雪に沈む
あの日も白い雪が降っていた。
私の銀の月……輝ける太陽……
彼女に初めて接したあの時も……
「あら、目が覚めたの? 大丈夫? 辛くはない?」
彼女はぼんやりとした意識しかない私に心配そうに尋ねてきた。
最初に感じたのは質素だが暖かな場所ということ。
同時に安全な場所だと……理由もなくそう思った。
次に目に入ったのは彼女の怒ったような優しい笑顔。
「聞いてるの! 起きてるのはわかってるんですからね! どこの里のこだか知らないけど、挨拶や、意思表示をしなくっちゃだめじゃない。どんな状況でも、ネ」
彼女は茶目っ気たっぷりに片目を閉じて見せた。
そして私は安全を確信した。
……彼女は私が誰か知らなかった。
短く切り揃えられた白銀の髪、淡い蒼の瞳。
少しその蒼い瞳が私には珍しかった。
私のそばにいた人たちの目は黒か、淡い茶色、琥珀色というところだったから。
「だいじょうぶ?」
彼女が心配そうに私を覗き込んできた。
「え?」
蒼い瞳がすごく近い。
「大丈夫ね。頭も打ってるのかと思っちゃったじゃない。えっと、知ってるかもしれない けど、あたしはジルクラレンス・ルフェール。ジルでいいわ」
彼女はすっと離れると明るく笑って自己紹介をした。
蒼い瞳が軽くひそめられた。
「……口、きけないの? あなたの名前は?」
私は慌てて名乗ったんだ。
「イリュー・セクテア・ハイランド」
つい本名を……
彼女は気付かず、明るい春の日差しのような笑顔を私に向けてくれた。
「イリューね! 春までにはきっと良くなるから、また旅に出られるわよ! もう少し落 ち着いたらあなたの里のことや外のことを話して頂戴」
彼女は明らかに誤解していた。
後で指摘すると彼女は照れくさそうに笑った。
明るく気さくな彼女が私は好きになった。
「その仔はパパローニ、あたしが孵したシャドリの子供。まだ大きくなるのよ」
馬よりもほんの少しだけ小ぶりな鳥を指して彼女はそう言った。
「このターバルの里ではこれを馬がわりに飼育しているの。あなたのトコは?」
「う、馬かな」
私の答えにジルは神妙に頷いた。
「普通そうよね。馬とかロバとか、なのにね、砂地の里では蛇を騎乗用に飼育してるんですって。信じられない。あ、見た事ある?」
私は誤解した状態のまま言葉を続けるジルに首を振って見せた。
「あら、そう。バクフェルトは見て来たんですって」
バクフェルトとは私の命の恩人で、友人、同時にジルを捨てた彼女の元婚約者だ。
彼のことを言うときには彼女は寂しげになる。
「私が住んでいたのはナーキフ、ここより北にある山国だ。聞いたことはある?」
ジルは顔を輝かし頷いた。
「知ってるわ! 白い街並みにあかあかと燃え立つ松明と、華やかで奔放な娼婦たち、高 みにそびえる王城と愛と復讐の女神の神殿!」
子供のようにジルは知ってる知識を披露した。
窓の外には雪。
私は彼女と4年の月日を過ごした。
移動し、己を鍛え高める民族であるターバルの民には珍しく、ジルは移動を嫌った。
定住を好んだ彼女は私が居ついた事を喜んでいるようだった。
「居着いてもいいのかい?」
夏のある日に尋ねると彼女は笑った。
「嬉しいわ。怪我人に、老人、子供くらいですもの。この里にいるのはね」
それから腰に両手を当てて睨みつけるふりをした。
「たとえ、あなたがなぁんにも出来なくったってね」
そう、私は彼女が言うように何もできなかった。
料理なんて厨房に立ったこともないし、家の補修なんてどう手をつけたらいいかわからない。
掃除だって人がしてくれるものだった。
彼女はそんなことを気にした風もなく、親鳥のように私の世話をしてくれた。
そして冬のある日に息子が生まれた。
付けた名前は『イリュージン』私はいつまでもあの土地に居れると錯覚していた。
子供と、ジルと、ささやかな家庭の中で……。
秋のあの日、バクフェルトがやってきた。
「イリュー」
彼は真剣な眼差しで私を見、ジルとイリュージンを部屋の外へ行かせた。
「どうしたんだい。バーク」
嫌な予感が背中をざわりと這い上った。
「ハイランドの2老人が亡くなった。お前を本格的に探し始めている」
私はそのときどんな表情をしていたんだろう?
凍りついた感覚が全身を包んでいた。
信じられなかったのだ。すぐには……認めたくなかったのだ。
「……父上と母上が?」
バクフェルトは頷いた。
「……戻らなくては……」
私は無意識のうちにそう呟いた。
バクフェルトは静かに頷き、私の肩を掴んだ。
「わかってると思うがジンとジルは置いていくんだ」
私は彼の言葉に彼を見た。
真剣な眼差しは私ではなくジルのことを気遣っての言葉だった。
何を言えたろう?
戻れば私を待っているのは妻と国主としての務め。
白く美しい私の故郷……。
私の『妻』妹イリス。
国を出た時はまだ12になったばかりの妹。
私の子を産み育てることだけを望んで育った妹。
同じ灰色の髪、淡い茶色の瞳。花と小さな生き物が好きな無邪気な妹。
守らなくてはいけない……。
……何を?
「バーク、ジルとイリュージンを……」
彼は静かに頷いた。
「わかってる」
「バーク、聞いてくれ。私は、国を変える。変えてみせる。そして……」
2人を迎えにくる……
言葉は続けられなかった。
白い雪が降っている。
すべてを覆い隠す白い雪が。
「お兄様。イリス王妃は身ごもりました。……わたくしも……これからもハイランドの血は続きますわ。安らかにお眠りくださいませ」
薄茶色の髪の女はそう言って微笑んだ。
「そして、いつか復讐を果しますわ……」
混濁する意識の最後は愛しい妻の姿や声でなく、腹違いの妹の声。
その決意を止めることも、真実を見ることもなく、君に、ジルクラレンス、君に……帰ることが……できない。