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蜜蜂にハナズオウ―ユリの章4―

 英二が出ていって、真理はすとんと床に腰を下ろした。


 ビニルタイルのような床に、台所部分にだけ細長いラグが敷いてある。部屋の中央には雑誌や本が山になっているローテーブルが置いてあり、くたびれたクッションが前に一つだけあった。窓の側には三つ折りに畳まれた布団があり、布団と反対側の部屋の端には扉があった。


 結衣がトトト、と部屋を横断して扉を開ける。ユニットバスだった。


「結衣が前に住んでたお家より狭い」


 結衣は言ってから、真理の隣にしゃがみこんだ。


「ここ、住んでええの? 結衣のお家?」


「うん。少しの間だけね。ちゃんと、私が働いて、お金が出来たら、引っ越すけどね」


 真理は答えて立ち上がろうとして、失敗した。

 両足が震えて、うまく立てない。


「お姉ちゃん?」


「はは。失敗した」


 真理は笑おうとして、息を吐き出すが、それすら上手く出来ず、嗚咽になってしまう。


 大声を上げる訳にはいかない、と両手で口を覆う。


「お姉ちゃん」


 心配した結衣が、真理の肩を撫でた。


 涙が次々と溢れ体が震える。


 怖かった。

 英二に何を言われるか、何を訊かれるか。

 けれど、英二は何も言わず、何も訊かず、真理の望みを叶えてくれた。

 もしかしたらこれから何か言われて、何か訊かれて、何かを要求されるのかもしれない。

 それでも、英二はまだ、結衣に配慮してくれる。結衣の前で真理の体を要求しないでくれた。


 それだけで嬉しかった。


 子供のように泣きじゃくる真理を、結衣が慰めるように肩を抱く。まるで立場が逆だ。本当なら、真理がもっとしっかりと結衣を守らなくてはいけないのに。そうするつもりで飛び出して来たというのに。


「ごめんね、結衣。私、もっとちゃんとするから。頑張るから。だから、ごめんね」


 謝りながら、真理は泣き続けた。



 日が傾いて来て、真理は顔を上げた。いつのまにか眠っていたらしい。結衣も、畳まれた布団にもたれるようにして眠っている。

 施設を飛び出してからろくに眠る場所も作ってやれなかったのだから当然かもしれない。幼い結衣は真理よりずっと消耗していたのだ。


 真理は自分の頬を軽く叩くと立ち上がり、冷蔵庫を開けた。


 食パンと、ハムとマーガリン。もやし、しなびた人参に半ば液状化したなすび。半分になったピーマンは種が黒くなっていた。


 料理はあまりしたことがない。学校の調理実習ぐらいだ。

 炊飯器が床に直に置かれていた。その隣に米の袋が置いてある。

 真理は米の袋を開けた。中に計量カップが入っている。台所の収納扉をあちこち開いて大体の物の場所を覚えると、真理は計量カップから一杯だけ米をボールに移した。


 水道を捻れば水が出た。冷たい水に指が痺れる。


 それでも米を研いで炊飯器にセットする。炊飯、と書いてあるボタンを押すと動き出した。


 人参とピーマンを細かく切ってもやしと一緒に塩とコショウで炒めた。


 途中で結衣が起きてきて、真理のスカートを握った。


「お手伝いする」


「ありがとう。じゃあ、食器を探してくれる? お茶碗とか」


「分かった」


 結衣は返事をして、あちこちの扉を開け始めた。食器がどうしても見つからない時は、ご飯はおにぎり、炒め物はフライパンから直接食べてしまえばいいか、と思っていた真理だが、結衣は衣装ケースの一つに食器が仕舞われていることを発見して取り出してくれた。


 お湯の出し方が分からなくて、右往左往しながら二人で食器を洗った。お湯は、どうやらガスのスイッチを入れると出ることが分かった。

 布巾が見当たらないので、申し訳ないがティッシュで拭いた。


『ご飯が炊けました』


 機械の音声に二人でびっくりして顔を見合わせ、ついで声を出して笑った。笑うのは久しぶりだった。


「じゃあ、いただきます」


「いただきます」


 結衣のご飯は男物のお茶碗に盛られていたし、真理のご飯は小さな平皿に山になっているが、そんなことはちっとも関係なかった。

 これが自由なのだ。これが生活なのだと思うと自然と涙が出てきた。涙を溢しながら少し味の濃い炒め物を食べている真理を、結衣は不思議そうに眺めながらご飯を食べていた。


 洗い物を済ませると、真理は結衣にシャワーを使わせた。ユニットバスの使い方がよく分からなかったので、床が水浸しになってしまった。


 カビ臭いシャワーカーテンを閉めて、結衣がシャワーを使っている間、真理は布団を敷いた。小さなデジタル時計が午後9時を示している。


 結衣が下着姿でシャワーから出てくると、真理は結衣の髪を丁寧に解かしながら乾かす。ドライヤーも借りた。結衣の髪は黒く真っ直ぐで、羨ましい。髪をすっかり乾かすと、真理はすぐに結衣を布団に寝かしつける。


「お姉ちゃんは?」


「シャワー浴びてくる。先に寝てて」


「うん。おやすみ」


 既に眠たそうな結衣に、小声でおやすみを囁くと、真理は音を立てないように立ち上がり、バスルームに向かった。

 バスルームの扉を閉めると服を脱ぎ、バスタブに入れた。結衣の服も一緒に入れると、お湯を入れる。

 今まで洗濯も満足に出来なかった。服は二人ともこれしか持っていない。下着だけは3セット持ってきたが、着た切りなのは辛かった。


 バスタブの中で石鹸を使い、手押し洗いをする。洗剤はどこにあるのか分からなかった。洗濯機も見当たらないし、もしかしたらコインランドリーを使っているのかもしれない。湯気で汗だくになりながら、洗濯を終えると服を固く絞った。


 そしてやっと自分の体を洗い出す。

 あちこちに、客から付けられた痣がある。歯形は客ではなく、あの変態職員から付けられた傷だった。この歯形のせいで、お客が勘違いし、真理の体はボロボロになった。

 全て、あいつのせいだった。あいつさえいなければ、真理が体を売ることも、結衣を連れてここまで逃げ出すこともせずに済んだのに。


 他の職員から、あいつは誰か偉い政治家の孫だか息子だかだと聞いた。だからあいつのやることは全て許されるし、他に虐待を受けている子もいるのに、所長は何も言わなかった。あいつと二人きりにならないように庇ってくれたりもしてくれたが、所長一人の力では限界があった。


 真理がここでこうしている間にも、あいつは他の保護された子供をいたぶっているだろう。他に行く場所がない子供を、力のない人間を追い詰めている。


 逃げ出すしかないと決めた時は惨めだった。戦う力がない自分が惨めだった。他の仲間達をおいて逃げる自分が惨めだった。


 でも、もう忘れよう。

 そんなことを言い出したらきりがない。忘れて、ここから始めるしかないのだ。


 シャワーを終え、絞った服の形を整えてから、シャワーカーテンの紐に吊るして乾かす。湿度の高い浴室でどれだけ乾くか疑問だが、夜に外に干すよりはマシかと思う。


 バスルームの扉は全開にして、台所の換気扇を回し、下着姿のまま髪を乾かす。

 寝巻きは持ち出せなかった。大きな手荷物など論外だ。結衣の下着は学校用の手提げ袋の中に入れて、目立たないように施設を出るように言い含めた。

 自分の下着は学校用の鞄の中に入れて、学校で補習があるから、と嘘をついて施設を出てきた。幸い、今、施設にいる高校生は真理だけだし、結衣は普段から施設の子供の中では輪に溶け込まずに一人でいることが多かったから、抜け出すことに問題はなかった。


 あとは、いかに遠くまで逃げられるか、だった。とにかく都会を目指した。たくさん人がいれば自分達の姿も隠せると考えた。

 そしてお金も何とかなると分かっていた。


 高校に上がったばかりの帰り道、3万円を渡されて、人気のない公園の公衆便所で犯された。

 あの時、自分の体がお金になるのだと気付いた。


 都会に紛れれば、そういった稼ぎも多いはずだ。人が多ければ、真理に金を払う男もいるだろう、と。


 実際、街角に立つだけで、客が取れた。5人相手にしただけで、大阪まで来る金は作れた。

 何故、大阪に来たのかと言えば、結衣の言葉が訛っていることが理由だった。

関西に行けば訛っていても不自然ではない。他の地方なら関西弁の女の子と噂になっても、関西にいればそう言われることもないだろう。そう考えた。


 結衣の母親が関西の出身で、東京に出てきて仕事をしていたらしい。だが、男が出来て結衣がいらなくなった。だから施設に預けられた。


 結衣はそう話していた。

 たった7歳の子供が邪魔になるような男など、この世から消えてしまえばいい。


 真理は思う。


 子供を捨てて男をとるような女は最低だ。男をとるように仕向ける男も最低だ。子供にしか性的嗜好が向かない人間も最低だ。世の中は最低な人間ばかりでできている。


 けれど、結局、真理を助けてくれる手を差し伸べてくれたのも、人間だ。男だ。


 一括りにして嫌ってはいけないのだろう。

 でも、この理不尽な境遇は、誰を恨めば良いのだろう。


 ドライヤーのせいで熱くなった髪を冷ましながら真理は結衣の隣に横になった。

 肌寒いぐらいの季節だが、結衣の隣は暖かく、気持ち良かった。

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