鷹司憲人
初めて彼女を見かけたのは、従姉妹のピアノのコンクールだった。
その時はちょうど単調な発表が続いていて、ほんの少しだけ退屈だと思っていた。
従姉妹の発表までどうしたらバレずに眠れるだろうかと企んでいると、次の発表者が現れた。
思わず息を飲んだのは、やってきた女の子がとても綺麗だったからだ。
真っ白な肌に大きな瞳と赤い唇が印象的で、さらさらの長い黒髪が歩くたびに揺れた。
退屈していたはずなのに、思わず身を乗り出しで彼女を見つめた。
流れ始めた彼女の音は、本人を表すような美しい旋律を奏でる。技術も表現力も申し分がなかった。
でも何かが引っかかった。
コンクールの優勝争いの一人は間違いなく彼女だろう。それなのに何が気になるのか。
注意深く彼女を見ると、穏やかな表情なのにどこか悲しそうだと感じた。これだけの演奏が出来るのに何が悲しいのだろうか。
彼女が演奏を終えていなくなった後も、それが忘れられなかった。
それからピアノの発表会やコンクールがあると積極的に見に行った。
女の子がいれば嬉しかったし、いなければ残念だなと肩を落とした。
見かけた時は嬉しかったけれど、やっぱり彼女はどこか憂いを帯びていて胸がざわめいた。
彼女は常に穏やかな笑みを浮かべているのに、大きな瞳にはいつも寂しさを湛えている。
彼女を笑顔にできたらいいのにな。
いつしかそんな風に考えるようになっていた。
母はそんな自分に呆れたように笑った。
『本当に好きなのね』
からかうような母の言葉が、ストンと胸に落ちる。
見るとドキドキしてしまうのは、笑顔になってほしいのは、笑顔にしたくなるのは、彼女を好きだからなのか。
気付いた事が嬉しくて、ほんの少し恥かしくてこっそりと父に彼女の事を話した。
その数ヶ月後、父が突然婚約を決めて帰ってきた。
相手は驚く事にコンクールの女の子だという。
自分の一族の権威は知っていたから強制したのかと思った。でも無理やりは嫌だ。
そう父に言うと少し硬い声で、あの女の子は今とても辛い状況にあると言っていた。
『婚約は強制ではないから大丈夫。いつ解消してもいいと伝えているからね。だからまずは彼女を大事にしてごらん。それでダメなら婚約は解消、二人が仲良くなればそのまま一緒にいるといい。でも気負ってはいけないよ』
父は一部の詳細は語らなかったけれど、少しだけ女の子の事を教えてくれた。
彼女の家では愛人の親娘が大事にされており。彼女と彼女の母親はかなり扱いが悪いらしかった。しかも母親は病気がちで最近では殆どとこに伏せっているようだ。
あまりに理不尽な話に胸が痛んだけれど、父はけして同情してはいけないよ、と真剣な様子で告げた。
『それよりもお前がしたいと思っていた事をしたらいい。彼女を笑顔にしたいんだろう? それだけでいいんだ』
こうして彼女と会える事になったのだった。
そうして会った女の子は思っていた以上に素敵な人だった。
どんな厳しい環境でも努力を怠らず何事にも真摯に向き合い、それ以上に優しかった。
異常なほどの頑張り屋で、こちらが心配になるくらいだ。
だから両親と手を組んで、彼女の肩の力を少しでも抜こうと画策した。
一緒に食事をして、得意なバイオリンと彼女のピアノで一緒に演奏をして、外出先でエスコートもした。
初め戸惑っていた彼女は、少しずつ、本当に少しずつ本当の笑顔を出すようになっていた。
嬉しそうにはにかんだ顔や、冗談を言われた時の年相応の笑い声。
大人のような完璧な笑顔ではなく、戸惑いながら瞳を潤ませて不器用に笑った彼女を愛しいと思った。
今はまだ子供で、両親のようにうまく立ち回る事はできないけれど、自分が彼女の逃げ場所になればいい。
そう思っていた矢先に、彼女の母親が亡くなった。
病院で何度かお会いしたその人は、とても綺麗な人だった。とても細くて、触れば折れてしまいそうな儚さがあったが、瞳の強さは彼女に似ていた。
一度だけ彼女の母親と少しの時間二人になった時にされたお願いを忘れた事はない。
『私がもしいなくなれば、玲奈は一人になってしまうわ。だからもしもの時はあの子の支えになってほしいの。婚約に縛られないでいい。ただ傍にいてあげてくれるだけでいいの。ーー無力で、本当にごめんなさい』
言われた言葉はそれだけではないけれど、その人は常に彼女の心配をして、己の無力さを嘆いていた。
死の影が近付いている事はどうでもよい、それより玲奈が幸せであればいい、と笑う姿に彼女が重なった。
もしも、が無ければいいのにと願ったけれど運命は残酷だ。
彼女にとって何よりも大切な、唯一無二の存在が亡くなってしまった。
すぐにでも会いに行きたかったけれど、結局会えたのは葬儀の時だ。
一度も泣いていないのだと一目でわかった。傍目からは彼女は毅然として見えただろう。
しかし自分には彼女が今にも壊れそうに見えた。
強引に彼女を人目のつかない場所に連れていけば、まるで現実に戻されたように彼女は大きな瞳を揺らがせた。掴んだ手の冷たさに、無理やりに体温を分けたくなる。
無理をしてはいけないと抱きしめれば、やがて押し殺した嗚咽が聞こえた。細い腕が縋り付くように背中に回される。
抱き締めた体はとても細くて今にも折れそうで、暖かかった。彼女が熱を取り戻した事に安堵して、絶対に一人にしないと誓った。
そう、誓った。
ーー誓ったのに。
なぜこんなにも無力なのかと自分に腹が立つ。
ある日、突然彼女と連絡が取れなくなった。
それどころか、彼女の父親が婚約解消の相談に来た。なんでも愛人の娘との縁談にしたいという話だ。
どこまで鬼畜なのかと生まれて初めて憎しみにも似た怒りを感じた。
どこまで彼女を蔑ろにすればいい。彼女の百分の一も努力したことの無い人間を捕まえて、彼女より出来がいいと笑う。
パーティーで会った愛人の娘は真っ直ぐに自分の元へ来て、婚約できて嬉しいですと宣った。
妻の喪が明けていないのに愛人の娘を連れてくる男の神経も疑うが、その娘にも呆れてしまう。
ハッキリと自分の婚約者は彼女で君ではない、了承した覚えがないと言ったが、いずれはそうなりますと笑顔を浮かべた。
自分の欲しいものは全て手に入るのだと信じ切った少女に心は急速に冷えていった。
彼女を馬鹿にして笑う少女のどこを見ても、彼女にかなう場所などない。
甘やかされて他者を下に見る少女に、酷い環境下で懸命に努力した不器用なほど優しい彼女を馬鹿にする権利はない。
無理やり手渡された連絡先の紙を捨ててさっさとその場を離れたが、少女は諦めていないようだった。
両親も彼女と連絡を取ろうと動いていたけれど、なかなか上手く進まずに3カ月が経っていた。
こうなったら宮森家に不法侵入しようか、と真剣に考えていた時に、父が深刻な顔でやってきた。
「憲人、落ち着いて聞いて欲しい。宮森玲奈との婚約を破棄する事になった」
父の言葉に自分の耳を疑った。今まで味方していたのにどう言う事だと思いながらきっぱりと首を横に振る。
「お断りします。お母さまも玲奈さんを好いてるじゃないですか。破棄する理由がない」
「分かってる。ただ色々考えた結果、それが一番いいと判断した」
「どこがですか! 彼女を見捨てろと!?」
「それは違う。俺がそんな事をすると思うのか? 白状な息子だ」
父の表情に冷えた心に熱が戻ってため息をついた。
少し悪戯めいた表情に騙されていたと悟る。
「やめてください。親子の縁を切りますよ」
「酷いな。でも宮森玲奈との婚約破棄は本当だ」
「は…?」
「その代わりに、三条玲奈と婚約してもらう」
にんまりと父は不敵な笑みを浮かべた。




