桜貝
海が鳴る。
低く、遠く。眠りに落ちようとする意識の狭間を縫い、まるで誰かを呼び醒まそうとするかのように、呼び戻そうとするかのように、海が鳴る――
1
一歩踏み出すごとに、濡れた砂が足下で泣く。ヒールがないとは言え、ろくに準備もしないままパンプスなんかで海に来た自分の馬鹿さ加減につくづく嫌気がさした。 溜息と共にボストンバッグを持ち直し、目前に広がる鈍い灰色の景色を見渡す。
これも仕事の一環、次に準備している特集の資料収集の為……などという名目を付けて響子がひと気の無い冬の海に来たのは、休みの無い仕事に少し疲れを感じていたためか。五年ほど付き合った挙句に別れた恋人の言葉が心に残した、小さな引っ掻き傷のせいか。
「君は冬の海のようなひとだね」と彼は言った。
「優秀で、冷静で、あらゆる面で独立していて、仕事も人間関係も、全てが君の中で自己完結している。そんな君に周りが追いつけなくても、君は気にしない」
だって君は誰も必要としていない。
そう言って彼は、笑いながら別れを告げた。いや、笑いながら、というのは違うかもしれない。それは僻みを含んだ思い込みで、彼は本当はひどく悲しげな眼で自分を見つめていたのではなかったか。そう考えて、あの時の彼の表情を思い出そうとしたが、五年も付き合ったはずの男の顔をどうしても思い浮かべることができなかった。
「ま、いっか」
去った人間の顔など憶えていても仕方無い。そんなものは、この灰色の波に洗い流してしまえばいい。そこまで考えたところで苦笑が洩れた。冬の海、という自分への評価はあながち間違いではないのだろう。肩を竦めて踵を返す。と、パンプスの爪先が何か硬いものを踏んだ。
何気無く見下ろした爪先で、透明な硝子が雲間から差す陽にチラチラと光る。それは、砂に半分埋もれた小瓶だった。
瓶の口をしっかりと閉じるコルクの栓に、ふと懐かしいときめきを覚えた。絵本か何かの影響か、子供の頃、硝子の瓶に手紙を入れて海に流すというのに憧れたことがある。思わずしゃがみ込み、波に濡れた砂に手を伸ばした時だった。
「やめといたほうがいいよ」
不意に背後から掛けられた声に驚いて振り返ると、見知らぬ少年が大人の背丈ほどの岩に腰掛け、こちらを眺めていた。子供の歳などよく分からないが、せいぜい十一〜二歳といったところか。
「そんなモノ、拾わないほうがいい」
ぶっきらぼうに口を尖らせ、少年が潮風に乱れた艶やかな黒髪をくしゃりと掻き上げる。長い睫毛に縁取られた大きな眼に睨まれて、わけも分からずどきりとした。
「海にはいろんなモノが流れ込む。遥か遠い地に降った雨や春の雪解け水だけじゃない。排水、汚水、そしてヒトが棄てたいと、忘れたいと願う様々なモノ。流木にしろ硝子瓶にしろ、そんなドロドロの中を漂ううちに、余計なモノがくっついちゃったりするからね」
……一体この子は何の話をしているのだろう。
そんな響子の戸惑いを察したのか。少年が愛らしく小首を傾げ、そしてそのあどけない姿形からかけ離れた表情で、ニヤリと口の端を歪めた。
「あのさぁ、母なる海がいずれ全てを浄化してくれるってアレね、怠惰なニンゲンの甘い希望的観測に過ぎないから、信じないほうがいいよ?」
陸のモノはむやみやたらと海のモノに手をだしてはイケナイ。
そう言い放つと少年は身軽に岩から飛び降り、あっという間に駆け去っていった。
「……変な子」
気を取り直して再び足元を見たが、波に攫われたのか、そこにあったはずの硝子瓶はどこにも見当たらなかった。
2
海が鳴る。
低く、高く。繰り返し、繰り返し、近づいては遠のく波の音に、意識が揺らぎ、頭の芯が痺れる。
✿
「おはようございます」
薄化粧をして階下に降りると、キッチンから出てきたらしい白い前掛け姿の青年と鉢合わせた。目の端で僅かに微笑み、丁寧に会釈する青年に慌てて会釈を返しつつ、疲れていても化粧をして良かったと軽く胸を撫でおろす。そしてそんな自分に少し呆れた。
「昨晩は風が出たから、波が少しうるさかったでしょう。よくお休みになられましたか?」
「ええ、お陰様で……」
慣れぬ波の音が気になって、本当はあまりよく眠れなかった。曖昧に頷きつつ、朝食の用意の整ったテーブルにつく。
予約も無く飛び込んだ海辺のホテルは、ホテルと言うよりもコテージと呼んだほうがいいような、個人経営のこじんまりとしたものだった。宿泊以外にも日帰りの客にブランチなどを提供しているらしいが、やはりオフシーズンのせいか、こんな天気の悪い日にわざわざ食事に来るような酔狂な客はいない。閑古鳥の鳴くダイニングルームに、他人事ながら経営の先行きが心配になる。しかし雇われ支配人兼料理人といった風情の青年にそれを気にする様子はなかった。
無言のまま次々と朝食の皿を運んでくる青年を横目でちらりと観察する。街ですれ違えば殆どの女が振り返るであろう端正な顔立ちで、決して愛想が良いとは言えないが、しかし特に悪くもない。綺麗な肌の張り具合からして響子よりも少し若いようだが、落ち着いていて、妙に老成した雰囲気の男だった。海辺のコテージの管理人よりも、都会の片隅でクラシックのピアノ曲を流すような店のバーテンダーの方が似合っている。
「今日のご予定は?」
「いえ、特にないですけど……雨が降りそうだし、今日は大人しく部屋で読書でもしていようかと」
「そうですか。御夕食の他にも軽いランチを御用意できますが、いかがなさいますか?」
コーヒー以外に朝食を取る習慣が無いせいか、昼までに空腹になれるとは思えなかった。少し考えてからランチは断り、久々にゆっくりとした気分で朝食を味わい、テーブルを立った。
3
遠く、気怠い微睡みの中、錆びた蝶番が耳障りな音を立てて軋む。
息をひそめ、足音を忍ばせた誰かの気配が近づいてくる。
一歩、二歩、三歩――
ギィ、と床が鳴った。
✿
本を読んでいるうちに、いつの間にかうとうとしていたらしい。手からすべり落ちた本がバサリと大きな音を立て、不意に目が覚めた。
何か嫌な夢でもみていたのだろうか。脇が冷たい汗に濡れ、酷く喉が渇いている。鳥肌の立った腕を擦りつつ、カーテンを開けて外を眺めた。
細やかな氷雨が鈍色の海に音も無く降りしきる。浜辺には人の姿どころか海鳥の影すらなく、水平線は霧にぼんやりと霞んでいた。この海の色は静かすぎるとふと思う。この海は、独りで過ごすには静か過ぎて、全てがあまりに遠過ぎて、寂しい。
しかしそんなことをいつまでも考えていても仕方が無い。汗に濡れたシャツを着替え、水でも貰おうと階下に降りた。
しんと静まり返ったダイニングルームを横切り、半開きのドア越しにキッチンを覗く。タイルのフロアリングのせいか、それとも灰色の空模様のせいか。火の気の無いそこは妙に寒々しく、真ん中に置かれた小さなテーブルに頬杖をついてぼんやりと何かを見つめている青年の横顔が、氷に閉ざされたように凍えて見えた。
およそ生気というものの全く感じられないその背中に声を掛けるのを躊躇ったのも束の間、響子の肩が触れたドアがキィと耳障りな音を立てて軋んだ。途端に青年が弾かれたように振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、あの……少し喉が渇いたので、お水か何かを頂けないかと思って」
「ああ、お部屋に水差しとポットをお入れしようと思っていたのに、ついうっかりしてしまったようで、申し訳ありません」
急いで立ち上がろうとした青年の手元から、何かがひらりと舞い落ちた。青年が屈むよりも先に、自分の足元に落ちたそれを響子が拾う。それは、一枚の写真だった。
近くの浜辺で撮ったのだろうか。濃紺の海をバックに一人の少女が微笑んでいる。その人形のように整った顔立ちに目を奪われ、思わずつくづくと見入ってしまった。
「妹ですよ」
青年が少し困ったように微笑んだ。確かに少女の面立ちにはどこか青年に重なるものがある。しかし写真の中の微笑みはあどけなく、昨日浜で出会った少年よりもまだ幼いように見えた。随分と歳の離れた兄妹なのか、それとも単に妹の幼い頃の写真なのか。立ち入ったことを聞くのも憚られて、響子はただ曖昧に頷いた。
「とても……可愛らしい妹さんですね」
「ありがとうございます」
響子から写真を受け取った青年が、優しげに口許を綻ばせた。
ひとりっ子の響子には、世間一般の兄の妹に対する愛情や思い入れなどと言うものはよく理解出来ない。どこか世捨人のように倦んだ雰囲気を漂わせるこの男に、こんな優しげな眼をさせる少女の存在に全く嫉妬しなかったと言えば嘘になるだろう。けれどもドアの陰から覗き見た青年の能面のような表情と、そんな翳りを一瞬にして消し去ってみせる作り物のような笑顔に、嫉妬以上にざらりとした違和感を覚えた。
4
鼠でもいるのだろうか。
雨垂れの音でも、海鳴りでもない。カリカリと、細い爪で壁を引っ掻くような音が絶え間無く続く。まるで何かから逃げ出そうとするかのように、見えない出口を求め、カリカリと、カリカリと、カリカリと――
そんなに酷く壁に爪を立てたら、爪が割れてしまうと、そこにいる誰かに声を掛けようとしたが、身体が痺れたように重くて、腕を動かすことすらままならず、ただ薄っすらと瞼だけを開く。
幽かに零れる月明かりに、錆色の絵の具で描かれた抽象画のように、壁を這う無数の滲みが浮かびあがった。
✿
気がつくと朝だった。昨晩飲み過ぎたのかも知れない。起きたばかりだというのに全身が水に濡れたように重く、眼の奥が鈍く疼く。ベッドスタンドに置かれた水差しに手を伸ばし、ふと気付く。雨風にさらされたように掠れた色合いのベッドスタンドは、これは、流木を使ったものではないだろうか。よくよく見れば、飾り棚や観葉植物のプランターなど、あちらこちらに然りげ無く流木が使われている。
海にはいろんなモノが流れ込む、と言った少年の囁きが不意に蘇った。
人が棄てたいと、忘れたいと願う様々なもの。あの奇妙な少年は、海の澱みを漂う流木には、良くないモノが憑くと言ってはいなかったか……?
考え過ぎだと自分を嗤い、冷たい水で顔を洗い、身支度を整える。響子は極めて現実的な人間だとよく人から言われる。実際、響子は死後の世界どころか、魂の存在すら信じてはいない。人も獣も、死んで肉体が消えればそれでお終いなのだ。なのにどうしても、白茶けた木製フレームの鏡に映る自分と目を合わせることが出来なかった。
「……雨、止みませんね」
食後の珈琲のカップに指先を温めながら、響子がふと呟いた。
「今日も誰もいない……」
テーブルを片付けていた青年が手を止めて、窓の外を見やった。霙混じりの雨が、鈍色の海に音も無く吸い込まれてゆく。
「冬場はこんなものですよ」
「こんなに灰色の海ばかり見ていて、寂しくなりませんか」
海に向けていた視線を響子へ移し、青年が眼の端で微かに笑った。
「冬の海はお嫌いですか?」
「嫌いというか、なんだかここにいると閉ざされているというか、全てが遠く感じられて……」
低く、高く。永遠に繰り返される波の音に、指先が痺れる。
「私、ある人に言われたんです。私は誰も必要としない、冬の海のような人間だって。確かに他人と必要以上にベタベタした付き合いをするのは苦手ですが、でもこの海を見ていたら、こんな風に、冷たく閉ざされた人間だと思われていたのかなって、ふと思って……」
「空が少し明るくなってきたみたいですし、雨もそろそろ上がるでしょう。風は冷たいですが、晴れれば冬の海も気持ちが良いですよ」
空になったカップに珈琲を注ぎながら、青年が微笑んだ。
「誰も必要としない人間なんていませんよ」
……よく知りもしない相手に話し過ぎた。そんな後悔にも似た居心地の悪さに青年から眼を逸らし、そっと唇を噛んだ。
5
誰かが泣いている。
低く、高く。押し殺したように啜り泣く声がやがて噎び泣きとなり、不意に引き裂かれるような悲鳴が響き渡った。
✿
全身にびっしょりと冷たい汗をかいて飛び起きた。動悸を堪え、窓越しに聞こえるけたたましい嗤い声に恐る恐るカーテンをめくれば、久し振りに雲に切れ間のできた空を、無数の海鳥達が飛び交っていた。
「今日のご予定は?」
「そうですね。雨も上がったみたいだし、少し海岸を歩いてきます」
言葉少なに朝食を終え、コテージを出る。風は無いものの、早朝の空気は刺すように冷たい。鼻の先までマフラーで覆い、ゆっくりと歩いて浜を見下ろす崖の上に出た。暗い灰色の波が、繰り返し、繰り返し、誰もいない浜に打ち寄せる。その終わりの無い単調な音が奏でる孤独に、気が遠くなる。
今まで溜め込んでいた仕事の疲れが出たのだろうか。それとも慣れぬ海鳴りのせいか。ここに来てからどうも眠りが浅く、鈍い頭痛が治らず、妙に苛々とする。
「危ないですよ」
背後からの声に振り返れば、ダウンジャケットを羽織った青年が僅かに首を傾げるようにして微笑んでいた。
「雨で足元が崩れやすくなっているので」
この人はわたしを見張ってでもいるのだろうか。冬の海には穏やか過ぎる微笑みと細やか過ぎる気遣いに、不意に不快な疑問が湧いた。
「心配ですか?」
「え?」
「妙齢の女が季節外れの海辺に独りで来るなんて、ワケありで身投げか入水自殺でもするつもりかと思われても仕方ありませんね。特にこの辺りは自殺や行方不明者が絶えないようですし」
棘を含んだ響子の口調に慌てるふうもなく、かと言ってその言葉を否定するわけでもなく、青年はただ静かな眼差しを灰色の海へ向けた。その落ち着いた様子に返って苛つき、響子が硬い表情で言葉を継いだ。
「最近恋人と別れたのは確かですが、ここへ来たのは仕事の関係ですので、心配されるようなことは何も――」
「桜貝を探しているんですよ」
「……は?」
「この崖を降りて、少し行った浜辺で、桜貝を探しているんです。僕が子供の頃は早朝なら結構拾えたんですが、今では絶滅危惧種なんです。でも毎日探していれば、ごく稀にひとつくらいは見つけられるんですよ」
青年が恥ずかしそうに肩を竦めて笑った。
「桜貝って、あの、薄いピンクの……?」
首を傾げた響子を促すように、青年が片手を差し出した。その自然な仕草につられるように、思わずその手を取ってしまった。触れた肌のあまりの冷たさに不意に我に返り、柄にもなく頬を赤らめて俯いた響子の指先をじっと見つめ、青年が優しげに目を細めた。
「亜子が……妹が好きなんですよ、桜貝」
「子供の頃、海の下には桜の大樹があるのだと信じていました」
濡れた砂が足下でキシキシと鳴く。灰色の波打ち際を青年と並んで歩きつつ、祖母に聞いた話なのですが、と前置きして響子が語った。
「此の世は様々な精霊で満ち溢れています。空には風の精が、森には樹の精が、そして海には波の精が。精霊たちはそれぞれ与えられた境から外に出ることはないのですが、海の精霊は千年に一度、一日だけ陸に上がることを許されるのだそうです」
そうして陸に上がった海の精は、満開の桜の樹の下で一人の人間に出逢い、恋に落ちた。明日も逢おうと約束を交わしたが、しかしその約束を果たすことが叶うわけもなく。
「泣く泣く海へ帰った精霊は、波の下に桜に似せた樹を育てました。せめてあの薄紅色の花の下で待つ人に、風に乗せて己の想いが届くようにと」
水の重みを逃れるほどに薄く創られた海の桜の花弁は、どんなに薄くしても風に乗るほどには薄くはなく、それでいて指先が触れれば砕け散るほどには儚くて、どんなに願っても、どんなに祈っても、待ち人へその想いが届けられることはない。
「桜貝は砕け散る海の桜の花びらですか。ロマンチックですね」
「とうの立った女には似合わないかしら。でもまぁ祖母の話の受け売りですから」
「……僕の妹は、桜貝は人魚の鱗なのだと信じていました」
「人魚の鱗?」
「海の精霊が人魚になっただけで、あらすじは貴女の話に似ているのですが」と言って、青年が柔らかな眼差しを海に向けた。癖のない髪が湿り気を帯びた風に僅かに乱れ、さらさらと目にかかる。
「妹が言うには、人間に恋した人魚がその想いを伝えるために、剥いだ鱗を波間に浮かべるのだと。人魚の鱗は本当は硝子のように透明なのに、無理に剥がされた鱗は血に染まって、薄紅になるそうです」
「それは……」
思わず言葉を失って瞑った瞼の裏に、人魚の血が滲み、凍える波を紅く染める。
浜に打ち寄せられた硝子の欠片のようなそれを、少女の白い指先が拾う。
鋭い破片が皮膚を裂き、赤い液体が音も無く零れ落ちる――
「あ」
不意に強く腕を掴まれ、我に返った。そんな響子の足元に青年が真剣な表情で跪く。その顔を見て、こんなふうに、子供のように何かに夢中になることも出来るひとなのかと、少し意外に思った。
「割れてないし、色も綺麗だ」
手渡されたそれを陽に透かしてみる。淡い薄紅色は、風に舞う桜の名に相応しく、薄く、儚く、脆かった。
小さな貝を壊さないように、そっと青年に返そうとしたが、青年は首を横に振った。
「折角ですから、それは貴女が持っていて下さい。僕はいつでもここに来れるので」
「……わたし、海で本物の桜貝を拾ったのって初めてかもしれません」
「違いますよ」
立ち上がった青年の口許を、微かな笑みが掠めた。
「……人魚の鱗です」
6
はらはらと、音も無く花が散る。
藍色に揺れる水に淡くひかる薄紅の花を見て、ああ、やはり桜貝は海の桜の花弁なのだと、ほっと胸をなでおろす。満開の桜の樹に一歩近づいた時、その姿に気がついた。
緩いウェーブのかかった長い髪が波にゆらゆらと揺れる。けぶるように長い睫毛が頬に翳りを落とす。ゆっくりと、一枚づつ、執拗に、白く細い指先が透明な鱗を剥ぐ。紅い色がじわりと滲み、海を染めてゆく。
不意に人魚が顔を上げた。けれどもその顔に眼は無く、ぽっかりと空いた暗い二つの穴がこちらを見つめた。
穴の奥で何かが動く。
小さな蟹が這い出す。
無数の、小さな蟹が、穴から這い出し、人魚の顔を喰む――
✿
声にならない悲鳴を上げて飛び起きた途端、ベッドルームの窓が開いて激しい雨風が吹き込んできた。狂ったようにカーテンが舞う。停電しているか、枕元のランプが点かない。悪夢の恐怖と暗闇の混乱に思うままにならない身体を懸命に動かし、必死に窓を閉める。全身ずぶ濡れになって窓を押さえ、ようやくの思いで鍵を掛けたところで部屋の明かりが点いた。その瞬間、バンッと窓を叩く音がした。
濡れた硝子についた小さな紅い手形を見て、気を失った。
✿
どれ程の間気を失っていたのだろうか。目覚めれば、そこは知らない部屋のベッドだった。
「ご気分はいかがですか?」
こんな夜中にもかかわらず、一縷の乱れもない整った顔が響子を見下ろしていた。
「わたし……」酷い耳鳴りに顔をしかめ、ゆっくりと身体を起こす。「風で、窓が開いて、それで……」
「大きな物音がしたので部屋に伺ったのですが、返事が無かったので合鍵を使わせて頂きました」
「……わたし、見たんです」
何を、とは訊かれなかった。代わりに、微かに甘い香りのするハーブティーのカップを手渡された。気を落ち付けようとそれを一気に飲み干し、そして勇気を振り絞って訊ねた。
「あの、すみません……立ち入ったことなのですが、ひとつお聞きしてもいいですか?」
どうぞ、と言って青年が微笑んだ。その作り物のように端正な横顔が、夢でみた人魚のそれに重なる。
「……妹さんは、どこにいらしゃるんですか?」
「亜子は死にました」
眉ひとつ動かさず、青年は淡々と答えた。
「殺されたんですよ」
そんな予感はあった。けれどもいざそうと聞いてしまうと、掛ける言葉も思いつかず、響子はただ無言で俯いた。その時目の端に、薄汚れた壁紙が映った。あれは夢ではなかったのか。見覚えのある模様が月明かりに浮かぶ。錆色の絵の具で描かれた抽象画のように、歪な、無数の――
「妹は殺されたんです」
響子を見下ろす暗い影が、月明かりにゆらゆらと揺れる。
「誰にって聞かないんですか?」
「そんな……」
口籠った響子を感情の消えた瞳が見つめる。
「妹を殺したのは僕です」
ぽっかりと空いた穴のように暗い眼は、すべてを呑み込む冬の海に似て、唯ひたすらに虚ろだった。
「毎朝早朝に、海に桜貝を探しに行く妹についていくのは、僕の役目でした。でもあの日、少し風邪気味だった僕は、妹を先に行かせて、自分だけ家にジャケットを取りに帰ったんです。浜に戻った時、妹は何処にもいませんでした。見つかったのは二週間後。すでに顔の判別すら不可能なほどの腐乱死体になってからでした」
目撃者もなく、これと言った不審人物も見当たらなかった。あの日は天気が崩れかけていて海が荒れていたから、濡れた岩場で足を滑らせたか、高波にでも攫われたのだろうと人は言った。
「都合のいい言い訳ですよ」何かを嘲るように青年が口許を歪める。「貴女も言っていたでしょう? ここは地形の関係か、自殺者や行方不明者が絶えない。その上に幼い少女が変質者に襲われた挙句に殺されたなんてことになったら、避暑地としての町のイメージが台無しだ」
「で、でも、証拠はなにも……」
「証拠ならあります。亜子の爪は、どこかに閉じ込められた人間が、逃げようとして必死に壁を引っ掻きむしったかのように割れていました」
そんなものは何の証拠にもなりはしない。たとえば海に落ちて、波に抗いながら岩にしがみつこうとしたって爪は割れるだろう。けれどもそんな理屈は通用しない。小さな過ちが招いた不幸と後悔に苛まれ、愛する者を喪った悲しみに砕けてしまった心に届く言葉など、此の世にはありはしない。灰色の海に届く花弁は無い。だから、わたしは、ワタシハ、ココニイテハイケナイ。
立ち上がろうとした響子の手から、ティーカップが滑り落ちた。陶器の砕ける硬い音が、耳に虚ろに響く。
「……ど、うして……?」
海が鳴る。鈍く痺れた耳の奥で、低く、高く。遠い警鐘のように。
「どうして? だって可哀相でしょう? 桜貝を探して、独りぼっちで海に沈んでいるあの子が」
藍色に揺れ霞む視界の向こう側で、人魚が微笑む。
「言ったでしょう? 誰も必要としない人間なんていないんですよ」
生きていようが、死んでいようが、人は皆誰かを必要とする。
そう言って、彼は微笑む。
だって彼は信じている。
死んでしまった妹に必要なのは、儚い想いを伝える桜貝と、それを一緒に探してくれる誰か――
「桜貝を探しているんですよ」
あぁ、あの小瓶には見覚えがある。
コルクの栓が抜かれ、硝子瓶の中身が目の前に零れる。
「ほら、綺麗でしょう?」
淡く儚い薄紅に混じる、不吉に赤黒く染まった、半透明の――
「……人魚の……う、ろこ……」
「あれはただのお伽噺ですよ。此の世に人魚なんていない」
恋人に秘めた想いを囁くように、冷たい唇がそっと耳許に寄せられる。
「……そしてひとに鱗は無い」
何故、もっとはやく気付かなかったのか。
逢えぬ人にその想いを伝えんと、海に棲む人魚は鱗を剥ぐ。
ならば人は、陸に棲み、鱗を持たぬ人が、海に想いを届けるために剥ぐモノは――
「亜子は桜貝が好きなんですよ」
痺れて動かない腕を取り、人魚が愛おしげに指先に唇を寄せる。赤く錆の浮いた鉄の器具を片手に、人魚が声を立てずに笑う。人魚の呼気は潮の匂いに似て生臭く、その毒がわたしを絡めとり、そしてわたしは海に沈む。
灰色の海は冷たくはなかった。死にゆく人の体液のようにぬるりと生温いそれが、躰に纏わりつき、息を奪い、意識が沈んでゆく。
深く暗い水底で、わたしを抱きしめるように両手を広げた少女の口許を幽かな笑みが掠め、その指先に、薄い桜貝が淡くひかって揺らいだ。
✿
✿
✿
「だから言ったんだよ。やめといたほうがいいって」
聞き覚えのある声に、薄っすらと眼を開ける。黒髪の少年が、ほとほと呆れたと言わんばかりに口を尖らせて自分を見下ろしていた。
濡れた砂浜からゆっくりと半身を起こす。ボストンバックにパンプス、そして灰色の海。自分と少年以外には、誰もいない。
「海のモノなんか、やたらと拾うもんじゃない」
だけど私はあの硝子の小瓶を拾いはしなかった。そう言おうとしてふと見下ろした掌から、淡い薄紅色の欠片がサラサラと零れる。少年と二人、爪が剥がれ、赤黒く血の滲む指先を見つめた。
はらはらと、音も無く花が散る。
風に舞う淡い色が、波を凍らせ、海を染める。
(END)