#03
「生まれたことを聞いた、ってことは、まだ小さいんだよな」
坊坂に確認され、藤沢はうなずいた。
「確か、まだ一年経っていない」
それを聞き、坊坂は少し難しい顔になった。
「家にいていてくれって頼んできたのは、車とか壁に落書きされたりとか、庭を荒らされたりとか、最悪、放火、とかの可能性を考えたわけだよな。小さな子供というか赤ん坊がいるのなら、矛先がそっちに向かったら怖い、というのものあるな」
前半は自明のことで、後半は、乳児がいるらしいと聞かされて、全員が考え至ったことだった。つきまといを受けている当人とその母親が家を空けたのも、どちらかというと赤子へ危害を加えられることを恐れたための気がしていた。
「それなのに、警察への通報を渋っているのは、相手が中学生かもしれないとか、ストーカーみたいなのは、通報しても逆にこちらが悪いと言われたり、真面目に取り合ってもらえなかったりするからだと思う。だったら、明確な犯罪を犯したところを押さえる、というのは、どうかな」
「わざと煽って壁を破壊させたりするのか?」
八重樫が少し面白そうに、問い掛けた。不謹慎だということはもちろん自覚している。
「いや、出来るだけ物的な被害は出したくない。だから、相手の目的であるルリ嬢を目の前に置いてやろうかと。つきまとって嫌がられている奴なら、本人を目の前にしたら、通報出来るような言葉を吐いてくれると思う。殴り掛かってくるとかも、あるかもしれない。それを録画しておけば、少なくとも、後々の証拠になるだろう」
「その本人がいないわけだが…」
坊坂の提案に、藤沢が怪訝な表情で口を挟んだ。
「もちろん本当のルリ嬢じゃない。使鬼だよ。ルリ嬢の外見そのままの。それを作って、目の前に出してやる。まあ、使鬼は映像記録には残らないけど、使鬼を庭に置いて居間から録画すれば、映像には、こちらに向かって暴言を吐いているか、何も無い空間に殴り掛かっている危ない奴が残る」
坊坂は、特殊能力者…主に悪霊退治とか悪鬼調伏とかをする人手…の養成している学院の生徒であるが故の方法を示してきた。ただ相手を唆すのでは、その時点でこちらの非にされるかもしれないが、誘因が残らないのであれば、問題無い。おまけに使鬼なので、罵られようが暴力を受けようが、被害はない。
「坊坂、作れるのか」
学院の生徒の大半は、もともとそういう稼業の家の出身だが、藤沢は入学以前はその手のことに関わり合いがない生活を送っていた。使鬼はまだ授業で出てきたことはなかったが、生徒の中に使える者がいたので、藤沢もそれがどういうものかは知っていた。もっとも坊坂が使えることは知らなかったので、そう尋ねた。
「一番簡単なやつならな。木の板を削って、ひとがた、木偶にして、作る。材料を取って来る」
坊坂は立ち上がり、キャリーバッグを置きっぱなしにしている玄関へと向かおうとした。そこで、しばらくの間口をきいていなかった美月も腰を浮かした。
「俺も行く。藤沢も、ちょっと一緒に来て、靴箱を開けてくれないか?」
藤沢のみならず、他の二人も、美月の意外な言動に不思議そうな顔をした。だが、美月の真剣な様子を見ると、藤沢は無言で立ち上がった。結局八重樫も付いて来たので、玄関の三和土と廊下は少し窮屈に感じられた。
坊坂が、靴箱の前に置かれていたキャリーバッグを移動させ、中を探っている間に、藤沢は靴箱を開けた。靴箱の戸に飾られていた押し花は、芳香剤の役目も果たしていたらしく、戸が開けられるのに合わせて、ふわりと良い香りを漂わせた。靴箱の中は隙間無くみっしりと詰められていた。手入れされた男性用革靴に、全て同じブランドのロゴが入ったスポーツシューズが数足。その他、踵の高い婦人靴や女性用ウォーキングシューズに、手の平に乗る大きさの、まだ未使用の幼児用の白い靴、日傘も入れられていた。
「凄え。全部ハイエンド品じゃん。藤沢のお父さん、スポーツやってんのか?」
スポーツシューズを見た八重樫が目を輝かせつつ、感嘆の声を上げた。
「元柔道選手だ。大学の時に国体も出たけど、怪我で止めた。でも、それは、勤め先だから買ってる」
藤沢の父親は、靴箱にあるスポーツシューズのブランドのメーカーに勤めているとのことだった。八重樫は興奮し、何度も大きくうなずきつつ、靴箱の中をのぞいていた。一方美月は、ざっと一通り目を通すと、すぐに後ろに下がった。
「ありがとう。あ、お手洗い、借りるね」
藤沢に声を掛けると、さっさと廊下を戻って行った。幸い洗面所にも手洗い所にも扉に表示があったので、案内されなくても迷うことはなかった。美月が去って間もなく、坊坂が悪戦苦闘しつつ、手の平ほどの大きさの、長方形で鋏で裁断可能な薄さをした木の板を取り出したので、三人は居間に戻った。
美月は手洗い所に入ると、無礼に不作法に非常識を承知で、備え付けの棚を開けた。替えのトイレットペーパーに芳香剤や洗剤の買い置きが並べられ、お揃いの柄のペーパーホルダーやカバーやマットが畳まれ、整頓されて置かれている。それらを一瞥して、溜め息を吐くと、美月は戸を閉めた。
美月が居間に戻ってきたとき、坊坂は既に木片に三箇所の切れ込みを入れ、爪で梵字を刻んでいた。興味深そうに藤沢と八重樫がその手許をのぞき込んでいる。
「ルリ嬢の、写真とかあるか?なければ普段使用しているもの、何でも良いんだけど」
「そこ。フォトフレーム」
坊坂が尋ねると、八重樫がテレビの横を指した。が、間髪入れずに美月が否定した。
「その中、ルリ嬢の写真、無いよ」
三人は、一斉に美月を見やった。美月は腰を下ろした。
「さっき、ずっと見てた。ランダムじゃなくて、繰り返し表示になってる。一巡したけど、人物で写っているのは八重樫のお父さんらしきひとと、再婚相手らしきひとと、赤ちゃんだけ」
三人は、今度はフォトフレームに、一斉に目をやった。ちょうど、四十代半ばほどの、体格の良い、藤沢がそのまま年を重ねたような顔をした男性と、ベッドから半身を起こし、嬰児を抱いた髪の長い女性の写真が表示されたところだった。男性は『命名:琉空』と書かれた紙を手に掲げている。
「おかしいと思ったんだよね、玄関の靴。藤沢のお父さんは出張中なのに、仕事に穿いて行くような革靴と、成人女性用のミュールが出ている。普通、そういう埃を被ったら困るのは靴箱に入れておく。靴箱が一杯で入らないなら、出しておくのは、出たり入ったりが激しくて、汚しやすい子供の靴だけど、ルリ嬢の靴は出ていない。靴箱、中学生の女の子が穿くような靴もサンダルも一足も無かった。学校に穿いて行っている靴一足だけしか持って無くて、今はそれを穿いて、出ているんじゃないかと思う」
「…」
三人は沈黙した。顔にはそれぞれ、思い思いの表情が浮かんでいるが、正の感情である者は一人もいなかった。
「…っと、ああ、言いたいこと、ってか、考えていることは、分かる。けど…」
「藤沢のお父さんがお金を渡してないとは思わないよ。想像だけど、再婚相手さんが、買うのを、拒んでいる」
実を言うと、美月はルリ嬢が母親から疎まれていると確信している。手洗い所の棚に、生理用品の買い置きがないことで、結論付けていた。再婚相手も消費するものだから、購入していない筈はない。なので恐らく、再婚相手は自分で使う分を、自室にでも置いている。ルリ嬢に使わせないために。
再び沈黙が落ちた。美月は、空気を重苦しくしたかったわけではないので、殊更に声の調子を上げて、言葉を続けた。
「まあ、そういうこともあって、外に走ったというか、男と付き合ってみたらおかしな奴だったとか、ってことも考えられるけど、それはそれはそれとして、ルリ嬢の部屋の中以外だと、彼女の痕跡があるものはほとんど無いんじゃないかな」
「茶碗とか、箸は?」
台所と正対する格好で座っていた八重樫が、顎でそちらを示した。
「ああ、それなら」
藤沢が腰を上げた。他三人も何となく立ち上がると、全員で台所へ入った。電灯を点けると、重ねられたご飯茶碗が、食器棚の一番手前にあった。四客あったが、桜色と浅葱色で柄が揃いのものと、白い簡素なもの、プラスチック製の幼児用、の四客だったので、消去法でどれがルリ嬢のものかは一目で分かった。
「何とか、なるな」
坊坂がつぶやくと同時、不意に台所に、身長百五十センチほどの、平凡で特徴のない顔立ちに、肩に掛かる毛先が少し波打っている、セーラー服姿の少女が現れた。本人に似ているかどうかは確かめようも無いが、どう見ても術で作られた作り物には見えないその姿に、美月と藤沢は素直に驚嘆し、感心した。手で触れると、それらしい感触まであったが、実際に質量として存在しているかは分からなかった。
「これ、動くの?」
「簡単な動作は命令すれば出来る。立ったり、座ったり、歩いたり。でも声は出せない。そこまで高等な術ではないもので」
まだまだ修行中、とのことだった。