2.「竜巫女の館」
【2.「竜巫女の館」】
国王の葬儀が済んで一月が経った。
亡くなった前国王、セオドア・ルア・エフィニアス・ミヅキは「飛翔王」の諡と共に歴代の王が眠る「聖竜王の丘」に丁重に葬られた。
悲しみに暮れていたミヅキの国内も、国王の喪が明け、徐々に活気を取り戻していた。
王位継承者であるカイエ・ルア・エフィニアス・ミヅキは、十二歳という年齢のため王位を継げず、王位を継承できる十七歳を迎えるまでは、前国王妃のエリサが摂政という形で国政を担うことになった。
カイエは次期国王として相応しい教育を受ける日々だった。
馬術、剣術はもとより、身を守るための格闘技、語学はデーデジア公用語の他に西の黄土大陸の彩岩楼語も学んだ。
世界の歴史、そして、国教である竜王教についても学んだ。
それまでのカイエは王位を継ぐための勉強は決して好きな方ではなかったが、父の暗殺事件があって以降は早く立派な王になりたいという思いを持ち、勉強にも真面目取り組んだ。
その中でもカイエが特に好んだのは、馬術と剣術。
講師は近衛師団長のエフィ・タチバナだった。
彼はタチバナ侍従長の長男で、今年二十五歳になったばかり。
若くしてこの要職に叙されたのは父親が侍従長だからというわけではない。彼の実力だった。
十五歳で軍に志願してからは、地方の反乱を押さえたり、大規模な盗賊団の摘発するなど数々の戦績をあげ、めきめきとその頭角を現し、若干二十二という若さで近衛師団長の地位についた。
エフィ・タチバナは暗いブラウンの髪と同色の瞳の長身の若者で、カイエが物心ついたときから兄のように慕う青年だった。
その鮮やかな剣の腕前はミヅキ随一と謳われた。また、その剣さばきは颯爽と飛ぶ燕のような速さと優雅さで、対峙する相手をも魅了し、いつしか彼は「飛燕」という異名を持つようになった。
剣術と馬術以外にカイエが好んだのは、神官長から学習する国教についての学習だった。
ミヅキの国教は五頭の竜を神とする「竜王教」。
竜王教にも流派があるが、ここミヅキは水の竜王アヴィエールが封じられているという聖地「鏡湖」をその領土に持ち、またミヅキの民はアヴィエールの鱗から作られた水の竜の民の末裔である。それゆえミヅキは水の竜王アヴィエールを深く信仰する国だ。
鏡湖の湖畔にあるアヴィエール神殿の神官長、エセル・エフィニアス・ミヅキは先王の弟であり、カイエの叔父にあたる。
王弟であるにも関わらず、エセル・エフィニアス・ミヅキが国王崩御の際に摂政職につかなかったのは、彼が竜王に仕える神官長だったためだ。
神官長は王位を継承する王太子を除く、王族の中よりもっとも相応しいされる男子が先任の神官長から指名されて選ばれるのだが、ひとたび神官長の任に就くと、王位にかかわる全ての権利を放棄しなければならない。
その代わりに特別な力をいくつか授けられ、神殿と竜王の声を聞くことができるとされる『竜巫女』を守る力を得ることができる。
エセル・エフィニアス・ミヅキは現在四十歳。兄が王位に就いた直後、三十歳の時に神官長の地位を得た。穏やかで思慮深い彼は、十年という短い在位でありながらも国中の信者からの信頼を集める人徳の持ち主だった。そして、カイエはそんな叔父のことを尊敬していた。
ある日の午後。
いつものように、アヴィエール神殿に赴いたカイエは、竜王教の歴史についてエセル神官長から講義を受けていた。
「殿下、どうなさいました?」
エセル神官長は、いまひとつ勉強に身の入らないカイエに声をかけた。
「あ、申し訳ありません叔父上」
「何か、気になることでもあるのですか?」
「いえ……そういうわけではないんですが、なんだか今日は神殿に来てから誰かに呼ばれているような気がして、そわそわしてしまって……申しわけありません」
カイエは少し焦ったように、パラパラと手元の本のページをせわしなくめくった。
「ふむ……」
エセル神官長が幼い甥の慌てぶりを微笑ましく思いつつも、講義を再開しようとしたその時、窓から一羽の白い鳩が飛び込んできた。
「鳩だ!」
カイエは珍しい闖入者に目を輝かせた。
エセル神官長は窓枠に首をかしげて止まっている白い鳩を見ると、カイエに穏やかな笑顔を向けて言った。
「殿下は感覚が鋭いようですな。竜巫女が殿下を呼んでいるようです」
「え?」
「この鳩は竜巫女の使いの鳩です。ほら、足に金の輪が嵌めてあるでしょう? 竜王から何かお告げがあったのかもしれません。竜巫女の館へ行ってみましょうか」
「竜巫女様に会えるのですか?」
「ええ。竜巫女が殿下を招いているのですから会えますよ。参りましょうか」
「はい!」
竜巫女は竜王を召喚し、その声を聞くことができる女性の神官。
竜巫女は鏡湖の中央の浮島にある館に一人で住んでいる。
竜王の声を聴く役目の竜巫女は、心を乱さず、体を汚さぬ為に純潔を保ち、結婚も恋愛も許されない。
殆ど人と会わずにその一生を過ごすのだ。
神官長ですらめったに会うことが叶わない竜巫女は、竜王からのお告げがあった時や、何かを予言したときにのみ、連絡の白鳩を神官長のもとに差し向けるきまり。それ以外は神官長といえど、彼女の姿を見ることは殆どないという。
対岸が見えないほどの広さがある鏡湖の中央にある小さな浮島。
竜巫女の館はそこにあった。
館のある浮島には橋もかかっておらず、船でもたどり着くことが出来ない。竜巫女の住む浮島に船を近づけようとすると、湖は荒れ、どんな頑丈な船でも沈んでしまう。
また、浮島であるために常に鏡湖の中で移動しており、正確な位置すら掴むことはできない。
館に行くことができるのは神官長以外には彼女自身が自ら招いた客のみだ。
鏡湖のほとりに神官長とカイエは立った。
その名の通り、磨き上げた鏡面のように滑らかで、波ひとつたたない鏡湖のほぼ中央に位置する小さな浮島が竜巫女の住む館だ。
カイエたちが湖畔に到着すると、浮島はまるで滑らかな板の上を滑るようにすうっとこちらに近づいてきた。
少し泳げば渡れるのではないかという距離まで近づいてきて、浮島はようやくその動きを止めた。
「叔父上。あそこへはどうやっていくのですか?泳いで渡るのですか?」
神官長は笑いながら言った。
「まさか?たとえ泳いで行っても、島はどんどん離れていきますよ。あの島に渡る方法は一つしかないんです」
「ではどうやって?」
「この白鳩を使うのですよ」
気づくと、先ほどの白鳩が神官長の肩に大人しく止まっていた。
「さあ、お行き」
神官長は白鳩を肩の高さまで上げた手の甲に飛び移らせると、ゆっくりとその手を竜巫女の館の方角へ向けた。
次の瞬間、白鳩は勢い良く空に舞い上がり、館の方角へ飛んでゆく。
「あっ! これは」
カイエは驚嘆の声を上げた。
白鳩の後に続くように虹色の光のがすぅっと館の方角へ伸びていったのだ。
「光の路がかかりましたね。さあ、行きましょう。光が消えてしまわないうちに」
エセル神官長は少し躊躇するカイエを促すようにして光の中に足を踏み入れた。
途端に二人の体は浮き上がり、次の瞬間にはもう、館の前に降り立っていた。
「すごい!」
カイエはまだ、少し興奮が冷めないのか、せわしなくきょろきょろとあたりを見回した。
「ようこそお越しくださいました。王太子殿下」
いつのまにか彼らの目の前に小柄な老婆が立っていた。
かなりの高齢のようだが、弱々しげな印象はなく、むしろ若々しささえ感じる。
少しウエーブのかかった銀灰色の長い髪をひとつに束ね、黒曜石の髪留めで止めている。その髪は僅かに光を帯びており、日の光にキラキラ輝いていた。
瞳も同じ銀灰色で、その瞳は微笑むようにカイエを見ていた。
噂に高い『デーデの御印』。銀灰色の髪と瞳は契約と監視の女神デーデの姿と同じ。そしてこれこそ彼女が竜巫女である証だ。
「お初にお目にかかります。わたくしは竜王アヴィエールの竜巫女、イーラ・トチと申します」
イーラはうやうやしくお辞儀をした。
「イーラ殿、ご無沙汰しております……」
「神官長もずいぶん立派になられましたね。前にお会いしたのはいつだったかしら?」
「はい。私が神官長に就任した年にお会いして以来です」
「あら……ではもう十年ほど経ってしまったのね。ここに一人でいると時間の流れがよくわからないのよ」
イーラはそう言って微笑む。まるで少女のような無垢な笑顔だった。
「ところでイーラ殿。殿下にわざわざお越し頂いたのには何かよほどのことがあったとお見受けしますが?」
「ええ、神官長殿。ちょっと気がかりなことが……ご説明致しましょう。どうぞ館の中へ」
竜巫女の館は美しい館だった。
鏡のように磨き上げられた床、廊下や各部屋にさりげなく飾られた美しい花々、綺麗に手入れされた中庭。
竜巫女以外には誰もいない筈なのに、まるで多くの使用人がいて、常日頃から館を美しく保っているように見える。
不思議そうな顔をしているカイエに、イーラはにっこりと微笑んだ。
「今、お茶をお出ししますね。殿下の疑問はそれで解決するでしょう」
「はい」
カイエはイーラの言葉の意味がよく理解できず困惑していた。
「殿下。お茶は何をお召し上がりになられますか?」
「なんでも結構です。お茶は何でも好きですから」
「では、銀薄荷茶でよろしいですか?」
「はい」
イーラはどこへともなく声をかけた。
「銀薄荷茶を陛下と神官長殿に。栗のタルトもつけてちょうだい」
カイエはますます不思議に感じた。
イーラはいったい誰に向かって呼びかけているのだろう?
しばらくすると白い服を着た一人の少女がポットとカップ、それに菓子の皿を載せたトレイを運んできた。
「ご主人様。お持ちいたしました」
「ありがとう。ユーリ」
「失礼致します」
ユーリと呼ばれた少女はカイエたちのカップにお茶を注ぎ、菓子の入った皿を置く。彼女がカイエのすぐ側を通った時、微かによい香りがした。
「イーラ様、竜巫女は一人で暮しているのではないのですか?」
「ええ、殿下。わたくしはひとりでここに住んでいます」
「でも……」
カイエはユーリと呼ばれた娘をちらりと見た。
「ユーリは……この娘は人間ではありませんから」
「えっ?」
カイエはユーリをじっと見た。ユーリは微かに微笑んでカイエに会釈した。
「ユーリはこの館の花の精。ユリの花の精だからユーリと名付けたのよ……他にもこの館には沢山の花の精たちがいて、わたくしの世話をしてくれます」
「そうだったんですか……」
カイエは初めて知る真実に驚いていた。竜巫女の生活など、普通は知ることができないものだ。そうしているあいだにも、ユーリは仕事をテキパキとこなし、気付かぬうちに消えていた。
「みな、わたくしの仲のいいお友達です。だから寂しくはありませんのよ」
「よかった……竜巫女様は一人ではなかったのですね」
「わたくしのことを気にかけて下さるのですか?殿下」
「はい。竜巫女様は一人できっとお寂しいのだろうと僕は思っていましたから」
「殿下はお優しくていらっしゃる……さあ、お茶がさめないうちにどうぞ。殿下」
島の外から来た人間と久しぶりに話したのが楽しかったのだろう。イーラはとても饒舌で、カイエやエセル神官長にいろいろな質問をして、外の世界のことを聞きたがった。
そして、お茶のポットが空になる頃、イーラはやっと本題について語り始めた。
「実はわたくし今朝、気がかりな夢を見たのです」