21.「白の記憶」
●【21.「白の記憶」】
真夜中にエフィは目を醒ました。
目を醒ましたというよりは、あまりよく眠れなかったと言った方がいい。
ベッドではセルソが軽い寝息をたてて幸せそうに眠っていた。
この少年をクラウから守らなければならない。
物心ついた頃から修羅の中に暮らし、岩ばかりの山ではない、緑生い茂る美しい山に登りたいというささやかな夢を持ったこの少年を。
部屋が乾燥しているのだろうか?
喉がカラカラだった。
エフィは寝ていたソファから起き上がり、台所の水瓶から水を一杯汲んで、それを一気に飲み干した。
冷たい水はエフィの目を完全に醒まさせてしまった。
出窓になっている窓辺に腰をかけふと見上げると、裏町のごちゃごちゃした街のどん底から見える四角い空に浮かぶほぼ満月に近い月が、明るく街を照らしていた。
エフィはそのままぼんやりと空を見つめた。
黒のクラウとオリベイル・カラン。
常に黒い衣装を纏い、鴉を意味する通り名を持ち、ミヅキ人の親友に裏切られたという経歴を持つ男『黒のクラウ』。
不思議な符号で一致する二つの名前。
━━━━━━━『私の黒い服は喪服だ。私が命を絶った者への手向けのな』
あの日聞いたオリベイルの最後の言葉が今もはっきりとエフィの記憶に残る。
忘れていた筈だった。
いや、そうじゃない。
忘れていなかった。忘れるはずなどなかった。
あの忌まわしい思い出が十年やそこらの歳月で消せるはずなどない。
月はそんなエフィを優しく銀色の光で照らし出した。
月光は街から色を奪う。
銀色と黒のモノクロームの世界。
連想するのは白い世界。
白い……白い……雪。
ミヅキの北の国境、トトからそう遠くないホロの原野。
心が過去へ飛ぶ。
忌まわしい過去へ飛ぶ。
エフィの心はそのまま十年前に飛んでいた。
覚えているのは、どこまでも平らな雪原だった。
━━━━━━━白い。命の気配の無い白い世界。
記憶にあるのはただ白一色の世界だった。
モノクロームの世界。
色を失った山。鈍色の空。
一本の木すらない、ただ平らな平原。
白一面の雪野原……。
十年前のあの日、自分の剣で彼の腹を深々と刺した。
あの時の生々しい手ごたえをまだ覚えている。純白の雪を赤い血がゆっくりと染めていくのを、オリベイルが動かなくなるのを。
仕方がなかった。
彼を刺さなければ自分が殺されていた。
彼によって深手を負わされ、それでも自分は最後まで彼を傷つけまいと思いつつ戦ったあの日。
彼の信念を拒絶し、そして別離を告げたあの日。
それを裏切りと言わずして他に何と言うのか?
裏切ったのはたぶん自分のほうなのだろう。
どちらかの命が尽きるまでと固く誓った友情だった。
だけど、脆くも壊れ、砕け散った薄っぺらな誓いだった。
かつて死にかけていた自分の命を救い、三年のあいだ慈しみ守ってくれたオリベイルが望んだのは他ならぬ親友である自分の死。
「お前が悪いんだエフィ……どうして、わかってくれない?」
違う。
そうじゃない。
「……エフィ……お前まで奴らと同じことをするのか?」
心無い人たちの言葉が、仕打ちが、オリベイルを壊した。
オリベイルの悲しみを、嘆きを理解していないわけじゃない。
だけど違う。
復讐はなにも生み出さない。悲しみの連鎖に捕らわれれば、さらに悲しみを生み出すだけだということに何故気付いてくれない?
神に背を向けること。
命を乞う人を殺すこと。
それは、間接的に自分を殺していることにどうして気付いてくれない?
「私がお前のことを何も考えていなかったと思うんだな?……哀しいよ……哀しすぎてお前を殺したくなるよ……エフィ」
違うんだオリベイル……聞いてくれ。
言葉は届かない。
オリベイルは雪の中で笑う。出会った頃の優しい笑顔で。
泣きながら、笑う。
たとえ何を言われても負けない。最後に笑うのは私だといつも言っていた彼は言う。
「信じていた自分が馬鹿だったよ」と。
あの時の自分は気付いていなかった。
オリベイルが信じるという心を完全に破壊されていたということに。
先に傷ついたのは自分のほうだった。
本当に、殺されると思った。
オリベイルは刃をゆっくり引きながら自分の耳元に囁いたのだ。
腹をじわじわと裂く冷たい刃。
氷点下のホロの寒さが、刃に伝わり体中の血を凍らせる。
流れる血は深紅。目の前は純白。
雪の上に落ちた血が、薔薇のような染みをつくり、広がってゆく。
「だってそうだろう?奴らが私にしたことを思えば……」
━━━━━━━だが……。
本当に彼は自分を殺す気があったのだろうか?
それとも憎しみのあまり弄りたかっただけなのか?
向けられた刃は平行だった。
殺すならそのまま深く突き立てればいいものを。
だけど、オリベイルは自分に止めを刺さなかった。
ただ、血まみれの顔でにやっと笑い、そのままじっくり刃を引いた。
痛みは感じなかった。
ただ、流れる血が暖かかったのを覚えている。
切られた時、自分の腹からとめどなく血があふれ出るのが不思議だった。
そして怖かった。
本当に親友を怖い、憎いと思った瞬間だった。
殺さなければ殺される。
まだ死にたくない。
生きたい……。
やっとのことでオリベイルの手を振りほどき、逃れた。
彼はこの上なく悲しい顔をする。
生きることへの執着か、それとも本能的なものだったのか。
自分でも信じられないスピードで、彼の体に刃を突き立てた。
その時、何も感じなかった。
いや、そうじゃない。
ホッとしたのだ。
安堵したのだ……。
過去の幻影に何度エフィは悩まされたことか。
真っ白なあの地獄に、何度眠りを妨げられたことか。
忘れてなど……いない。
ひとつだけ、はっきりしていることがある。
もしも、オリベイルが十年前のままなら、今度こそ本当に止めを刺す。
友情が醒めたのではないのだ。
むしろ今も思っている。
親友と呼べるのは後にも先にも彼だけだ。
だから、決めた。
まだ、彼があの十年前の悪夢に捕らわれているなら、彼をこの手で討たなければならない。
彼を悪夢から解放するために。
自分を悪夢から解放するために。
そのために、自分は彼を━━━━━━━ きっと殺すだろう。




