英雄の轍
「さて、待たせたな」
「ああ、気にするな」
女の心は喜びに満ちている。
口元が三日月のようにゆっくりと歪み、体が小刻みに震え出す。
この場に誰もいなければすぐにでも歌いだしそうな様子で、歓喜の声を溢れさせる。
「いいな、実にいい。死ぬと理解していながらその道を歩もうとするお前の勇気、私は高く評価しよう。素晴らしい自己犠牲だ」
その顔に浮かぶのは童女のような純粋な笑み。
それを必死に押さえ込もうとして、そして盛大に失敗している。
「ならばせめて、その勇気に答えなければいけないな。久しぶりに全力を出して貴様の相手をするとしよう。それが私の礼儀というものだ」
そう答える女の体はなにも変わっていない。
だが、その体から発せられる炎のような威圧感が数倍に増している。
先ほどまでは、まるで本気を出していなかったのだ。
「貴様を殺し、そして奴らだ。希望を残すと言ったな? ならばそう、せめて一日くらいは耐えてくれよ?」
それは、まるで時間が切り取られたようだった。
フィンが瞬きをした瞬間、目の前にいたはずの女の姿が消え去ったのだ。
まるで、あちこちで今も燃え盛る炎の一部となってしまったかのように。
「一撃必殺」
それは背後からの刺突だった。
フィンの背中に、深々と剣が突き刺さる。
誰が見ても致命傷と判断する一撃。
だがこの男に限ってはかすり傷と同じことだ。
「捕まえたぞ……!」
体に突き刺さったままの剣を握り締め、フィンが叫ぶ。
即死さえしなければ、どのような傷でさえ治してみせる。
それこそがこの男の異能。
決して倒れぬ不死身の象徴。
「そうだろうな、この程度で死なんのは理解しているさ」
だが女は微塵も動じない。
突き刺した剣を即座に捨て、新たに作り出した二刀でフィンの一撃を受け止める。
「二撃決殺」
一刀で次撃を受け止め、もう一刀による最速のカウンター。
一度刀を振っただけのはずが、フィンの体には十字の傷が刻まれる。
深々と刻まれる傷跡は、人間の生命を確実に奪い去る。
そう、そのはずなのだが。
「──舐めるなよ」
フィンの傷が肉眼で捕らえられる速度で再生していく。
受けた傷は瞬時に治り、常人ならば即死の一撃すらも容易く受け止める。
「終わりか? この程度では命は取れんぞ」
「わかってはいたが面倒なものだ、細切れにでもすればさすがに死ぬか?」
ため息をつく女に、フィンは震える体を強引に支えて立ち上がる。
気を失いそうな痛みの中で、無理矢理とはいえ笑みを浮かべて。
「勝てぬからといって、そう簡単に負けてやるつもりもないさ。この心折れぬ限り、この身は不滅だ。決して折れぬ意志というものを見せてやる」
「――解せんな」
その姿に、女は純粋に疑問を抱く。
「貴様の力はわかってはいたが、そこまで強力ではなかったはずだ。無力化するために瓦礫の中に埋めてやったのを覚えている。だが今の貴様はなんだ? それではまるで、文字通りの不死ではないか」
「本当にわからないのか? 貴様にこそ、この気持ちは理解できると思っていたのだがな」
女の問いに、フィンはなぜ気づかないのだと笑った。
そう、フィンの異能は完全な不死などではない。
そのような万能の力を持つのなら、この国は滅びてなどいないだろう。
傷つけば痛みがある。
異能の力には精神力を多大に消耗する。
痛みに。
恐怖に。
不安に。
その心が折れればフィンの体は当然のように死に絶えるだろう。
「この命が未来の『英雄』の礎となるのなら、足止め程度喜んで勤めて見せるさ」
だからこそ、今だけは。
希望を残すのだと燃える心は、決して折れぬ。
たった今、フィンの異能は歴代最強の力を発揮しているのだ。
「そうか、理解した」
そして、そのような輝きをその目で見た女も。
「ああ、燃えるなぁ」
喜びに包まれた声を、恥ずかしげもなく披露する。
「そんな輝きを見せられたら、こちらも負けてはいられないじゃあないか」
一秒ごとに女の力が増していく。
際限などは存在しない。
限界などは理解しない。
そんな道理は鼻で笑って、人間の限界を突き破る。
それこそが、物語の主役たる所以なのだと、女は吼える。
「三撃滅殺」
女の姿が消える。
ただ純粋に速いというだけで、女の姿は誰の目にも止まらない。
「四撃惨殺」
傍目から見ると、フィンの体に傷が付いては消えていくようにしか見えないだろう。
「五撃抹殺」
倒れることすら許されず、ただ血潮が飛び散り続ける。
声もなく、フィンの体が傷ついていく。
「ああ、素晴らしいな貴様は!」
喜びの声が響く。
姿は見えず、もはやどう攻撃しているのかすらフィンにはわからない。
「他人のために、世界のために。そうして己の身を捧げることのできる人間のなんと貴重なことか! 敵味方問わず、そうした存在は非常に喜ばしい!」
相手を素晴らしいと褒め称えながら、だからこそ全霊で殺しにかかる。
その矛盾した行動原理に、女自身は気づかない。
気づかずに、走り続ける。
「だから、貴様は駄目なのだよ」
そんなフィンの言葉も、女の耳には届かない。
「耐えてやるさ。いずれ『英雄』が貴様を止める。それまでは付き合ってもらうぞ!」
一方的な虐殺劇は終わらない。
だがこの地には、確かな希望が存在していた。