第十一話 飛行
しがみついたまま、失礼。
あれから……小一時間程経ったろうか。
顔が胸の谷間に埋まる中……俺は鉄の精神力を発動し、平常心を保ち続けることに成功。
なんとか、雷力をイン子に供給出来ていた。
「……血潮は鉄で心は硝子だ」
――そう、これが俺の精神強化呪文。
「「先程から何をブツブツ言うておる?」」
「う、頼むから動くな……集中させてくれ」
なんという脆さよ、俺の固有結界。
イン子の方も、雷力を受け入れることに馴れたのか多少は集中しやすくなった。
だが、油断は禁物だ。
心を乱して供給を怠たれば、俺等は真っ赤な海……死の海に落ちることになる。
それは避けねばならない。
これが噂の精神戦というやつか。
緊張の中、嬉しい誤算もあった。
肉体面の心配は、殆どないってことだ。
長時間、イン子にしがみついていても、手足の疲れを感じない。
イン子がさり気なく、俺の背中に手を回して支えてくれているのもあるが、間違いなく、持久力が向上しているおかげだろう。
俺はしがみつきながら、首を捻って赤い海に目を落とす。
真っ赤……まるで血の海。
海面からは赤黒い『瘴気』が立ち込め、辺り一面の視界を奪っている。
瘴気で、はっきりとは見えないが、海の下に何かが蠢いているのを感じる。
「なぁイン子、海の中に緑色の影が沢山見えるが……あれが例の生きる屍か?」
「「そうじゃ……少し見ていくか」」
スピートを落とし停止すると、イン子は体の向きを変え、空中に留まる。
俺は、手をイン子の首に回し体制を整えた。
「「来るぞ、よう見ておれ」」
イン子はそう呟くと、海面を見つめた。
俺もそれに習って海面を見つめる。
暫くして、水面下に沢山の影が群がる。
グール共が海面から勢いよく飛び跳ねる。
十、二十どころじゃない……なんつー数だ。
グールは俺とイン子に襲いかかろうと、海面から必死に飛びかかってくる。
当然、空にいる俺達には届かないが、奴等は決して諦めない。
ドロドロの生物は、苦しそうに俺達に向かって必死に手を伸ばすのだ。
「「考える頭もあるまい、まさに生きる屍よ」」
イン子はじっと見つめた後、冷淡に言い放った。
部分部分、朽ちた体を必死に伸ばす、その大量のグール。
大量に集まり、密集したこの場から、生臭い臭気が立ち込める。
腐った、生臭い臭い。
それが俺の鼻を刺激し、酷く気分を悪くさせる。
諦められないのだろうか。グール達はお互いの体を梯子にしてまで、俺とイン子を海に引きこもうと必死に這い上がってくる。
緑の肌でドロドロだが……大半は人形。
俺はどうしても気になり、聞いてみた。
「コイツら、やっぱり元は人間か?」
イン子は小さな声で「おそらくな」と言った後、ゆっくり目を閉じる。
「「こやつらは世界の異変で亡くなった人間と動物達であろう。成仏出来ぬのか、呪いなのか。この謎も解かねばならぬの」」
これが全部……人間や動物達の成れの果てなのか。
俺もいずれは、このグール達と同じように、朽ち果ててしまうのだろうか。
などと考えていると――海に異変。
奇襲、海面からの襲撃。
巨大な緑の生物が、俺達に襲いかかってくる。
なんだあの大きさは!
あれは……鯨か?
緑の……巨大鯨のグールか!
巨大鯨が、口を開けて襲いかかってくる。
口の中にグール共が飲み込まれる……共食いもお構いなしかよ!
避けられない――。
あっ食われる――その刹那――。
「「痴れ者が!!」」
イン子の手から放たれる――雷撃。
バケツの水を引っくり返した様な音が響く!
――ガクン
跳び上がった筈の巨大鯨の体が沈む。
――バリバリッと音が響き渡る……余韻のように。
巨大鯨は一瞬で力尽き、力なく海面に落ちていく。
衝撃で、赤い海より水しぶきが大量に舞った。
……そうか。俺は、助かったのか。
ブワッと顔に、一気に汗が吹き出す。
巨大鯨の生きた屍は文字通り、海の藻屑と消えた。
天狗の雷撃で、駆逐したのだ。
俺の雷撃など、比べ物にならない威力だった。
正に桁違い。
「……た、助かった」
想定外の一撃で、イン子の『雷力』が大分減ったのを感じた俺は、お礼を言ったた後に雷力の供給を再開した。
「「ウム。じゃが、この世界で楽しい船旅は到底無理じゃの」」
「ああ、まったくだ」
平和で安全から程遠い世界。
俺は片手で瓢箪を手元に引き寄せ、フタをとって水を口に運ぶ。
イン子にも飲ませてやる。
少し水を流し込んだ後、腰に戻した。
俺はイン子に多めに雷力を流しながら、敢えて陽気に話すことにする。
「さて、楽しい空の旅の再開としようぜ」
イン子は、俺の言葉に笑みを軽く浮かべると、体の向きを変えて気を放ち、飛行を再開した。
「「思ったよりも力を消費したの。少し速度を抑えるぞ」」
その言葉に俺は黙って頷き、目を閉じて雷力を流すことだけに集中する。
二時間か三時間か、それくらい経った頃、イン子が声をかけてきた。
「「加重、陸が見えてきたぞ」」
「本当か!」
俺は首を九十度上に上げる。
「「陸地が近いからか瘴気が多くて視界が悪いがの……見えるか」」
かなりの上空を飛んでいるにも関わらず、立ち昇る赤黒い霧の瘴気のおかげで、先が殆ど見えないが、俺は目を凝らす。
すると、陸地が霧の隙間から微かに顔を出した。
「お……見える! 陸だぞ!」
「「御主にも見えたか……ふむ、あちらの方角に人の気配を感じるの……近くに集落がありそうじゃ」」
「集落? 街があるってことは、やっぱり人はいるんだな?」
俺の疑問にイン子が答える。
「「ああ間違いない、この気配は人間じゃ。どうやら絶滅しているわけではなさそうじゃの――フフ、安心したか?」」
「ああ、生き残ってるのが俺達だけじゃ楽しくねぇもんな。文明があるってのはいいもんだぜ? ……それによ」
「「それになんじゃ? 美味い飯でも食べたくなったかの」」
イン子が軽く笑う。
仮面の下から覗く整った顔立ちが浮かべる笑顔は、思わず見とれてしまうほど美しかった。
照れ隠しもあったろう、俺はわざと咳払いをしてみせる。
「そうだな……確かに美味い飯も楽しみだが、それより酒が飲みてえ」
「「同感じゃ」」
「「直接、集落に向かわず、少し離れた場所に降りて様子を見るぞ」」
異存はない。
「なぁ……どうする? その女天狗の姿のままで行くのか?」
答えは解っているが、一応確認だ。
当然、イン子は首を横に振る。
「「まさか。この姿を維持するのは大変じゃしの……それに暫くは鷹ということにしておいたほうが良かろう」」
「妥当だな」
俺はもう一つの考えもイン子に伝えてみることにした。
「俺とお前の雷能力のことだが」
「「暫くは、人前では使わぬほうがよいの」」
俺は黙って頷くと、街の方向に目をやった。
「「理解してからじゃな。この世界の事、生活含めての」」
「金もないしな。ダイヤが高値で売れると良いんだが。一つなら売っても問題ないだろ?」
俺は背中に縛って下げてある、ダイヤの原石の入った袋をポンポンと叩く。
「「ウム。だが暫くは売らぬほうがよいかもしれん。価値のわからぬまま、騙されては叶わぬ。まずは地理を把握し、落ち着き先を見つけてからじゃ」」
成る程な。騙されたり襲われたりする可能性もあるのか。
ここはもう、平和な日本じゃねぇんだ。
「じゃあまずは仕事か? それに服も欲しいな……下着も」
毎日夕方に洗って、夜はノーパンで寝る生活。
あの開放感は捨てがたい……三ヶ月、裸で寝てたのだ。
まさか癖になってないよな?
「後は武器だな……雷能力をむやみに使えない以上、最低限身を守る得物がいる」
「「確かにの。武装は必要じゃろうが――そう心配するでない」」
そう言った後、イン子が俺に顔を向け、ゆっくりと口を開いた。
「「吾と一緒なのじゃ。なんとかなろう」」
言葉が一瞬詰まる。
なんていうイケメンの台詞!
ドキッとしてしまいました。
「天狗様だからな、頼りにさせてもらうさ」
「「普段は鷹ゆえ過度の期待はするでないぞ」」
そう言いつつ、豪快に笑うイン子を見て、期待して良いのか悪いのか、どっちなんだよと軽く突っ込むと、お互い笑みもれた。
どうやら楽しい空の旅も終わりのようだ。
赤く錆びた血の色の海が終わり。
綺麗な青い海と、巨大な大陸のお出迎え。
「「着いたぞ……そうじゃな、あの辺りがよかろう」」
俺達は、新しい大地に足を踏み入れた。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
一章 無人島編はこれで終了です。