【番外編】僕のライバル
「おはようございます憲人さま」
美しい婚約者が笑みを浮かべて歩いてきた。
まっすぐに背を伸ばして歩く姿に隙は無い。一歩踏み出すごとにフワリとスカートの裾が上品に揺れて、通りすがりの生徒たちが彼女を振り返る。
「おはよう、玲奈さん」
同じように笑って返事を返せば、彼女は真っ白な頬をほんのり赤く染めてはにかんだ。
照れたように彼女が俯けば、さらりと長い黒髪が肩に落ちる。
反射的にその滑らかな髪をツイと戻すと、彼女はますます顔を赤く染めた。
その姿に唇を噛んで己を自制して、彼女と何気ない世間話をする。
出会った時から変わらない美しさのーーいや、出会った時よりますます美しさに磨きがかかった婚約者の照れた顔は、なかなかの破壊力があった。
幼い時分は抱くことが無かった邪な感情は、高等部に入ってからますます強くなった。
誰もが振り返る美少女が自分にだけ特別な顔を見せてくれる度に、抱き寄せて赤い唇に触れたい衝動に駆られる。
彼女はそんな葛藤など知るはずもなく、無邪気な笑顔を向けていた。
「それで、智子さんったら変な歌を歌うんです」
「……歌?」
心の中でライバルだと認識している彼女の保護者の名前に反応しつつ問い返せば、彼女は口元に手を当てて「ふふ」っと笑う。
「ええ。私の歌なんですけどね、内容はいつもみたいに、その、褒めるようなものなんですけど…もう、おかしくって」
思い出したのか彼女は笑い出すのを堪えるように肩を震わせた。
その様子に、ますますライバル心が芽生える。
こんな風に彼女を笑わすことができるのは、今のところライバルの智子さんだけだ。
我が家に来る時の智子さんはかっちりとスーツを着こなした丁寧な物腰のキャリアウーマン、といった様子だが、彼女の話によるとそれはどうやら「仕事モード」らしい。
それは両親もうっすら気付いている。
彼女の父親に啖呵を切って殴った時の智子さんは力強かった。
母はあれでますます智子さんを気に入って、「もっと仲良くなりたいわ」と息巻いているのだが、今のところ全敗だ。
お誘いしても仕事を理由に半年に一度しか色好い返事が貰えないし、その一度も富永さんという女性を連れ立って来る。
富永さんは、彼女のーー玲奈さんの脱出計画の立役者と言っていいだろう。
父や父の秘書の家守さんの話しによると、頭が切れるしなにやらとんでもない情報通の友人がいるらしい。
父はそのとんでもない友人に会いたがっているのだが、のらりくらりと躱されている。
その代わり有料でちょっとした時にお手伝いをしてもらっているようだ。
仲介料をとっているらしい富永さんは、確かに父の言う通り頭が切れるのだろう。
富永さんも智子さんとはタイプの違うキャリアウーマンみたいだが、智子さんとはまた違って素と外面が同居しているように感じる。
でもとてと面白い人だ。彼女が隣にいると智子さんの鉄壁の「仕事モード」がたまに崩れるので、これまた母は富永さんを気に入っている。
それはともかくとして、智子さんに話を戻そう。
智子さんはどこからか突然現れた、婚約者のヒーローみたいなものだ。
未だに彼女がどういう経緯で智子さんと会ったのか謎のままだ。
彼女は「いつか話します」と言ってくれた。
とにかく、智子さんは赤の他人である彼女を救い、今も一緒にいて彼女にたくさんの感情を教えてくれている。
そう、智子さんが、彼女のヒーロー。
幼さゆえに力の無かった自分とは大違いだ。
今ならもっと上手く立ち回れただろうが、あの頃の自分では彼女は救えなかった。
だから智子さんは「ライバル」だ。
しかもこうして婚約者の滅多に見れない本気の笑いを引き出すような、手強いライバル。
「じゃあ今度智子さんが来た時に歌ってもらおうかな」
「やめてあげてください。智子さん、死んじゃいますよ」
軽口に彼女が笑って答えた。
「智子さんはいつになったら僕たちに心を開いてくれるんだろう?」
「ええと…」
問いかけに彼女は目線を逸らした。
開く日は来ないという事なのだろうか。
ライバルとは思っているが、もちろん智子さんの事は僕も好きだ。
特に、彼女の父を殴ったところや、彼女の話に出てくる智子さんはとても面白い。
たまに彼女が「智子さんがよく私の名前の後に“たん”って付けるのはなんでしょう?」とか「智子さんから叱ってほしいって言われたんです」とか「富永さんが来た時に二人で変な踊りをしていてーー」とか聞いていると、仕事モードの智子さんを見た時に思わず凝視してしまうくらいには面白い。
智子さんにしてもまさか彼女から僕に情報が漏れているとは思っていないのだろう。
まるで聖母のような笑みを浮かべて僕に話かけてくるのだから。
流石に智子さんの名誉のために両親に漏らすことはしていないけれど。
「智子さんは人見知りなんです…」
「会ってからもう5年経つんだけどな」
「そうですね。私も大好きな智子さんと、だ、だいすき、な、の、憲人さまが仲良くしてくださるのは、その、願いではあるのですが…」
真っ赤な顔の婚約者の不意打ちの言葉に己の顔が赤くなったのが分かる。
「僕も、その…君が大好きだから、君の大好きな智子さんと、仲良くできれば嬉しい…」
「は、はい……」
彼女の頬がさらに赤く染まるのを見つめて、恥ずかしさと幸せな喜びがこみ上げる。
そっと彼女の手を握ると、彼女は真っ赤な顔ではにかんだ。
「やっぱり憲人さまの手は大きいのですね」
「そうかな」
「はい。智子さんの手はとても小さいんです。力は強いのですが…」
「……。そうなんだ……」
智子さんは、話を聞く限り、たぶん「親バカ」というものなのだろう。
そして恐らく、目の前の婚約者も、同じくらいに「子バカ」なのかもしれない。
彼女と話をしていると息をするように「智子さん」が出てくるところが間違いない。
なんて強敵なのだろう。
まったく勝てる気がしない。
それでも絶対に彼女と結婚したいから、立ち向かうしか無いのだ。
智子さんは好きだけど、やっぱり智子さんは僕のライバルだ。
日間300位内に初めて入っておりましたので小噺を書きました。お読みくださりありがとうございました。