鷹司憲史
「失礼します。憲史さま、先ほど気になるお電話がありまして」
憲史がオフィスで仕事をしていると、秘書の家守圭吾が妙な表情を浮かべて入ってきた。
日頃から優秀な秘書は滅多に表情を出さない。
戸惑いともとれる顔に、珍しいこともあるものだと思いながら憲史は視線で先を促した。
「ヒナガトモコという女性をご存知でしょうか」
「ヒナガトモコ? ……いや、知らないな」
聞きなれない名前に憲史は首を捻る。
「そうですか」
「そのヒナガさんがなんだって?」
憲史が尋ねると家守は眉間に皺を寄せた。
平常であれば会社名も名乗らない輩の電話について、憲史さまにお伝えする事はないのですがーーそんな前置きをしてから家守は続けた。
「宮森玲奈さまの件で、憲史さまとお話しがしたいという内容でした」
ガタン、と憲史は思わず立ち上がった。
「それは……」
憲史の表情に家守は頷いた。
「彼女は玲奈さまの味方だと仰ってましたが、私に通じる電話番号の入手方法が不明ですので怪しいとは思います。ただ婚約破棄の件を知っているようでした」
「それについてこちらは承諾していない話だ。宮森家側から漏れているという事か」
「宮森雅紀が吹聴している可能性も考えられますが」
「いや、あちらのいい性格のお嬢さんの件に関してはきっぱりと返事をしているからね。下手には動かないだろう」
宮森雅紀の人格は信用ならないが有能な男だ。家に不利益にならないように、今は様子を伺っているところだろう。
「それでは玲奈さまご本人から聞いた、という事でしょうか」
「その可能性は否定できない。でもどうやって」
私たちも玲奈ちゃんとは連絡が取れないのに、と憲史は呟いた。
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数年前、我が息子ながらにとても良い子に育っている憲人が気になる少女がいるのだとこっそり教えてくれた。
何度か見かける度、どこか悲しそうだから笑った顔が見てみたい、笑わせてみたいと、憲人は恥ずかしそうに話していた。
滅多なことでは自分の希望を出さない息子の言葉に、憲史はその少女の事を調べた。
調べて分かったのは彼女が宮森財閥の令嬢、宮森玲奈という事だ。
調べによると宮森家では正妻の沙耶と娘の玲奈よりも、愛人の母娘が大事にされているのだという。
沙耶と玲奈は離れに住まわされ、あまりいい扱いを受けていないようだ。
それに苦言を呈した使用人達はほとんど辞めさせられたらしい。
それでも玲奈は義務のように雅紀と公式な場に顔を出していた。
幼い子どもとは思えない落ち着きと振る舞いに憲史も感心したが、浮かべる笑顔は大人のように完璧で心が痛んだ。
息子の思いを叶えたい思いと、苦境にいる玲奈の手助けが出来ればという思いで、宮森家に婚約の件を打診すると二つ返事で了承された。それだけでも宮森家の玲奈の扱いが察せられる。
しかし憲史はこの決断が正しかったのだと玲奈と会って実感した。
努力家で真面目で優しい玲奈は、同じように努力家で穏やかな気質の憲人と気があった。
妻の玲子もいたく玲奈を気に入り、すぐに仲良しになった。
玲子には玲奈の状態を伝えていたから、ことさらに自分の娘のように可愛がってくれた。
このままいけば、玲奈をあの家から出すことができる。
もう少し大きくなれば鷹司家で花嫁教育と称して引き取れるだろう。
そう安堵していた矢先、宮森沙耶が亡くなったという報せを受けた。
何度か見舞いに行ったが、美しく穏やかな女性だった。
『私はもう永くありません。その前にあなた達にお会いできて良かった。力不足で本当に申し訳ありません。どうか玲奈をよろしくお願いします』
涙を流した沙耶に、憲史も玲子も任せてくださいと約束を交わした。
その約束から1カ月と立たないうちの訃報となった。
『私達で玲奈ちゃんを支えましょう』
玲子が涙を流して言ってくれた言葉に、憲史も強く頷いた。
しかし沙耶の葬式に出てからしばらくして状況が一変した。
宮森雅紀から話がしたいと連絡があり、会った時のことだ。
『玲奈との婚約を破棄して、娘の美里と婚約を結んでほしい』
宮森雅紀は耳を疑うような提案をしてきた。
なんでも、いずれは美里が正式に娘になるから玲奈よりも美里の方がいいだろう、というものだ。
これには流石に呆れてしまう。自分がどれほど愚かな振る舞いをしているのか自覚は無いのだろうか。
『私は玲奈さんだから婚約のお話を持って行きました。お断り致します』
憲史が強めに返せば、宮森雅紀は苛立ちを見せた。
『美里の方が気立てが良い。玲奈は少し不出来でしてね、誠実にそちらとお付き合いしたいのです』
家格で言えば鷹司家の方が力がある。宮森家はそもそも提案をできる立場ではない。
『ですが、玲奈さんは三条家の生まれです。私の言っている意味は、お分かりでしょうか』
言外に宮森家の血筋だけで鷹司家に入れるわけは無いだろう、と伝えると宮森雅紀の頬に赤みがさした。
人の生まれを血筋で分けるのは好きではないし、憲史自身も拘りはない。しかし利用できるのならばいくらでもする。
『そのお嬢さんの生まれはどこなんでしょうか? 我が家に相応しい血をお持ちなんですか?』
『それは……。しかし美里に会えば気が変わるでしょう。玲奈よりも可愛くて優しい子なのです。ご子息に相応しい娘だ』
『お断り致します。玲奈さんとの婚約の継続か、婚約話自体の解消のみです』
断固として頷かない憲史に業を煮やしたのか、宮森雅紀は立ち上がった。
『玲奈が嫌だと我儘を言っているんです。絶対に美里の方が……』
『失礼ですが、予定が立て込んでおりましてね。お引き取りください。家守、宮森さまをご案内してくれないか』
『な…!』
怒りに顔を震わせた宮森雅紀は家守に連れられて部屋を出て行った。
そしてこの後、玲奈と連絡が出来なくなってしまう。電話もつながらず、公式の場にも出ない。
学校や習い事の送迎も厳重にされており、会うこともできない。
その代わりと言うように、公式な場に美里が出されるようになった。まだ完全に喪が明けていないというのに何を考えているのだろうか。しかもまだ正式な娘ですらない。
その美里にしても教育のなっていない少女だった。
立ち振る舞いは及第点だが、パーティーに出ていた憲人に纏わり付き、自分が婚約者になったらと笑う。
憲人には今回の話はきちんとしている。
憲人もまた、憲史と同じように玲奈以外とは婚約しないと断言していた。だから美里を相手にもしていない。
周囲も彼らを白い目で見ているのだが、彼らが気付いている様子はない。
選民意識の強かった宮森雅紀の父親が生きていればあり得ない事態だったろう。
花霞学園に通う知人の子供の情報によれば、玲奈は孤立しながらもごく普通に授業を受けているそうだ。
その子を通して連絡を取れないかと尋ねれば、バレたら宮森美里にも教師にも何をされるか分からないと怯えていたらしく強要は出来なかった。
宮森雅紀は花霞学園に多額に寄付をしており、生徒だけでなく教師自体も玲奈と美里の扱いを変えているらしい。
そうして調べを進めているうちに、玲奈と連絡が途絶えて3カ月が経過していた。
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「如何なさいますか?」
家守に問われて憲史はハッとした。
「私が電話をしよう」
「ですが……」
眉根を寄せた家守に憲史は苦笑した。
「電話をしただけで刺される事はないだろう。実際に話さないと私も判断できないからね」
「……分かりました。こちらが番号です」
「ありがとう。それと私の今後のスケジュールも用意してくれないか」
「かしこまりました。失礼します」
家守が部屋から出たのを確認して憲史は受話器を取った。
「敵か味方か、どっちかな」
小さく呟いて憲史は番号を押した。