百万に一つの偶然
砂木と古橋の両刑事が、雨森をスペラ座に訪ねたのは十一月×日、犯行から三日後のことであった。雨森は事務所に在席し、窓から射し込む日差しは、十一月とは思えぬほど暖かかった。
刑事の来訪を予定していなかった雨森は、突然のことに驚いたものの、慌てることなく、二人の刑事を衝立の奥のソファーへと通した。
犯行に使った靴や手袋などは、すでに処分してある。珠代のことは報道されておらず、事故として処理されたものと考えていた。罪の意識はなく、心は平穏そのものだった。ほんのいまも、舞から送られてきたハガキを繰り返し読んでいたところだった。
「県警の砂木といいます。こちらは南署の古橋刑事です」
埴輪を思い起こさせる顔をした刑事が、名刺を差し出した。チャコールグレイの上下を着、まだ二十代にしか見えない。背丈も一六〇センチほどで低いが、それでも名刺の肩書は警部補となっていた。
「お若いのに警部補なんですね」
「ええ、僕は俗にいうキャリア組というやつなんです。階級は上なんですけど、経験や実績は古橋刑事のほうがずっとベテランで、いろいろ教えてもらっているところです。つまりは、ひよっこというわけですね」
刑事が自分のことを僕というのも、照れたような笑みも、妙ちきりんだった。まるで子供の仕草みたいだ。
古橋という、髪の色が、白髪が多いせいで灰色になってしまっている年長の刑事が、そんな砂木を愉快そうに見ている。
「それにしても、夢のある職場ですね。羨ましいです」
壁に貼ってあるポスターを眺めながら、砂木が言った。
「映画がお好きなんですか」
「マニアというほどではありませんが、よく見ます。ビデオで、ですけどね」
「どういうのがお好きか、お聞きしたいですね。小屋にかける作品の参考にしたいもので」
「ううん、そうですね。ヒッチコックは好きですね」砂木は唇で笑んだ。「『ダイヤルMを廻せ』なんてどうでしょう」
「グレイス・ケリーが綺麗でしたね。なかなか通じゃないですか。ヒッチコック特集、考えときましょう。で、そのヒッチファンの刑事さんが、今日はどんなご用件でしょうか」
「あっ、すみません。つい仕事のことを忘れていました。こういうところが僕ダメなんですよね。じつは本日おうかがいしたのは、黒貴珠代さんのことでお聞きしたいことがあってですね。ご存じないかもしれませんが、黒貴さんは先日亡くなられました」
「えっ、珠代がですか」
おおげさに見えないよう、ほどほどに雨森は驚いたふりをした。
砂木はそのことに無頓着な感じで、遺体が浴槽で発見されたこと、胃から大量のアルコールが検出されたこと、頭蓋骨後頭部に陥没があるものの、直接の死因が浴槽内での溺死であることなどを説明した。
「一見、酩酊状態にあった黒貴さんが風呂に入ろうとして転倒し、その際に、運悪く水道の栓に後頭部を強く打ちつけてしまい、気を失った状態で浴槽内で溺死したように見えるんですけど、いささか疑問があってですね。ただその前に、雨森さんと黒貴さんのご関係を教えてもらえませんか」
支障がない程度に、雨森は珠代との関係を話した。過去につきあいがあったこと、最近になって珠代のほうから訪ねてきたこと。話していいことは、できるだけ正直に話した。
「私と珠代のことはいまお話した通りですが、それで、疑問とはどういうことでしょう」
最後に雨森はそうつけ加えた。
「黒貴珠代さんの死を事故死とした場合、不可解な点があるんですよね」
砂木が眉根を寄せた。
「たとえばですね。些細なことですけど、その夜黒貴さんは、大事な人と夕方の六時に外で約束があるということで、お店のほうをバイトの女の子たちに任せているんです。その大事な人というのが、いまだに誰かわからないんですよね。それに、その人物とどこで会って、どこで黒貴さんが、あれほどの量のアルコールを飲んだのかもわかっていません」
「そのことと、珠代の死になにか関係があるのですか」
「そうですね。そう言われると、僕としても返事のしようがないですね」
砂木は軽く受け流した。
「つぎにですけど、事故とした場合、黒貴さんは浴槽に入って転倒したことになるのですが、その位置で転倒すると、傷の角度に問題があるらしいんです。法医学的な詳しい説明は省きますが、水道の栓と後頭部の傷跡に、角度的に微妙な差がみられるというわけです。つまり、浴槽で転倒した場合、そういう傷はできにくいということですね」
「その説明を私に求められても」雨森は苦笑しながら、首をひねった。「ただ刑事さん、珠代は泥酔していたと言われましたよね。そうしたら、転倒した際にも、常識では考えられないような倒れ方をしたのかもしれません。それにまた、浴槽ではなくタイルの上あたりで倒れて頭をぶつけ、その時はなにごともなく、湯につかってから意識を失って死亡したとは考えられませんか。特殊な例でしょうけど、後頭部に致命傷を受けながら、その時はなんともなく、自宅に帰ってから死んだ人の話を、なにかの本で読んだ記憶があるのですが」
「なるほど。ご明察です。僕もそんな話を聞くか読むかしたおぼえがあります。そう考えれば、確かにありえないことではありませんね。そういう説があったか。いやあ、勉強になります」
砂木は呆気ないほど、すんなりと雨森の言い分を肯定した。
それが、かえって雨森には気になった。砂木の言動には、なにか余裕みたいなものが感じられる。
「あと靴に関しておかしなことがあってですね」
砂木が続けた。
「黒貴さんが亡くなられた日に、じつは水道管の工事があって、家の前の道は掘り起こされていたんです。午後六時ごろから九時ぐらいまで雨が降って、そこがぬかるんでしまい、住人はそこを通らないと家に入れない状態だったわけです。よろしいですか。つまり、帰宅した黒貴さんにはぬかるみを避けることはできなかった。それなのに、それなのにですよ。驚いたことに、黒貴さんの靴には泥がほんの少しもついていなかったんですよ」
意外な点を指摘されて、雨森はなにも言えなかった。そのとき珠代は自分の背におわれていたのだから、靴に泥がつかないのも当然だった。反駁しようにもその余地はなく、迂闊だった自分を、雨森は心の中で叱責した。
「六時に黒貴さんは外で人と会うはずでしたから、雨が降る前に帰宅していたと考えるのは無理があります。そうすると、空中でも歩かないかぎり、誰かが酔った黒貴さんを、抱えるなりおんぶしたりしてぬかるみを通ったということになりますよね。その誰かとは、誰なんでしょう。どなたか心当たりはありませんか」
珠代の死が事故死であることについて、警察が疑いを持っているのは明らかだった。それに、目の前の砂木という刑事は、思ったより手強い相手であるらしかった。最初に、珠代と会った人物がいることを匂わせたのも、それを自分が認めないことを計算した上でのことである。しかしそれでも、その人物と自分とを結びつけることはまだできないはずだ。雨森は、焦りを感じながらも、冷静に考え、この場を終わらせようとした。
「なるほど。これで六時に珠代が会った人物と、珠代の死につながりができたわけですね。しかし、七年ぶりに私は珠代と再会したわけですから、最近の珠代の人間関係までは知らないのですよ。ですから、お役に立てそうにはありませんね」
そうですかと、砂木は落胆したように息をついた。両の掌を合わせ、それを顔の前にもってくると、埴輪顔に困った表情を浮かべた。
「ううん。やはり、僕なんかまだまだですね。古橋さんに比べると、新米もいいとこです。こうなったら、洗いざらい知っていることをお話しするしかありませんね」
変わり身が早いらしく、砂木はいっぺんに気落ちを払拭すると、真っすぐに雨森を見つめてきた。
「最初からお話しすると、じつは僕たちは、当初から黒貴珠代さんの死を事故死とはみていないんです。事故死に見せかけた殺人として、捜査を開始したわけです。それというのも、遺体が発見された場所が、黒貴さんの住まいじゃなかったからなんです。黒貴さんは、九月の末に、今回の現場である家を出て、別のアパートに引っ越しされていたんです。つまり、黒貴珠代さんは、他人の家の浴槽で死んでいたんですよ」
予想もしない事実に、雨森の両の眉がびくっと吊り上った。珠代が車の中で引っ越しをしたいとつぶやいていたこと、殺害前に、どうしてわたしがここにいるのかと不思議そうに部屋を見まわしていたことが、頭の中でフラッシュバックした。そういえば、部屋の趣味も変わっていた。しかしそれがまさか――。
「どうやら驚かれたみたいですね。やはり、そのことをご存じなかったのですね。事件が報道されなかったのもそのためです。殺人とした場合、引っ越しの事実を伏せておいたほうが捜査上いいだろうという判断で、報道関係者に協力を頼んだのです。他人の家で死んだ人間を、警察が簡単に事故死と判断しないのは当然ですよね」
砂木は顔をほころばせ、さてと前置きすると居住まいを正した。
「それでは、引っ越しをしたはずの黒貴さんが、どうしてあの家に入ることができたのかそれが問題になります。もちろん黒貴さんは、明け渡しの日にあの家の鍵は返していますし、それに、現場に残された彼女の所持品の中にも、あの家の鍵はありませんでした。ですから、黒貴さんがあの家に単独で入ることはできません。つまり、仮に、黒貴さんが酔って家を間違えたと考えたにしても、彼女には入ること自体が不可能でした。また、錠に傷跡などはなく、ドアが鍵で開けられたのは明白でした。となると、考えられるのはひとつ。さきほどお話しした、珠代さんを抱きかかえるなりおぶったりした人物、その人物があの家の鍵を持っていたということです。
ではここで、その人物について考えてみましょう。いまわかっているのは、その人物が泥酔した黒貴さんをあの家に運んだということです。そしてその人物は、あの家の鍵を持っていて、黒貴さんが引っ越したことを知らなかった。彼は――とりあえず彼としときますね、ただ酔った黒貴さんを家まで送り届けたつもりだったのでしょうか。いいえ、残念ながらそうではなく、彼は事故死に見せかけて殺害するつもりだったのです。なぜなら、あの家に彼の痕跡が見当たらないからです。しかも、故意に痕跡を消し去っているからです。ここで思い出して欲しいのが、例のぬかるみです。彼も家に入るにはぬかるみを通らざるをえなかったのはわかりますよね。それなのに、あの家の靴脱ぎ場には、その跡がないのですよ。泥のついた足形なり、痕跡が。つまり、彼がそれを拭い去ったからです。たんに酔った黒貴さんを家まで送っただけの人物が、そんなことをするとは思えません。では、どうして彼はそんなことをしたのか。いうまでもなく、自分がそこにいたことを知られたくなかったからです。第三の不明の人物がそこにいたことがわかると、黒貴さんの死が、たんなる事故死に見えなくなるからです。つまり、最初から、黒貴さんを事故死に見せかけて殺害することこそが、彼の計画だったのですよ。そしてその計画に、黒貴さんの引っ越しという、思いがけない齟齬が生じてしまった。
あとは子供にでもわかる引き算みたいな推理です。現在あの家の鍵を持っているのは、管理を任されている不動産屋と、新しい入居者と、それにあなたの三人。そのなかで、黒貴さんの引っ越しを知らなかったのは――そう、雨森さんあなただけなのですよ」
崩壊の兆しを雨森は感じ取った。追いつめられながら、それでも必死で思考を繰り返した。砂木の論法を打ち破る突破口を、ひたすら探した。
やがて光明が見え、雨森は唇に笑みをうかべた。
「ひどいですね。とんだ濡れ衣もいいとこだ。まず、どうして私がその家の鍵を持っているといえるんです。七年前に珠代から合鍵を受け取ったおぼえはありますが、とうのむかしにそんなものは捨てましたよ。それに、もし持っていたとしても、この七年間のあいだに、珠代が私以外の男に鍵を渡している可能性だって十分あるわけじゃないですか。第一、入居者が替わったのなら、不動産屋が錠を変えるのが当然でしょう。それなら、私が鍵を持っていても、入れないのは歴然としているじゃないですか」
「おっしゃる通りです。他のことはおくとしても、新しい入居者の希望で、錠が変わったのは事実です。ただ、なにか誤解されていませんか」
砂木がソファーから半身を乗り出した。
「僕がいっている鍵は、あなたが白沢舞さんから預かった鍵のほうなんですよ」
最初雨森には、砂木の指摘が理解できなかった。しかしそれがわかった瞬間、震えが走り、顔は蒼白になった。そんなことがありえるなんて、いや、ありえるはずがない。すべてがわかったいまとなっても、それは、あまりにも信じがたい事実だった。
「どうやら、おわかりになったみたいですね。まさに奇跡としかいいようのない偶然です。黒貴珠代さんが引っ越した家に、こともあろうに白沢舞さんが越してくるなんて、あなただけでなく、誰にも予想すらできないことですよ。人口百万都市での百万に一つの偶然。ほんとうにそれが起こったのです。そしてそれが、あなたを摘発した。いいですか、もう一度言いますよ。あの家の鍵を持っていたのは、不動産屋と白沢舞さんとあなたの三人。そのなかで、引っ越しを知らなかったのは。事故死を装って殺害したのは。それを計画し実際にできたのは……」
砂木は静かに言い放った。
「あなたしかいないのですよ」
すべては、偶然という名の神の鉄槌だった。それ以外に言葉はなかった。
雨森は虚空を見つめたままで言った。
「舞はこのことを知っているのですか」
「じつは、遺体を発見したのは同じ劇団に所属されている純子さんというかたなんです。舞さんがひと月ばかり留守にするので、舞さん所持の鍵を預かっておられ、用心を兼ねて、時折部屋の空気を入れ替えに行かれていたんですね。そして遺体を発見し、すぐに警察に通報されたというわけです。調査に当たった僕たちは、話を聞くために昨日熊本にいる舞さんのところに出かけたばかりです。もちろん、そこであなたのことを聞いたのですが、詳しいことは話していませんから、たぶん舞さんは、まだはっきりした事情はわかられていないでしょう」
――私が戻ってきたら、私の部屋で新居祝いを二人でしましょう。Aさんも、そのときは映画祭も終わっているから大丈夫ですよね? 約束ですよ。
そう言っていた舞の姿が、雨森の脳裏をよぎった。
「舞に、すまなかったと言っておいてもらえませんか」
砂木は、なにも答えなかった。
古橋が立ち上がり、雨森の肩に手をおいた。
「署までご同行願います」
完結に長らくお待たせしまして、申し訳ありませんでした。
本格というには論理という点でやや弱いという気がしますが、作者としては、冒頭においてそれなりの伏線を張っておいたつもりです。時間がありましたら、ご参照ください。
この小説は、某ミステリクラブにいた時に、Iさんが提出された推理ゲームへの僕からの解答が元になっています。それがなければこのアイディアは思いつかなかったでしょう。この場をお借りして、Iさんに感謝いたします。