プロローグ 英雄の目覚め
「……はい。待たせたね、これで手続きは終わりだよ。時間をとらせてすまないね、最近良くない噂を聞くもんで人の出入りには特に敏感になってるんだ」
入国審査官はどこか言い訳をするように、目の前の旅人に語りかける。
この時期には特に多くなる他国からの入国希望者。
その一人一人は誰しもが個性的な、率直に言ってしまえば一般的な社会の道から外れた者ばかりだ。
だからこそ、ごく稀に現れるような存在。
たとえば目の前に立つ旅人のような普遍的な入国希望者には、特徴が無いからこそ逆に目を引くなにかがある。
「こっちが荷物。危険物はなかったから全部入ってるはずだけど、一応確認してくれ」
「はいはい……うん、問題なしだ」
荷物を受け取った旅人は、まさに万人が想像する田舎の青年といえる風貌だった。
線の細いながらも自然に鍛えられたと一目でわかる肉体。
機能性を重視した服装に似合うよう短く揃えられた黒髪は精一杯のお洒落なのか毛先のみが白く染められており、髪に白黒の境界線を作っている。
検査を終えた荷物も旅をしてきたにしては驚くほどに少なく、軽く検分をすればすぐに終わる量でしかない。
「こっちがこの国、ウラノスで使われてる通貨。銀貨と銅貨に両替しておいたから。それだけあれば一月は遊んで暮らせるよ。しかし本当に珍しいな、こんなに古い通貨を見たのなんて数年ぶりだよ。いったいどこから来たんだか……名前もこれ、なんて読むんだい?」
だから予定以上に時間がかかってしまったんだと苦笑いを浮かべて書類を掲げる審査官に、青年は気にするなと軽く手を振った。
「ヨミって読むんだ。ここからずっと東にある田舎出身でね。ちょいと手紙を受け取ってここに来たんだが……今日は祭りでもやってるのか?」
そう言いながら城門の奥を覗き込む青年、ヨミの目には故郷とは比べ物にならない規模の喧騒が広がっている。
国の中心はこんなものなのかと驚くヨミだが、どうやら様子がおかしい。
審査官の目はどこか暗い輝きを放っていた。
「祭りか、本当にそうならよかったんだがなぁ」
ハァ、とため息をついた審査官の様子を見て、ヨミが訝しげな視線を向ける。
「なにかあったのか?」
「なに、こちらとしても最近の入国希望者の数は予想外でね。おかげで俺たち入国審査官の仕事が増えて、人手が足りないときたもんだ。だから今日もこうして、休暇を返上しての特別労働さ」
苦笑いを浮かべて愚痴る審査官から感じられる不穏な空気は、しかしそれだけではない別のなにかをヨミに感じさせるには十分なものだった。
「──亡命か難民か、どっちだ?」
冷え切ったその言葉に、審査官の目が大きく見開かれる。
口を空けて呆然と固まる姿を見て、ヨミは小さく笑った。
「随分と素直なんだな。言葉にしなくても伝わってくる」
声を潜めて、審査官は口にする。
「……難民だよ。北の小国が何者かの襲撃を受けて壊滅してね、運よく生き残ったのがウラノスに流れてきたんだ。言っておくがこいつは上から口止めされてる内容だ、頼むから周りには黙っててくれよ?」
審査官の表情が不安と動揺に染まっていく。
そんな様子に、ヨミは小さく声を漏らして笑った。
「吟遊詩人を気取った覚えはないよ、安心してくれ」
そう言って、ヨミは町の中へと荷物を手に歩いていった。
早足に歩いていく姿が徐々に小さくなっていくのを見て、審査官は意識を切り替える。
これは日常の一風景。
少し珍しい旅人と出会ったからといって、それがきっかけでこの審査官にこれから特別な出来事が待ち受けているわけでもない。
次の入国希望者へ規則通りの言葉を投げかけ、応対する。
それが彼の日常であり、先程の旅人との縁はここで切れた。
このときはまだ、ヨミ本人でさえも無自覚なままだ。
この世界に、新たな『英雄』が生まれることを。