水素水って体にいいらしい。
私は、答えが出ないものが嫌いだ。
はっきりと正しい答えが出る数学は好き、国語は嫌い。
自分に分からないことがあると、不安になる体質である。
物事は常に白黒はっきり付けたい。今までもそうしてきた。そしてこれからも。
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「ねぇねぇ、聞いた? 水素水って体にいいらしいよ」
「聞いた聞いた! 人気モデルも取り入れてるんだって……」
クラスで一番声の大きい女子と声の高い女子が会話している。
休み時間だし何したって勝手だけど、私の席のすぐ後ろで騒がないでほしい。
自分は水素水どころではないのだ。
今私には、デビュー当時から応援している舞台俳優がいる。
今は表にはなかなか出ないけれど、才能が有るので有名になるのも時間の問題だろう。
そんな彼に現在二股疑惑が浮上している。事務所の先輩女優とグラビアアイドル。
最初彼の誠実さや爽やかさが好きだったので、噂が出たときは狂いそうなほど泣いた。
本人は否定しているし、私もファンである以上できれば彼を応援したい。
しかし、火のない所に煙は立たないというし。
実際、彼の家に出入りする不審な女の様子の写真もある。
違う女性と歩いているのも目撃されている。信じたくても信じきれない。
毎日、不安と「分からない」という恐怖に押しつぶされそうになるのだった。
「私も確かネットで見たよ! 美容にいいし痩せるらしい! 」
「コウサンカサヨウっていうのがあるらしくてさー」
「うち水素水サーバー買っちゃった! 」
私の苦しみなんてつゆ知らず、おバカなやつらは雑音を増やす。
声の大きい女子が電波塔となり、受信した女子たちがやってくる。
流行りを追うことに命を懸ける彼女たちは、生半可な情報を自慢げに語りだす。
私は彼女らに聞こえるほど大きなため息をついた。
キャッキャと盛り上がるあんたたちに朗報だ。
水素水にそんな効果はないぞ。
そもそも科学的に、美容だとか健康にいい影響が出るデータなんてないし
ネットの書き込みはほとんどがサクラだ。
どこで情報を仕入れたのか知らないが、もうちょっと詳しく調べれば分かるだろうに。
まぁ、そんな脳すらないんだろうけど……。
そんなことも知らないおバカたちの会話は熱を増す。
完全に自分たちの世界に入っている……。前にいる私のことも少しは考えてよ?
居心地の悪さに耐え兼ね、ちょっと外の空気を吸うことにした。
ガタンと大げさにイスを下げて彼女らの前を通り過ぎる。すると、
何あれ、感じ悪いとひそひそ声が聞こえた。
おいおい、さっきまでの勢いはどうしたのかな?
大声で話していたのが急に小声になったものだから、教室全体の空気がピシャリと静まり返った。
さらに居心地が悪くなる。あーあ、やだやだ。
静けさの原因が私だと悟った賢いクラスメイトは一斉にこちらを見た。
後ろを向いていても、彼らの鋭い視線が分かる。チクチクと背中を刺している。
ガラガラとこれまた大げさに扉を閉めた。教室の重々しい雰囲気を遮断したようで
ちょっと気持ちよかった。自分の帰る場所はなくなったけれど。
次の授業が始まるまでまだ時間がある。
どうするかな、とふと足元を見ると小さな紙飛行機が落ちていた。
誰かが飛ばしたのかな? 大抵、隣のクラスのふざけた男子が飛ばしてそのままにしたのだろう。
真っ白な紙で作られたやけに精巧なソレは、拾ってくださいと無言で訴えかけている。
特にすることもない私には、拾わないという選択肢は存在しなかった。実際、ちょっと気になったし。
触ると、サラサラとした少し柔らかい質感に驚く。
何の紙かな。安いルーズリーフとかではなさそう。
くるくると回してみると、何かうっすらと透けて見えた。
あ……。中に文字が書いてある。
一瞬で私の脳内は内容の推測を始めた。
悲惨な点の解答用紙か? 甘酸っぱいラブレターか? はたまた決闘の申し出か……。
ええい、案ずるより産むが安し!
私はためらいもせずパラパラと紙飛行機を解体した。
『おくじょうまできて。』
差出人も宛先も書かれていない、とてもシンプルな手紙がそこにあった。
ラブレターにしては情報が少なすぎるし、決闘の申し出にしては文字が優しすぎる。
流れるような文字で書かれた10文字程度の手紙は、まるで量産された手紙の一つを手に取ってしまったような感覚がした。私は次々と疑問が生まれる。屋上ということは、そこから飛ばしたってこと? そもそも何のために? 屋上に行ったら何があるの? 誰が待っているの?
一度疑問に思うと確かめずにはいられない。私の立ち止まっていた足を動かす同機には十分すぎる謎。誰が何のために書いたのかは分からないが、私を異様にわくわくさせる何かがあった。
気づけば私は屋上への階段を一歩ずつ上っていた。
屋上へは昼休み以外立ち寄ってはいけないという決まりがあったような気がしたが、
そんなルール今の私には通用しない。
あまり使われていない扉は、キィといかにもな音を立てて開いた。
ゆっくりと覗き込む。どうやら誰もいない。
もしかして騙された? 誰かの暇つぶしに付き合わされてる?
まさか、
「あの女子たちのいたずら……? 」
最悪なシナリオが頭をよぎる。まさか、そんなこと。
「いやぁ、屋上からの景色はやっぱりいい眺めだなぁ」
私の不安を遮る救いの声がこだました。
その声はおよそ男子。しかし、それにしてはやけに細いというか美しすぎるというか……。
私はその声の主を見ようと辺りを見回す、がどこにも見当たらない。
となると、上か!
私は扉の横に付いている梯子に足を掛ける。
誰だ、どんな人だ、何が起きるんだ……。
ひょこっと顔を出すと、そこには座って夕日を見つめる"彼"の姿があった。
サラサラと透き通るような髪に陶器のような白い肌。全体的にほっそりとした体つきだが病的な感じはない。横顔でも分かるほどのまつ毛の長さ、フェイスラインがそこらの男子とは造りから違う。なるほど、これが美青年ってやつか……。彼は手に持っているものをすっと持ち上げる。この動作一つですら美しい。しかし、彼の手元にはおおよそ似つかわしくない飲料があった。
ラベルにはただ水素水、とだけ書かれていた。
……え、っと?
すらっとした腕でキャップをくるりと開けると、流れるような手つきでそれを飲む。
それが命の源であるかのように、ゴクゴクと流し込み喉の渇きを潤している。水素水で。
彼の異質なまでの美貌は、メルヘン世界の王子に出会ったような気さえ起こさせる。水素水飲んでるけど。
気に召すまで飲み続けた彼は「ふぅ」と息をついた。
ペットボトルを夕日にかざし感慨深く見つめる。
その様子は、まるで何かの美術品を鑑賞しているようだった。
……あれ、何を見せられているんだ私?
「あ、あの……」
勇気を出して声を掛けると、彼はハッと我に返った様子で声の主を探した。
よかった。水素水ワールドから抜け出せたみたい。
そこで初めて私はちゃんと彼の顔を見た。透けるような肌にうすいピンク色の唇。
夕日の光を映してキラめく彼の瞳は深いグリーン色だ。
彼は、美青年という言葉すら失礼に当たるほどの青年だった。
彼はいつからそこにいたの? とでも言いたげな顔をしている。
状況がいまいち掴めないのはこっちのほうだけど。
「あ、あの、紙飛行機を、見て……」
緊張か、喋ることが久しぶりだからか。絞るようにしか言葉が出ない。
彼はあぁ、とだけ言葉を漏らし静かに立ち上がり手を差し伸べた。
「いらっしゃい。水素水、飲む? 」
差し伸べてくれた彼の手に自分の手を重ねた。水素水は丁重にお断りした。
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夕日を見つめる彼、の横に小さく座って待つ。しかし、ただただ時間だけが過ぎる。
このままではらちが明かない。私は静けさを遮った。
「……どうして、ここにいるんですか? 」
疑問に思ったことを口にしてみる。気になることは山ほどあるのだ。
しかし彼の反応は芳しくない。
「どうして、って言われてもね。僕にも分からないよ」
「……では、どうして私を呼んだんですか? 」
「君が僕の招待状を拾ってくれたから」
答えになってないんですが……。
美青年は少しミステリアスなくらいが良い、とは思うが
まともに会話しようとなると考え物だ。
「では紙飛行機はどうやって飛ばしたんですか? 」
「普通に飛ばしたんだよ。飛ばしたことないの? 紙飛行機」
く、手強い……。だんだん煽られている気がするし。
私が質問ばかりしているからか、気に入らない内容だからか。
彼は少しうっとおしげな表情を浮かべる。
その表情すら絵になるほどの美しさだ。
私は夕日に目を向け、次にいう言葉を考える。
なるべく答えてくれそうなこと……。
「では、この質問で最後にします。なぜ水素水を飲んでいるんですか? 」
すると彼の頬の筋肉が緩んだ。ビンゴか?
「それは、水素水が素晴らしいからだよ」
純真な笑みを浮かべる彼は、何にも穢れていない少年のようだった。
「と、いうと? 」
彼の細い髪がサラサラと風に揺られてなびく。
彼は無垢な笑顔のまま、およそ宣伝文句のような効果をぺらぺらと口にする。
それはテレビでタレントが口にしていたような。
いかにも怪しいステルスサイトで書かれたような。
クラスの女子の会話と一字一句違わない。
だめだ、完全に騙されている。
それは、近所のおばさんの悪い冗談を信じる子どもよりも純粋で無知だった。
どうしよう。言わないほうがいいのだろうか。
しかしこのまま信じさせておいて良いことなどないだろう。
変な気を起こして水素水を崇め出したりなんかしたら大変だ。
彼の心からの安らかな笑みを崩すのは心が痛むが、彼の今後の為だ。
私は意を決して真実を告げた。
「あ、あの……水素水って実は、美容の効果はないんです。
確かに水素水は抗酸化物質であり、病気の予防になるでしょう。
美容効果やダイエット効果もあるかもしれません。
しかしそれは正しい根拠に基づいたことではないですし、科学的根拠も曖昧です。
およそどこかのサイトの情報を見たのかもしれないですけど、
それはサクラの可能性が高いです。それは高値で買わせようとする宣伝文句でもあります。
効果に確かな根拠はないんです。誰かが効果が表れたといっても、確かめようがないですし。
だから、その、いくら水素水を飲んだところで効果は、ないんです」
怒りだすだろうか、悲しくさせただろうか。私はちらりと彼の顔を見た。
しかし、私の推測とは裏腹に彼の表情に影はない。
そして、彼の口から意外な言葉が飛び出してきた。
「知ってるよ。そんなこと」
え?
「じゃ、じゃあどうして飲んでるんですか! 無駄じゃないですか」
「簡単だよ。さっき君も言っていたじゃないか。信用できないって」
どういうこと?
私の心の声を感じ取ったのか、彼は間髪入れず話し出す。
「君の言っていることは、科学的根拠に基づいているそうだけど、
それは信用できる科学者が言っていたのか? 君の知っている人なのか?
それがもし意地悪な人だったら? その人にとって水素水の悪評が利益に繋がるとしたら?
きっとデマを流すだろう。それこそサクラだね。
およそどこかのサイトの情報を見たのかもしれないけど。」
「そ、そんなの、確かめようがないじゃ……」
……あ、そうか。
私はいつの間にか己が放った言葉を繰り返していた。驚きで、声も出ない。
こんなの少し考えれば分かることだったのに。
本当にバカだったのは自分だ。
匿名の知らない伝聞に真実味を感じていた。
皆の知らない情報が、正解なのだと信じて疑わなかった。
私もまた、騙されていたのだ。
水素水の真実も、二股報道の真実も私には確かめる力なんてない。
完全に己惚れていた。
「君って、巷で大きく報道されることより人の間で小さく
噂されていることこそが真実だと思ってるんじゃない? 」
その時、彼の言葉にどこか違和感を感じた。
……いや、違う。本当は私は、怖くて目をそらしていたのだ。
噂の噂のそのまた噂が散乱して、途方もなくなる恐怖。
自分がどれを頼りにしていいのか、だれを信じていいのか分からなくなる不安。
誰かの黒い陰謀がちらちら見える「情報の海」に溺れてしまうのが怖かった。
事実を確かめることができない、自分の無力さを感じることが嫌だった。
一方的に信じていた人に裏切られたと思いたくなかった。
どこかで踏ん切りをつけなきゃどうにかなりそうで、自分に信じ込ませていたのだ。
私は知ってしまった。
今まで太く真っ直ぐだと思っていた己の"芯"が、本当は細くてもろいただの棒っきれだった。
体がどんどん重くなるのを感じる。自分の周りが暗くなる。
今まで必死に気づかないふりをしていた孤独感が、隙だらけの私を襲う。
私の心は不安と恐怖と孤独に蝕まれ、今にも崩れ落ちそうだった。
気づいてしまった。いやだ、苦しい、助けて……。
私は救いの手を差し伸べてほしい一身で、恐る恐る尋ねた。
「それじゃあ……それじゃあ……どうしたら、いいんですか? 」
「簡単なことだよ」
「どちらも信用ならない。それなら―」
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その後、応援していた舞台俳優の二股はデマであることが分かった。
ライバルの別の舞台俳優が、人気を落とすために作り話を流したそうだ。
私は安心して日々を送ることができている。
……でも、この噂も本当は嘘かもしれない。
でも私はそれでもいいと思っている。私の生活は、彼に出会う前よりも
ずいぶんと過ごしやすくなった。
もしまた分からない事が出てきたとき、彼の言っていた言葉を思い出すようにしている。
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「――それなら、自分の信じたいほうを信じればいいんだよ」
私は目を見開いて、彼の顔を見つめた。
彼の心理は実にシンプルだった。
「そうじゃない? 世の中どんなことだって
自分が知れることなんてほんの一部でしかない。
僕らは小さな世界で小さなことに一喜一憂して生きている。
楽しいかもしれないけれど、時にはどうやっても分からないことだってある。
苦しくなったら、自分が信じたいことを信じればいい。
だから僕は水素水を飲む。」
「……そうですか」
「そうだよ」
彼は私の手を取り、静かに呟いた。
「自分でいくら考えても出ない答えだって、たくさんあるんだよ。」
私の体が急に小さくなったような気がした。いや、この大きさが本当なのかもしれない。
今まで考えていたことが急にバカらしく思えた。
思えばこんな広大な世界の中で、いやに小さな悩みを抱えていたものだ。
彼のグリーンの瞳に移った私の顔は、安堵の表情を浮かべていた。
初作品でした。まず何か短編を書いてみたい、と思っていたら
ふっと降りてきたテーマが水素水でした。なんでや。
入れたい事詰め込んだら、無駄に長くなってしまいました。
読みにくい部分ばかりだったと思いますが、ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。
ちなみに水素水飲んだことありません。
(※この小説は、水素水の効果を裏付けるものではありません)