回り出した歯車
「お前を三条家の養子にする事になった。無駄飯食らいにいつまでも居座らせるほど俺は優しくないからな」
蔑んだ目で父が言った言葉を私は冷静に聞いていた。
この家にはずっといられないとだろうと覚悟はしていた。
覚悟しながら、その時の自分はどんな気持ちになるのかを考えていた。
悲しいのか、虚しいのか、悔しいのか、ホッとするのか。
けれど今抱いている感情は、そのどれでも無かった。
「わかりました」
私が無表情に返事をしたのが気になったのか、父は目を細めてフンと鼻で笑った。
「引っ越しは再来月だから準備をしておけ」
用件を告げた父はこれ以上一緒にいたくないのだと告げるように早々に立ち去る。
「驚かないわ、お父様。だって知っていたのだもの」
遠ざかる背中を見つめながら、私は不敵に笑った。
いたずらめいた笑顔で笑う、大好きな頼もしい女の人の姿を思い出して。
---------
「ひいいいい仕事が終わらないよおおおお」
時刻が23時を過ぎたころ智子は悲鳴を上げた。
憲史と初めて会ってから約三週間。プライベートも仕事も大忙しだ。
何よりも玲奈の通う花霞学園での企画が来週に迫っていた。
玲奈に会えるのを嬉しいと思う反面、準備ができていないことに焦ってもいる。
楽しみだけど楽しくない。
仕事、楽しくない。
書類を片付けても決して減らない。企画やイベントが終わっても次がやってくる。
プライベートの“なんやかや”については、頼もしい先輩の富永と何かと恐ろしい憲史と家守が主導で動いてくれているのが唯一の救いだ。
それでもただのんびりとしているわけにはいかなかった。何しろ智子が始めたことなのだ。
(でも終わらない! おっわらない! はー楽しくなってきたー!!)
寝不足と疲れで脳内がハイになってきた時、同じように疲れた顔の富永がやってきた。
自部署に引きこもる富永が、智子の部署にやってくるのは珍しいし、来るときは大体、怒っている時が多い。
『作れと言われた販促物の概要が来ていませんが、どうなっているのでしょうか?』
背後に悪鬼を背負った富永が怖いというのは、イベント企画室のメンバー全員の共通認識だ。
だから富永が姿を現した時に聞こえた「ヒィッ!」という悲鳴は幻聴ではないはずだ。
しかしやってきた富永の背中に悪鬼はいない。
もしかして、と智子が富永を見つめると、富永も智子に視線を向けた。
「日永さん、ちょっといい?」
「あ、はい」
案の定呼ばれた智子は席を立った。
背後からは「死ぬな! 生きろ!」「幸運を祈る!」と励ましの言葉がかかる。
聞こえるだろうが!と焦りながら智子はそそくさと富永を廊下に連れ出した。
「あれってどういう意味かしらー?」
やはり聞こえていた富永はを首を傾げる。
「いやあ、あはは。なんでしょうねえ? 疲れて頭狂ってるんじゃないですかねー」
「そうよねー? 脳髄引きずり出してやろうかしらー」
「あははははははは!」
得体のしれない薄ら寒さをかき消すように智子は笑うことですべてを濁した。
「と、冗談はさておき。憲史さまから電話があって、宮森雅紀が養子の件を承諾したみたいよ」
「ほんとですか!!」
「三条義政から約束を取り付けてきたって連絡があったみたい。あっちに書類を書いてもらった後、智子ちゃんも書くことになるから。近いうちに家守さんが持ってきてくれるわ」
「あ、はい。わかりました。ありがとうございます」
智子は頷きながら無意識に胸を押さえた。その事が意味するのは、自分の人生にとって一番の変化だ。
富永もそれをわかっているのか、顔を強張らせた智子の肩をポンとたたく。
「それで、引っ越しの方はどうなの? 進んでるの?」
「決まりました。というか提供されました。でも片付けが全然できてなくで……」
「業者入れたら?」
「そうですよねー。あーお金かかるなあ」
「引っ越し先はパトロン様が出資してくれるじゃない」
「だからこそですよ! なるべく出せるものは私が出したくて!」
グッと拳を握った智子に富永は生暖かい笑みを浮かべた。
「智子ちゃん、羽振りのいい金持ち相手に遠慮はいらないわ。言っておくけどパトロン様は私たちが何十回人生をやり直しても使い切れない資産を保有してるんだから!!」
「確かに提供されたマンションやばかったですけど」
「なんですって? 今度行くから」
「ぜひ泊りに来てください」
「行く行く。鍋パーティーしましょう」
「いいですねそれ!!」
二人で盛り上がっていると、富永が思い出したように時計を見た。
「あ! もう少しで終電なくなるわよ!」
時刻は23時30分を過ぎていた。
「え! やばい! すみません光さん、今日はこれで」
「うん、お疲れ様!」
「お疲れ様です」
(来月からはこんな時間に帰ったらダメなんだから、頑張らなきゃ!)
智子は慌てながらも、沸き上がった不安と期待に胸を躍らせた。