#08
掃き出し窓から入った藤沢は、そのまま窓の前で立っていた。玄関が開く音と女性の声が届き、足音がして、居間の扉が開かれた。藤沢の父、宏晴を先頭に、みなみ、ルリ嬢の順に続いた。みなみは、宏晴の腕に寄り添ったままで居間に入ると、きょろきょろと辺りを見回し、部屋の片隅に置きっ放しになっている、美月と八重樫の荷物に目を留めた。
「ここにも…何で、ものがあるの?あの子たち、そんなに長く、ここにいたの?」
妻に問われ、返答を求めるように息子を見る父親に向けて、藤沢は説明した。
「言ったろ、友人たち。昨夜、男を捕まえるのに力を貸してくれて、一晩泊まった」
みなみの腕が、だらりと垂れ、ばさりと音を立てて鞄が床に落ちた。落ちた鞄が足に当たりそうになったルリ嬢が一歩横に動いた。
「部屋!部屋を調べましょう!何か盗られているかも!何かされているかも!早く、早くっ」
愕然とした表情で言い募り、みなみは宏晴の二の腕を取り、袖を引っ張った。
「ちょ、ちょっと待て!ええと、ケン、どこ、使った?」
引っ張られた方向に体を傾かせたまま、顔だけ藤沢の方に向け、宏晴は尋ねた。
「…居間と風呂と便所と…台所か」
「お風呂!盗撮!カメラとか仕込まれているかも!やだやだ、怖い、怖いよ…」みなみの膝から力が抜け、体が崩れた。「どうして、ねえ、どうして、宏晴さん。どうして知らないひとをお家に入れたの?」
「ああ、うん。ああ…」
床に座り込んだみなみに涙の溜まった瞳で見上げられ、宏晴はみなみの肩を抱きつつ、他人が聞くと全く意味をなさず、恐らく自分でも内容を理解していない言葉をぶつぶつと唱えた。
「…俺、とっとと事情の説明をして、出て行きたいんだが」
「あ?ああ、そう、そうしてくれ」
極力父親以外を視界に入れないようにしつつ、面倒臭げに言う藤沢に、宏晴はうなずいた。藤沢はそのまま、祖父母に説明した内容より詳細な経緯…男が車庫に落書きをして、住宅に入り込もうとしたので、水をかけて追い払ったこと、男が凶器を持っていて、ルリ嬢と見間違った相手に金を出せと言っていたこと、男は今最寄りの警察署に拘留されていること…を、説明した。途中みなみは、散水ホースを勝手に使って庭を水浸しにしたことを聞いて、花の様子を確かめに庭に向かおうとしたり、侵入者が凶器を持っていたということに震え出したりし、その度に宏晴が宥め、藤沢が言葉を止める、ということを繰り返したため、大分時間は掛かったが、何とか大部分を説明し終えた。藤沢は息を吐くと、一瞬だけ、青ざめ、壁に肩をもたれさせているルリ嬢に視線をやった後、また宏晴に戻し、もっとも説明し辛い部分を話し出した。
「…それで、その男、そいつにどこかのじいさんを紹介して、そいつはじいさんから金をもらっていた、って叫んでいた」
そいつ、のところでルリ嬢を指して、無表情に言われた藤沢の言葉を、宏晴は咄嗟に理解出来なかったらしく、眉をひそめ、目を瞬かせた。藤沢が横目で見やると、ルリ嬢は青かった顔色を更に真っ青にして、今にも倒れそうな表情で立ち竦んでいた。宏晴より、みなみのほうが意味を早く理解した。ひいっ、という呼吸とも悲鳴ともつかない音を喉の奥から漏らすと、声を大きくして、叫んだ。
「嘘、嘘、嘘!嘘よ!そうでしょう。こいつは嘘つきなのよね。嘘ばかり吐いてわたしたちを陥れようとしている。邪魔なのよ、わたしたちが。どうしてそんなに憎まれるの?ねえ、どうして?悪いのはあいつでしょう?」
最初はルリ嬢に向けていたが、最後の方は宏晴に向けての言葉だった。宏晴はまだ完全に状況を理解しているとは言い難い表情だったが、取り敢えず顔を起こし藤沢に向け、問い尋ねた。
「お前、何でまた、そんなことを言い出すんだ?」
「…警察行って、聞いてこいよ」藤沢は、まだ血色の回復しない顔でそう言い放つと、掃き出し窓を開いた。「俺、学校、戻るから」
「ま、待って!」
それまで、無言だったルリ嬢が、壁から身を起こしつつ、必死の形相で叫んだ。藤沢は、予想外のところから掛けられた声に、不思議そうな顔で振り向いた。
「違うの!あの、違うの!だから…あれ、あれは、ショウくんなの!」
ルリ嬢は続けざまに言い放った。その目は吊り上がり、ぎらぎらと、異様な光を帯びている。藤沢は眉をひそめた。
「は、ショウ?ショウが何だ?」
「ショウくんが、お金くれるなら、付き合うって言ってくれて、だから、お金が必要で…」
藤沢は息を呑み、目を見張った。宏晴もぽかんと口を半開きにして、ルリ嬢を眺めている。
「だから、言わないで。誰にも言わないで。ショウくんに迷惑がかかっちゃう」
懇願するルリ嬢に向け、藤沢が次の言葉を発するより早く、みなみが悲鳴とも咆哮とも付かない声を上げた。みなみ以外の三人は、共にぎょっとして、みなみを見やった。みなみは肩に置かれていた宏晴の手を払うと、開け放してあった居間の扉をくぐった。
「だ、だめっ。待って、ママっ」
ルリ嬢が手を伸ばして止めようとしたが、かすりもしなかった。廊下を駆ける足音が響く。ルリ嬢は慌てて後に続き、宏晴が更にその後に続いて廊下に出て行く。掃き出し窓から体が半分出ていた藤沢は、反射的にウッドデッキから庭に飛び降り、玄関から飛び出してきたみなみの腕を掴んで止めようとした。むこう十軒先まで響くような金切り声が上がった。藤沢は、その巨体をびくりと痙攣させ、手を引いた。みなみは白いスカートをなびかせ、階段を駆け下りると、門扉を壊れる勢いで開き、道路に飛び出した。
みなみの金切り声は、一種の衝撃波となって藤沢の頭の天辺から足の爪先まで駆け抜けた。藤沢は全身が硬直してしまい、門扉から飛び出したみなみが、三軒隣の、ルリ嬢が出した名前の持ち主がいる家に向けて、走り行くのをしばしの間ただ眺めていた。
「何があった?」
掛けられた声は、住宅側ではなく、道路側からだった。視線を移すと、限界まで開いた門扉の向うから、坊坂が心配そうな表情をのぞかせていた。
「あ、ああ」
よく分からない返事をしつつ、藤沢は急に吐き気を覚えて、片手で口元を覆った。藤沢の異変に気付いた美月が、素早い動きで藤沢家の敷地に入りかけたが、藤沢は逆の手でそれを制すると、自分が階段を下りて、道路に立った。
「大丈夫だ。悪い、気味の悪い声、聞かせちまって。…すみません、また、騒がせて」
美月の傍まで来たときには、一時の吐き気は収まっていた。藤沢は美月たちに謝り、向かいの大学生に向かって謝った。片手に外したイヤフォン、片手に如雨露を持ったまま、大学生は会釈で返した。傾いた如雨露から水が溢れて、側溝に流れて行った。
「おい!何ださっきの声は?みなみに何かしたのか!?」
「…本人に聞けよ」
藤沢の背後から声が聞こえた。宏晴が階段を駆け下りてきて、掴み掛からんばかりの態度で藤沢に迫った。藤沢は不機嫌そうに応えた。宏晴はなおも何か言い募ろうとしたが、金属がぶつかる甲高い音が一同の耳に届き、皆一斉に音の聞こえてくる方角を見た。藤沢家から三軒離れた家の前、みなみがその家の門扉を乱暴に揺すぶって音を立て、置かれていた朝顔の鉢を取り上げると、門扉に叩き付けた。
「ま、待てっ!」
宏晴が、焦った声を上げつつそちらに向かって駆け出した。藤沢がその後に続いたので、美月たちも走り出した。その間も、みなみはその家の門扉を揺すり、叩き、インターフォンを連打している。門扉は外側からでも開閉可能な型なのだが、動転していて開けられないのか、そもそも開ける気がないのかは分からない。美月たちが追いついたときには、インターフォンがつながったらしく、みなみは門扉を攻撃するのは止め、半泣きになりながら、言葉になっていない声で子機に向かって捲し立てていた。
「やめなさい。すみません、ちょっと、お話を、うかがいたくて…」
宏晴はみなみの肩に手をやってインターフォンの前から退かすと、代わりに自分が話し出した。後ろに下げられたみなみはぐずぐずと鼻を鳴らしていたが、すぐそばにいる藤沢と美月たちに気付いて、身を震わせた。口を開け、何か言い掛けたが、近所のひとたちが何事かと集まって来ているのを見て、閉ざすと、周囲に向かって弱々しく頭を下げた。
「朝顔が…」
後方から小さく聞こえた声に、美月は少し体を回して、声の主を見やった。園芸用の手袋をした女性が、悲痛な表情で、門扉の近くに転がっている朝顔を見ていた。植木鉢の図案である微笑んだ顔の太陽は、横倒しになりながらも、一同を見下げてにやにやと笑っていた。
インターフォンで話していた宏晴が、不意に言葉を切り、顔を上げた。この家も藤沢家と同じく門扉から玄関の間に建物半階分ほどの差があるので、顔を上げるとちょうど玄関が見通せる。重々しい、取っ手を引いた音がして、玄関扉が開くと、でっぷりと太った中年女性と、女性と身長は同じくらいで幅は半分ほどしかない中年男性と、二人より頭半分背の高い、十代半ばの男子が姿を見せた。昨夜、野次馬に来ていた、あの男子だった。




