日永智子の日常2
「あれ?」
思わず声を上げて智子は慌てて口を閉じた。
(こんなチャンネルあったかな?)
智子がいつも観ているのは、ストレンジTVという無料アプリだ。
このストレンジTVは、海外ドラマ、アニメ、バラエティ、音楽番組にニュース、格闘にスポーツ、果ては謎の海外番組など30種類は楽しめる素晴らしいアプリだ。
もちろん容量をかなり使うため、智子はこのために容量無制限のネットを繋いだ。
毎日欠かさず観ている智子は、番組一覧に「Strange space」という新しい項目を見つけた。
(新しいチャンネルが増えたんだ!)
智子は先ほどまでと打って変わってウキウキとチャンネルを繋いだ。
すると流れていたのは日本が舞台らしいドラマだ。
画面に映っているのは、小さな黒髪の少女と、ベットで体を起こしている病弱そうな美しい女性だ。
『お母さま、お加減いかが?』
可憐な鈴のような声で、少女が問いかけると、女性は優しく微笑んだ。
『玲奈のお花のおかげで、とっても元気よ』
そう女性が答えた瞬間、画面に少女の顔が映る。
(わ、綺麗な子)
現れたのはとんでもない美少女だった。美少女は女性の言葉が嬉しかったのか、花が咲いたように微笑んだ。
『ほんとう?』
『本当よ。それに玲奈がいてくれるのだもの。それが一番、母さまは嬉しいの』
『……お母さま、だいすき』
少女は思わずといったように、女性に抱きついた。女性は少女をふわりと抱きしめると、優しく頭を撫でる。
『母さまも、玲奈が大好き』
(これは…! どっちも可愛いけど、お母さま死んじゃうパターンかな…?)
病弱な母親と健気な娘、という物語に死の気配は常に付き纏う。
微笑ましいこの母娘は、観ていてとても心が洗われるがその分先を考えると悲劇を連想してしまった。
そして不思議なのが、場面の切り替えがやたら遅い。今も二人が何気無い話をしているのを、延々と流していた。
普通であれば、テンポ良く編集される筈なのに、ゆったりと二人の会話が続いていく。
(可愛いからいいんだけど。フランス風なのかな)
そう考えてるうちに、貴重な昼休みが終わりを告げる。
智子は残念に思いながらアプリを閉じた。
(でもなんかいいかも)
一つ楽しみが出来て、智子はウキウキと午後の業務をこなした。
ーーーー
悪いことがある日は悪いことが続く事が多い。
そして、それは良いことに対しても、同じことが言える。
「日永さん」
「あ、富永さん。お疲れ様です」
「お疲れさま」
帰り際の智子に声をかけてきたのは、販売促進デザイン部の中堅で係長の富永光だ。
富永は大人しく地味な外見なのだが、他部署から鬼と恐れられる強者である。
曖昧で急な依頼が降りてくるのが日常の販促部の中で、富永は受ける仕事と切り捨てる仕事を判別していく。
その際に、適当な仕事を持っていけば冷徹に対処されるのだ。しかも、氷のような睨み付きで。
かくいう智子も睨まれる事がある。しかし智子は富永に懐いていた。
何故なら、この富永が智子に販促部の作業場を当てがってくれた人なのだ。
富永も狭く深くを好む人間だ。
入社直後の智子は富永と話す機会があり、悩みを打ち明けるとそれならここを使いなさい、と居場所をくれた。
たまに飲みに連れてってくれてお互いに仕事の不満を零したりしている。
因みに真面目な見た目に反して、富永はふざけた事を平然と言うタイプだ。
それがおかしくて、智子は飲みに行くのが苦ではない。
「どうしたんですか?」
智子が問いかけると富永は目をキラリと光らせた。
「作業場、大丈夫だから」
「え?」
「なんか変な虫が入ったでしょう、今日」
虫、と反芻して智子は噴き出した。
「ちょっと、光さん」
笑いながら思わず飲み屋に行った時のように下の名前で呼んでしまう。
「うちに来た虫が、うちの作業場で智子ちゃんに会ったって言うのよ。まあそれはいいんだけど、一緒に食事をしたって言うじゃない」
富永は微笑んでいるが、目が笑っていない。
それは富永が営業部を苦々しく思っているからだ。
それと言うのも、曖昧で急な依頼をかけてくるのが断トツで営業部だからである。
今日までに簡単なちょっとした販促物を、を合言葉に販促部に代わる代わる現れる営業部。
しかも大雑把な人間が多い営業部は、依頼も雑だ。
さらに他部署の女性社員と恋愛関係になってドロドロする事が多い事でも有名だ。
もちろん全てが全てではないのだが、富永はこれまでの迷惑な振る舞いに完全に憤っていた。
「「私達の縄張りを侵すなんていい度胸してるわね。もちろん縄張りを侵すからには相応の覚悟があるのよね?」って言っておいたから、多分もう大丈夫よ。可哀想に、震え上がってたから」
「光さん…! ありがとうございます!!」
「いいの。居場所が無くなってあなたがいなくなると私も困るから。それにアイツラに私達の城を荒らさせはしないから。また来たら、私も呼んで食事しましょうって言えばいいわ」
悪役のようにニヤリと笑う富永に智子は両手を組んで「神よ…!」と叫んだ。
「ふふふ、いいわ。私を崇め奉りなさい!」
「はい、富永さま! 一生ついて行きます!!」
一通り二人で騒いで、智子は足取り軽く帰路に着いたのだった。
ーーーー
一人暮らしの自宅についたら、先ずは化粧を落としてシャワーを浴びる。
軽く部屋を片して冷蔵庫にある物で食事を作る。
最初に面倒な事をこなせば、後は智子の自由時間だ。
今日は22時の帰宅と、比較的早い。それでもこれが当たり前になっているのは嬉しい事ではない。
ともかく、智子は即席のサラダと親子丼、1缶のビールでテーブルに座った。
「さてとテレビテレビ」
智子はさっそくアプリを立ち上げた。
この時間は確か懐かし海外ドラマ一挙放送か、人気の日本ドラマがあったはずた。
チャンネルを変えながら、智子はふと昼間の番組を思い出して探した。
「あったあった」
やはり「Strange space」というチャンネルが存在していた。
流石にこの時間はやってないだろうと思いつつ選択すると、予想に反して昼間見た玲奈と呼ばれた美少女を映し出した。
しかし少女は昼間の笑顔とは打って変わって硬質な無表情を浮かべていた。
あまりの表情の違いに、智子は思わず番組に見入る。
『私の前に顔を見せるなと言っただろう』
煩わしそうな声を上げたのは、端整な顔立ちの男性だ。
何処と無く少女に似ているが、その顔は怒りを隠そうともしない。
『お願いです、お父さま。お母さまにお会いしてください』
それは、昼間の少女とは違う、大人びた声音だった。
それでも微かに震えているのは、目の前の大人の剣呑な空気に怯えているからだろう。
『あんな女、会う価値もない。お前もだ』
『どうしてですか! お母さまはーー』
『触るな!!』
男は少女の手を跳ね除けて去っていった。
少女は呆然とその後ろ姿を見つめ、諦めたように俯く。
『ねえ、そろそろ気付いたら? あなたたち母娘、この家の厄介者なんだって』
少女に声をかけたのは、少女と同年代らしき女の子だった。
玲奈が完璧で妖艶な美少女なら、この少女は可憐と言える。茶に近い緩く巻かれた髪に、フリルのついた可愛らしい服がよく似合う。
その傍には使用人らしき女性が佇み、少女を虫を見るような目で睨んでいた。
『本当は、お父さまは私のお母さまと結ばれるはずだったの。なのにあなたの母親のせいで台無しにされた。現にお父さまは、私や私のお母さまだけを愛してくれるわ』
少女は反論もせず、じっと相手を見つめていた。表情の抜け落ちた美少女の顔は、顔立ちが整っているからか迫力がある。
相手が僅かにたじろぐと、音もなく少女は踵を返した。
『ああ、気味が悪い。美里様、早くお部屋に戻りましょう』
『そうね。あいつらの菌がうつったら嫌だもの』
そんな二人の言葉はきっと少女に届いていたはずだ。
現に自室に戻った少女は、崩れ落ちるように床に座り込む。
その顔に表情は無い。けれど酷く胸を打たれた。
(何この子、演技上手すぎる)
鳥肌が立つような演技だった。抜け落ちた表情の中に蠢く、やりきれない焦燥。
これを10歳前後の少女が演じているのか。
その後、智子は延々と続くドラマに魅入られるように、一晩を過ごしてしまった。