目覚めになっておられましたか」
「目覚めるときが……最期の時がきたようです……陛下」
ラドリはそう言って弱々しいが穏やかな笑みをカイエに向けた。
「陛下の声はずっと、聞こえておりましたよ。私の体は深き昏睡の眠りについていても、心はずっと目覚めておりました。陛下が毎日私にいろいろなことを報告に来て下さったこともわかっていました」
縦長の瞳孔を持つ紫がかった青い瞳を、眠りから目覚めたばかりの猫の目のように細め、ラドリはカイエにゆっくりと視線を向けた。
それから、半身をベッドの上にゆっくりと起こし、枕にもたれかかるようにして座ると、少し咳き込んだ。
「大丈夫ですか?先生」
カイエは慌ててラドリの背中をさすった。
「大丈夫です。まだ……大丈夫です陛下」
そう言ってから、ラドリはカイエに改めて向き直った。
「陛下。陛下の選択は間違ってはいません。もし、ミヅキの民の為にホムル王を見殺しにしたら、陛下のお心は壊れていたでしょう。さりとて、陛下のホムル王に対するお気持ちを優先してしまえば、ミヅキの民は救われず、やはり陛下は永遠に苦しまれたでしょう……だからこれでよかったのです。だからこそ、竜王も陛下を認めたのですから」
「しかし、あまりにも残酷です……僕の罪の為に多くの民が巻き添えになるなんて……」
「それでも陛下。これは竜王の慈悲です」
「慈悲ですって?」
カイエは愕然とした表情を見せた。
「これが慈悲……?こんな惨い試練が?……そんな」
しかし、ラドリは首をゆっくりと横に振った。
「竜王は本当はとても慈悲深い……選択する余地を陛下に与えたのですから。私の時は選択の余地などなかった。私の国はあの日、突然滅んだのですよ」
「ならなぜ先生は竜王の裁きを慈悲と仰られるのですか?」
「罪は私ひとりの罪にあらず。あれは魔道を過信するあまり、信仰を忘れたソーナの民への罰でもありました。ただ、その中でも自ら魔道の過信を民に薦め、民から竜王信仰を完全に奪った私の罪が最も大きかったのです」
「……そんな」
カイエは首を横に振りつづけた。
「すべては女神の意思」
「女神の意思?竜王ではなく?」
「そうです。竜王が自らの領地を滅ぼすなどよほどでなければありえない。これは女神デーデの意思です。竜王の最も重要な頭の鱗から生まれた王家の血筋の者は、いわば竜王の代理人。その代理人が堕落するは竜王の落ち度。女神はそう判断したのです」
「竜王は女神に逆らえないのですか?」
「そうです。竜王が最も恐れるのは女神デーデです。」
「契約と監視の女神デーデ……」
ラドリはゆっくりとうなづいた。
「陛下。女神が竜王の上位神でありながら、どうして竜王教信仰の対象になっていないかご存知ですか?」
「いえ……。前々から気にはなっていましたが」
「女神は竜王を殺す存在だからですよ。陛下」
「竜王を……殺す存在?」
カイエは眉を少ししかめ、怪訝そうな顔をした。
「創生神話はご存知でしょう?」
「はい」
「女神デーデは創造主の代理人です。そして、常に竜王達を監視しています。五柱の竜王の力関係のバランスが崩れたとき、創造主の言いつけどおり、監視の女神は竜王の急所を剣で貫き殺すのです……」
「創生の神話にありますね。確かに」
「神話の時代から長い年月を経て、竜王の存在は形骸化してきました。竜王たちは自らの鱗から作った人間に領地を任せ、殆ど沈黙しています。祈れども奇跡が起こることは殆どなく、人々の中には竜王を軽んじる者も現れ始めています」
「ええ」
「女神は上位神でありながら竜王を滅ぼす存在。竜王教という宗教が人々の中に生まれた時、人々は自分たちのルーツである竜王を滅ぼす存在である女神を恐れ、敢えて信仰の対象から外しました。ただ、別格として敬うのみとしたのです」
「女神のことが多く語られていないのはそのせいだったのですか……」
「ええ。ただ、女神のみを信仰する隠された一族がいる事は知られています。ただ、彼らがなんという一族で、どこに住みどうしているのかは竜王教総本山の最大の秘密となっているのです」
カイエは初めて聞く話に驚きを隠せなかった。
「聞いたことがありません……そんな話は」
「竜王教最大の禁忌ですから知らなくて当然です。歴代の神官長以外は知りえぬ情報です。私は長く生きていますから知っていますけどね」
ラドリはそう言って笑った。
「なぜ隠されているのですか?」
「彼らは女神が地上に降臨するときの唯一の拠りしろとなるからです」
「女神が地上に降りる……そんなことがあるのですか?先生」
ラドリはその問いには答えず、ただ微笑んだだけだった。
「さて、話を戻しましょう陛下……。竜王の領地が荒れたとき、起こることはなんだと思いますか?陛下」
「……戦……でしょうか?」
「そうです。もし、ホムルがミヅキを完全に滅ぼせば、アヴィエールの領地はガイアルのものとなり、ガイアルとアヴィエールの力関係は崩れます」
「侵略戦争は今までにもあったではないですか」
「ええ。しかし、五つの国の首都が陥落したことはいまだかつて一度もありません。竜王神殿のある聖地は王家が管理する首都の直轄地。その首都が侵され、王家が途絶えることが意味するのは何か……陛下もおわかりになるでしょう?」
「ええ……では、なぜ竜王アヴィエールはこの戦を止めてくれないのです?」
「それは……」
ラドリは少し困ったような顔をして、それから改めてカイエの顔をじっと見た。
猫の瞳のような縦長の瞳孔が細く開いている。
「陛下が女神デーデの『裁きの翼』の片翼だからです。」
「……僕が……裁きの翼……?」
「そうです。裁きの翼が生まれるとき、必ず戦が起こります。それゆえ竜王はそれを止められないのです。この戦は決まっていたことだから……」
「先生は……ご存知だったのですか?この戦が起こることを。そして、裁きの翼って何なんですか?教えてください!先生」
あまりに突然のことで、カイエは混乱していた。
「陛下……残念ながら私も最近まで知らなかったのです。私の命が尽きることが竜王から知らされたとき、陛下が裁きの翼の片翼であること、そしてこの戦が起こるべくして起こったものであることを聞かされたのです」
カイエは全身から力が抜けるような感覚を覚えた。
これはもしや、はじめから何か大きな力によって仕組まれたことだったのか?
そして、自分はそれにより弄ばれていただけにすぎなかったのか?
「陛下……もう、私にはあまり時間がありません……ですから、最期に神話の時代からソーナに伝わる詩をお教えしましょう……女神の纏う五つの武具についての詩を」
ラドリは大きく息を吸って、それから穏やかな声でまるで歌うように言葉を紡ぎ始めた。
それは草木の王の手になる精緻な織物から作られなければならない
千の花弁と千の蔓、草木の精が千日かけて染め上げた繊細な糸は
稀有なる歌声の乙女と青年の祈りの歌で清められ
草木の王の手で織り上げられる
女神が纏いしその時は、黒き竜王の毒さえ消し去る衣となろう
それは大いなる智恵を持つ者の命でなければならない
思慮深く、未来を見通し過去を理解し、聡明な判断をする者の知力がなければならない
女神が被りしその時は、翼竜の起こす嵐のつぶてより女神の頭を護るだろう
それは神なる者に愛された命でなければならない
純粋な想いに身を捧げた者の愛でなければならない
固き愛の力がこめられしその楯は全ての災いを防ぐもの
女神が掲げしその時は、炎の竜王の吐き出す炎をも防ぐだろう
それは乙女の命でなければならない
正義を愛し罪を犯さぬ清き心の乙女でなければならない
しかし、剣となる乙女の命を包む鞘が必要である
鞘は強力な魔道で守られていなければならない
女神が振るいしその時は、氷の竜の氷柱も一閃で砕くだろう
それは完全なる対をなすものでなければならない
同じ年頃の少年の命でなければならない
少年は重き罪をその身に含んでいなければならない
女神が翼開くとき、空の色のしたその翼は水の竜の起こす嵐にも負けぬだろう
女神がすべてを纏うとき
罪深き竜王は古の契約に従いその急所を晒すだろう
そして、裁きが下されるとき
女神は剣を振るい竜王を土に返すだろう
ラドリは語り終わると大きな息を吐き出し、また、ベッドに横たわった。
「……これが、私が陛下にお伝えできる全てです。裁きの翼は陛下と、対となられるもう一人の中にある。陛下の対が誰であるかは、もうおわかりになりますね?」
カイエはだまってうなづいた。
そして、新たな覚悟を決めた。
裁きの翼。
それが自分に課せられた役目。
本当の罪の償い。
逃れられぬ運命なら、しっかりと受け入れる。
「僕が女神の裁きの翼になれば、民は……ミヅキの民は救われますか?」
「それが女神の意思なら、悪いようにはならないでしょう……五年前に竜巫女が見た夢……ミヅキの王宮から鳥が飛び立ったとき、天から光が差し、黒い霧は晴れたといいます……竜巫女のイーラ殿に再びお会いになるといいでしょう」
「はい……」
カイエの言葉を聞いて安心したのか、ラドリは薄く微笑んだ。
その笑みは頼りなく、いまにも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
彼に最期の時が近づいているのはもはやカイエの目にも明白だった。
「私の仕事は全て終わりました……やっと眠ることができます……陛下。おつらいでしょうが運命を全て受け入れてください。でも、受け入れた運命に振り回されずに信じた道を進んでください……」
「先生!」
ラドリはゆっくり目を閉じた。
その寝顔は安らかで、満足そうに微笑んでいた。
長き時を生きた老魔道士は、ようやく安らかな眠りについたのだ。
「先生!嫌です!まだ逝かないで」
しかし、ラドリの閉じられた目はもう開くことはなかった。
「……先生」
カイエはがくりと膝をつき、ラドリのベッドの側にうずくまる。
その時、一陣の風と共に、大量の桜の花弁がひらひらと落ちてきて、横たわるラドリの頭上から降りそそいだ。
そして、あっというまにラドリの体を桜の花弁が埋め尽くす。
「……桜翁……様?」
ラドリの古い友、草木の王の手による技だろう。
桜の花弁でラドリの体が埋め尽くされると、再び強い風が吹き、桜の花弁は窓の外へ散っていった。
まるで雪のように、儚く散りゆく無数の花弁。
ラドリのいたベッドには何も残っていなかった。
「先生……」
その時、カイエの頭の中に桜翁の声が聞こえた。
「どんな大樹でもいつかは倒れるものじゃ……しかし、それを嘆き悲しんではいけない。それは自然なこと。倒れた大樹のあとには、新たな若芽が生まれるのだから」
夜空の彼方に無数の桜の花弁が風にのって消えてゆく。
散り行く花弁を見送りながらカイエはいつまでもその場を離れなかった。




