1.「嘆きの朝」
【1.「嘆きの朝」】
砂混じりの乾いた風が南西の方向から吹いてくる。
風は、硬く閉ざされた鎧戸を僅かに軋ませるように吹き付け、その部屋の中で眠る者の眠りを妨げた。
石造りのその部屋はとても質素で、華美な装飾も殆どなく、一見して身分の高い者の住む部屋には見えなかった。しかし、よく見ればひとつひとつの調度品は質素ながらも気品が漂い、さりげなく美しい細工が施されており、名のある匠の手になる品物だということが伺える。
部屋の隅には小さなベッドが置かれ、その部屋の幼い主が眠っていた。
風の音で眠りを妨げられた少年は、不機嫌そうな声を上げて寝返りを打つ。
何度か寝返りを打ってみたものの、やはり心地よい眠りの園へ戻ることはできなかったらしい。
少年は何度か顔を掌でこすり、のろのろと上半身を起こしてちいさな欠伸をした。
年齢は十二〜三歳ぐらいだろうか。
柔らかい色合いの亜麻色の髪に春の野のような淡い緑の瞳の小柄な少年だ。
目を覚ましたばかりの彼はベッドから降りると窓際に向かい、子供の手には少し重い鎧戸を開ける。
少し建てつけが悪いその鎧戸はガタガタと軋むような音を立てて開いた。
ひやりと冷たい朝の風が少年の白い頬を打ち、その目を完全に覚まさせた。
夜はまだ完全に明けきっておらず、東の方角がぼんやりと明るくなっているばかり。
天候はあまりよくないようで、西の方には暗灰色の雲が重く垂れ込めている。
まだ、本来の起床時刻には随分早い時間のようだった。しかし、少年はもうベッドに戻って眠りなおそうという気は起こらなかった。
もう暫くすれば世話係のマリカが彼を起こしに来るはずだった。それまでは何か本でも読んで過ごそうと、彼が本棚に近づいたその時だった。
コツコツとドアを叩く音がした。
「殿下……カイエ殿下。お休みのところ申し訳ありません」
聴きなれた低い声がドアの向こうから聞こえた。
「……タチバナ?」
侍従長のジーア・タチバナの声だった。
侍従長自らカイエを起こしに来ることは希だ。しかも、こんな時間に。
胸の奥にチリっとした、いやな感じがする。あまりよくない知らせの予感がした。
「緊急のご用件で妃殿下がお呼びです。今すぐお支度を」
「母上が?」
「はい」
「ちょっと待って」
カイエがドアを開けると、侍従長のジーア・タチバナがそこにいた。五十代半ばぐらいの白髪混じりの男だ。カイエの世話係のマリカ・セリも一緒だった。
いつも柔和な笑顔を絶やさぬ彼の表情は珍しく重く、何か只ならぬ事が起こったことは幼いカイエにも容易に想像がついた。
「何かあったの? タチバナ」
カイエが尋ねてもタチバナは何も言わず、ただ「参りましょう」とだけ言った。
「殿下。これを」
マリカがカイエの肩に暖かな毛糸の上着を着せ掛けた。
「ありがとう。マリカ」
そう言いつつカイエはマリカを見上げる。
いつも朗らかなマリカもなんだか今日は少し悲しそうな顔をしていた。
カイエが連れて行かれたのは母の部屋ではなく、何故か父の部屋だった。
豪華な装飾が施された真鍮の重いドアが開かれると、中には大勢の人間が既に居た。
「カイエ!!」
二つ年上の姉、セリアが飛び出してきて、いきなりカイエの小さな体を抱きしめた。
「姉上?」
「カイエ……父上が……父上が…」
セリアはカイエと同じ美しい緑色の瞳に溢れんばかりの涙をいっぱい貯めていた。
姉の肩越しからは人だかりしか見えない。
人々が集まっているのは父のベッドの周りだった。
カイエは嫌な胸騒ぎを覚えた。
セリアに手を引かれ、カイエは父のベッドに近づく。
大臣や侍従、医師に囲まれベッドでは父が眠っていた。母はその傍らに静かに目を伏せて座っていた。
「母上……?」
「カイエ……父上が亡くなりました……」
いつも朗らかな母の声が今日は暗くて重い。
「亡くなった? 母上……今、母上は僕になんと言いましたか?」
信じられない。これは聞き違いかもしれない。カイエは心の中で母の言葉を否定する材料を探していた。
死んだなんて嘘だ。ここにいる父上は眠っているだけに違いないんだ。
「嘘ですよね、母上。僕は母上にからかわれているんでしょ?」
こんな時なのに、カイエは必死で笑顔を作ろうとした。
これはきっと夢だ。
カイエは夢から覚めようと、自分の頰を自分でぴしゃりと叩いてみたりした。
じんとした痛みを感じるが、状況は何も変わっていなかった。
母は悲痛な眼差しをカイエに向け、再び静かに言った。
「カイエ。落ち着きなさい。父上は亡くなられたのです。これは嘘でも夢でもありません」
母は呆然と立ち尽くしているカイエの手を取り、自分の傍に引き寄せた。
「父上のお顔に触ってごらんなさい」
母に導かれるまま、カイエは眠る父の頰にそっと指を触れた。
その頬は氷のように冷たく、それがカイエに父の死を確実に感じさせた。
間近で見た父の寝顔は穏やかなそれではなかった。苦悶の表情で、眉が苦しげに寄せられていた。きっと苦しい最期だったのだろうと容易に想像できた。
父の首に巻かれた白い包帯が、カイエに改めて現実を見せつける。
「父上は昨日までお元気だったのに……なぜ亡くなったのですか?」
声が震えていた。
カイエはこれだけ言うのが精一杯だった。
「陛下は昨日の夕方、フェロウ狩りにでかけました。そこで、何者かにいきなり毒矢で射られたのです」
タチバナが絞り出すような声で言った。その声には無念さが籠っている。
「私があの時、陛下を無理にでもお止めしていればこんなことには……昨夜は新月だったので、森の中は危険だからと申し上げたのですが……もっと強くお止めしていれば」
タチバナは壁に拳を打ち付ける。ぎゅっと閉じたその目にはうっすらと涙が見えた。
「タチバナ。あなたのせいではないわ。あなたが止めてもあの方は狩りに出かけたでしょうから」
フェロウは夜行性の鳥で、夕方から夜にかけて限られた場所にのみ現れる。
全身が淡い金色に輝く鳥で、この国にしか生息していない。その羽は装飾品としての価値が大変高く、尾羽一本でも庶民が一年裕福に暮らせるほど値段がつくのだ。
特に新月の夜は出現率が高いため、新月の夜はフェロウが生息する場所では狩人どうしが暗闇の中で出会い頭にぶつかると言われるほどだ。
この貴重な美しい鳥を、夜目が利き難い夜の狩りでいかに多く狩るかがこの国の王侯貴族達の遊びのひとつだった。
そして、国王はフェロウ狩りを心から愛していた。
しかし、王族の領地のフェロウの猟場は王族と一部貴族にしか開放されておらず、安全だったはずなのに。
「では、父上を襲ったのはフェロウの密猟者ですか?」
「いいえ」
王妃エリサは首を横に振った。
「父上は、背後から首を矢で射抜かれました。夜の狩場で馬上にいた父上の首を正確に射抜く腕を持つ者はただ者ではありません。恐らく、父上は誰かに狙われたのでしょう」
「背後から狙うなんて卑怯な……」
カイエはあまりの怒りに拳をぎゅっと握りしめる。
「さぞ無念であったことでしょう。反撃する間もなく、突然命を奪われたのですから」
エリサは夫の額を優しく撫でながら涙をこぼした。しかし、その声は強く、震えてもいなかった。
「陛下のお命を奪った不届き者は、我らが草の根を分けてでも探し出します」
内務大臣のエノラ・サクラは悔しそうに拳を握り締めている。
「頼みましたよ、サクラ」
「はい。この命に代えましても!」
エリサはカイエを自分の近くに招き寄せた。
「カイエ……いつまでも悲しんではなりません。父上にしっかりと最期のお別れの挨拶をなさい。次の国王はあなたなのですから」