日永智子の日常
「日永さん、今晩の飲み会に来るの?」
「いえ、今晩は用事がありまして」
営業部の柴崎の問いかけに、智子は申し訳なさそうに答えた。
「そうなんだ、残念」
「申し訳ありません」
智子が殊勝に頭を下げれば、柴崎は慌てたように手を振る。
「いやいや。急な飲み会だったし、しょうがないよ」
「次は予定合えばいいんですけどね。あ、私午後の会議の資料まとめるので、お先に失礼します」
「そうなんだ、じゃあまた」
「はい」
智子はお弁当をまとめると愛想笑いを浮かべて席を立った。
(お昼くらいは1人で食べたいのに)
内心でため息をつきながら智子は自分のデスクに腰をかけた。お昼時だから、オフィスには誰もいない。それにはホッと息をつく。
午後の会議の資料はとっくに作成済みだ。貴重な休み時間を仕事にあてるほど、智子は仕事熱心ではない。
嘘をついたのは柴崎と話すのが面倒だったからだ。
営業部の若手の柴崎は、顔立ちも整っていて人当たりも良い。だから嫌いなわけではない。
ただ、智子はさして親しくない相手と休み時間に話すのが好きではないのだ。
(明日からしばらくあの場所使えないな)
去り際の柴崎の言葉から、またあそこに来ることは予想できる。
多くの人と接するのを好まない智子は、会社の中でも人気のない場所で食事をとることが多い。
智子が利用しているのは、販促物デザイン室が作業場にしている個室の一角だ。
昼休みに作業をする人は少ないし、していたとしても親しいデザイン室の女性達は智子を容認してくれた。
デザイン制作や手作業に特化するデザイン室の女性は大抵、智子と同じように人見知りで必要最小限の付き合いを好む。
だから同じ性質の智子を気の毒がって、敢えてあの場所を提供してくれているのだ。
デザイン室は自分達のブースに自らの城を構えているため、大抵そこで個別に食事を取っているようだ。
対する智子が所属する企画部は、人とコミュニケーションを取ることを好む人間が多い。
彼らは大抵、人好きで世間話が好きで、面倒見が良い。
智子が1人で食事を取れば、どうしたのだと心配してくるのだ。
なんのことはない。智子は1人静かに端末のアプリを楽しみたいだけなのだ。
仕事相手として仲良くしているし尊敬もしているが、そうした気質の違いは智子を疲弊させる。
幸いにも、様々な部署と仲が良い企画部の面々は、日によって食事相手が違うため、智子がどこでとうしているかまでは把握はしていないのだ。
だからこそ人知れず作業場の一角に潜んでいたのに、よりによって営業部に見つかるとは苛だたしい。
たまたま電話をしながら通り縋った柴崎が智子を見つけて、数分後にコンビニの弁当を抱えてやってきた。
そしてやれ手作り弁当は素敵だの、自分も食べたいだの、好きなものはなんだのかんだの、行きたい場所はあるかだの、どうでも良い話ばかりをしてくるのだ。
智子だって鈍くは無い。それが意味する事は理解していた。
だが、智子には恋愛、というものをどうしても理解できなかった。
家族愛ならば知っている。仲睦まじい両親の元に長女として生まれ、生意気で可愛い妹弟がいる。
彼らを愛しているし、時には自分よりも家族を優先させる。
だけど、恋愛としてそれはできなかった。駆け引きにときめきを一切感じられないのだ。
恐らく、自分にはそれが欠落している、と智子は自覚していた。
生まれつき運動ができない、絵が描けない、勉強が苦手、そんな風に人間には得手不得手がある。
智子は完全に、恋愛そのものに興味を持てなかった。
恋愛不能症、とどこかで聞いたことがあるが、それを聞いた時に智子はそれを自分だと思う。
もしかすると、いつか誰かと家族愛的に愛情を抱く日が来るのかも知れないが、何事においても自分を優先させたい自分には無理だろう、とも思う。
こうして29歳を迎えて、周囲がポツポツ結婚していく中、焦りは無かった。
どちらかというと、怠けるのが好きな智子はどうしたら楽に収入を得つつ1人楽しく余生を過ごせるのか、という事ばかり考えている。
智子は1人の時間が好きだ。
こうした休み時間ではなく、家に入って楽な格好をしてお酒を飲みつつ好きなテレビや海外ドラマ、映画を観る。
その時間は誰にも邪魔できない至福の時間で、恋愛はそれを妨げるとしか思えない。
メールはしたくない。電話も嫌だ。会うなどもってのほかだ。
親しい友人ですら、月に一度が限界なのである。
智子は、1人の時間をこよなく愛し、大切にしていた。
だが、この一年、智子は疲れていた。
会社が大手企業とコラボし、大繁忙期を迎えていたためだ。
終電帰りは当たり前、休日出勤当たり前。
これには心身共に疲れ切った。
何しろ智子は仕事のために生きてはいない。
生きるために、趣味のために仕方なく仕事しているのだ。
もちろん、そうした考えはあるが、勤務態度も職場での人間関係もかなり良いはずだ。
小心者の智子は、働きたくないと嘆いても、ミスが怖くて死ぬ気で仕事をこなしてしまうからだ。
入社して6年になるが、実力重視の会社の中で、なかなか頑張っていると思う。
だが、この一年、自宅でのんびりと過ごす時間が減っていた。
超勤に体調を壊し、海外ドラマや映画をレンタルしにいく余裕もない。
テレビをつける気力も湧かず、唯一の手慰みは端末アプリの無料テレビをザッピングする事だ。
休憩中もそうして心を落ち着ける。だから仕事を踏ん張れるのだ。
なのにその時間を奪われるなんて。
(明日からどうしようかなあ。外に出ると時間経つの早いのに…)
智子は項垂れながら、イヤフォンを取り出して端末に繋ぐと、アプリを起動した。