鍵
思いがけぬ来訪者に慄然としている雨森とは対照的に、雨森の姿を目にした珠代は、嬉しそうに歩み寄ってきた。
「りっぱになったわね信也。見違えちゃうほどだわ」
珠代は目を細めて、雨森を頭の先から爪先まで見つめた。
「仕事中だったんでしょう。ごめんなさいね。近くに来たものだから、つい足が向いちゃって。それにしてもほんと……」
雨森は珠代の言葉を遮ると、慌てて従業員に外出する旨を告げ、珠代を近くの喫茶店へと連れ出した。
「それで、どういうお話でしょうか」
苦みの強い珈琲を口にして、雨森のほうから切り出した。忌まわしい過去の記憶が一度に甦り、頭の中で渦を巻いていた。
「どうしたの。そんな他人行儀な言い方して。わたしと信也の仲じゃない、もっと普通にしてよ。ただ、なつかしくなって会いに来ただけなんだから」
雨森は黙って珠代を見つめた。
七年という歳月は、明らかに珠代を蝕んでいた。以前の輝きは失われ、すさんだ翳りが顔を覆っていた。化粧でも目尻のシワは隠しきれず、ノースリーブのワンピースはくたびれていた。それでも珠代であることだけは間違いなかった。老けたとはいえ、珠代らしさが残っていた。
珠代は自分の近況をとりとめなく話した。いくつかの職場を替え、いまは私鉄の大橋駅近辺のスナックで雇われママをしていると言う。
「一度なんかこの商売に見切りをつけて、事務職なんてのもやってみたのよ。でも、ぜんぜんダメ。ひと月ももたなかったわね」
珠代はさみしそうに笑うと、雨森を見やった。
「その点、信也は大正解だわ。前からあんた、映画が好きだったものね。テレビで、信也が映画の紹介をしているのを見た時は、最初信じられなかった。名前が別な人のものだったら、他人のそら似ですませていたところよ。で、局に電話して、スペラ座の責任者だということを教えてもらったの」
三か月ほど前から、深夜の情報番組で、二週間に一度の新作映画の紹介と解説を担当している。それがこういう事態を招くことになるとは、雨森は悔やんでも悔やみきれない思いだった。
四十分ほど珠代は埒のない話を続け、雨森は黙ってそれにつきあった。
その夜、舞と食事を共にした雨森は暗い気分を抱えていた。
「どうかしたんですか? 今夜のAさん、なんだかひどく疲れてません」
舞が心配そうな眼差しを向け、雨森は右手を大げさに横に振った。
「大丈夫、ちょっと仕事のことでね。僕もたまには、真剣に仕事をしないとね」
舞が微笑み、雨森もそれを返した。
つぎに珠代から連絡があったのは、九月に入ってすぐのことだった。十月の下旬に開催されるF映画祭の準備が本格的に始動しだす時期で、雨森が一年で一番忙しくなるころだった。
どこかで会いたいという珠代に、夜遅くても構わないならと返事すると、それでは客がひけたあとの珠代の店でということに話は決まった。
今頃になって珠代が自分になにを求めているのか、雨森には解せなかった。あえて考えられることといえば、金の無心しかない。腹立たしいものを感じながらも、それですむことならこれほど楽なものはない。自分にさほど金が無いことをわかったら、珠代もそれほど無理を言うことはないはずだ。過去の経験から、珠代が金銭に貪欲でないことを雨森は知っていた。
約束の夜、昼の間に現金を用意した雨森は、車を路上に止め、駅裏の飲み屋街へと足を運んだ。珠代の店はすぐに見つかった。一階に同じようなスナックが集まった雑居ビルの一画だった。
雨森が扉を開いて中に入ると、奥のスツールに珠代がひとり腰かけて煙草をくゆらしていた。
カウンターだけの細長い店である。天井の明かりが落とされ、店内はうす暗い。
なにか飲むと言う珠代に車だからと断って、雨森は珠代の隣のスツールに座った。そして、厚みのある封筒を差し出した。
「なにかと入り用だろうと思って。ただし僕にできるのは、これで精一杯だ」
珠代は、中身を見ることもなくそのまま封筒を雨森に押し戻した。
「誤解しているわ信也。そんなつもりはないの」
珠代は煙草を消すと、新たに一本を口にくわえた。そして深々と吸って吐き出すと、カウンターの上に突っ伏してから口を開いた。
「ねえ信也、あのころのわたしたちに戻れないかしら」
予想もしていなかった言葉だった。
「テレビで信也を見てからというもの、なんだかなにも手につかなくなっちゃって、どういうわけか、あのころのことをつくづく思い出しちゃうのよね。ううん、思い出すというより、信也と一緒だったころのことが勝手に浮かんできちゃうの。それで、いてもたってもいられなくなって、あの日信也に会いに行ったのよ」
指先に挟んだ煙草から青い紫煙が立ちのぼり、珠代はひとりでしゃべり続けた。
「信也がドアから出てきた時は、長い間思っていた人に、ようやく会えたみたいで、ほんと嬉しかったわ。目の前に信也がいる、それだけでもうよかったぐらい。そして気づいたの。信也じゃないとダメなんだって。信也と別れて他の男ともつきあったけど、ほんとに愛したのはあんたひとりだってことに、わたし気づいたのよ」
珠代の思惑に、雨森は唖然とするしかなかった。よりを戻すことで、過去の自分、あのころの自分を、珠代が取り戻そうとしていることを雨森は悟った。そんなことができるはずがないのに、珠代はそうしようとしていた。
珠代は煙草を灰皿に押しつけると、上体を起こし、身体ごと雨森に振り向いた。
「ねえ、いい考えだと思わない。あのころの二人に戻れるなんて」
馬鹿なと言ってやりたかったが、実際には、雨森はなにも言うことができないでいた。唇が震え、珠代のことが怖ろしくてどうしようもなかった。
互いに口を閉ざしたまま、二人はしばらく見つめ合った。
珠代が覚悟を決めたようにして、先に口を開いた。
「いま誰か好きな人がいるの?」
雨森はなにも答えなかった。答えられなかった。
「いるのね?――それでもかまわないわ。むかしみたいに、その人も交えて愛し合えばいいわ」
珠代の目に険しいものが浮かんだ。それは、どうあっても自分の思い通りにしなければ気がすまないときの珠代の目だった。
「いない」
雨森は無理に微笑んで、首を横に振った。
間があり、ようやく珠代の表情が緩んだ。
「よかった。ほんとうはそのことが気がかりでしょうがなかったのよ。じゃあ、なにも問題はないわけね」
「待ってくれ。ただ、その前に時間が欲しい」なんとか雨森はそう言った。「来月の末までは忙しいんだ。だから、それまでは会えないと思う。それに、急にそんなこと言われても、僕としてはどうしたらいいのか、よくわからないんだ」
映画祭が間近に迫っており、その準備にかかりっきりなことを雨森は話した。
「いいわよ。信也も大変でしょうし、仕事の邪魔をするつもりはないわ。映画祭が終わったらいいのよね。わたしもそれぐらい待つわよ」
どこか不審そうな面持ちを残しながらも、珠代は快くうなずいた。
車で来てるのなら家まで送ってよという、珠代の申し出に、雨森は珠代を車に乗せた。珠代の住まいは七年前と変わってなく、大橋のはずれにあった。はずれといっても、駅から歩いて二十分ほどである。
「いい加減引っ越そうと思って、いろいろ探しているの。あったらすぐにでも引っ越すつもり。隣の耳の悪いお婆さんもそのまま。ますます耳が遠くなったみたい」
隣は気にしなくていいのよ、耳が悪いお婆さんのひとり住まいだからなにも聞こえやしないわと、雨森にしがみついて遠慮なく声を上げていた珠代のことが思い出される。
「信也とわたしには思い出深い場所だけに、引越しするとなると、少し残念な気もするけどね」
あの部屋での爛れた日々が、雨森の脳裏に甦った。セックスに明け暮れた毎日だった。若さに任せ、幾度も珠代を抱いた。汗と体臭、それに愛液の混ざったむっとくる匂い……。当時のことを思うと、それだけで雨森は吐きそうになった。
おぼえのある家の前で車を止めた。闇を透かして見るそれは、あのころとまったく変わっていなかった。細長い平屋だ。それを壁で仕切って二軒の借家にしてある。道から見て、奥のほうが珠代の住まいだ。二軒とも入り口のところに目隠しの板塀が設けてあり、人の出入りが外から見えないようになっている。平屋の左手と奥は高いブロック塀で、右手はフェンスで囲まれた駐車場が隣接している。道の反対側には氏神を祀った社があり、昼夜ともにひっそりしていた。
時間が逆行して、七年前に連れ戻されたような気分を雨森は味わった。スペラ座のことはすべて妄想で、この七年間、珠代とあのままの関係でずっと一緒にいたような気がしてくる。過去がつぎつぎと押し寄せ、否応なく自分を取り込もうとしている感覚が伴う。
寄っていくという珠代の言葉に、雨森はかぶりを振った。部屋に足を一歩踏み入れて、もしそこがなにも変わっていなかったら、二度と引き返すことなどできなくなりそうだった。
そうと珠代は、つまらなそうに車のシートから身を起こすと、思い出したように口にした。
「ねえ信也、あの娘のことおぼえている」
廃屋に見捨てた少女の姿が、すぐに浮かんだ。あのときの少女が後部席に同乗し、うしろから雨森と珠代をじっと見ている気配がそくそくと背筋を這い登ってくる。
「じつはあのあと」珠代が抑揚のない声で続けた。「友だちに車を借りてわたしあそこに行ってみたの。信也はひどく神経質になっていたから、話さなかったんだけど、あの娘はちゃんとあそこにいたわ。冷たくなって、わたしが来るのを待っていたわ。だからわたし、あの娘に重りをつけて湖に沈めたの。荷物もなにもかも全部一緒にね。だからもう、あの娘のことは気にしなくていいのよ。あの娘があそこで眠っているのを知っているのは、わたしと信也の二人っきりだけなんだから。二人だけの秘密なんだから」
それだけ言い残すと、珠代は雨森の手に自分の手を重ねてから、車から降りた。
珠代の姿が平屋の奥に見えなくなると、雨森は、思い切りハンドルを両の拳で叩きつけた。
いまになって、こんなかたちで過去の亡霊が甦ってくるなんて、雨森には想像もできないことであった。あの少女が死んで、その遺体を珠代が始末したなんて。しかも、それをいまになって言うなんて。わが身の不運を呪い、珠代に対する怒りが込み上げてきた。場所が場所だけに、雨森は珠代と別れた雨の夜のことを思い出した。
あのとき、珠代を殺してさえいれば――。
ふいにそういう考えが浮かび、つぎにはそんなことを考えついた自分におののいた。我を失ってしまいそうな焦燥に、雨森は慌てて車を発進させた。
それからの雨森は、これまでにも増して仕事に熱を入れた。それでも絶えず珠代のことが頭から離れることはなく、思考は暗いほうへと傾斜するばかりだった。舞と会うことも、用事を作っては避けるようになっていた。いま自分が一番欲しているのが舞であることはわかっていたが、いま彼女と会うと、いたずらに気持ちが乱れるだけであることもわかっていた。また舞に、自分の不安を気づかせたくないということもあった。
日が過ぎていった。舞から電話があっても、そのたびに雨森はつれない返事を繰り返した。一度スペラ座に会いに来たときも、ほんの少し顔を合わせた程度ですませた。
「忙しいなら、また今度来ます。でも、身体だけはこわさないでくださいよ」
わざと元気そうにふるまう舞を、雨森は黙って見送った。差し入れの、パンの耳のスナックの袋だけが、雨森の手に残った。
どうしたらいいのか、雨森は悩んでいた。いや、ほんとうはわかっていた。舞のことは忘れ、珠代とよりを戻すしかないのだ。舞のためにもそれがいい。珠代がもし舞のことを知ったらと考えるだけで、怖ろしいものがある。なにをしでかし、舞になにを吹き込むかもしれたものではない。そう、舞のためにも、珠代とよりを戻すしか道はないのだ。
しかし、あの爛れた関係をまた繰り返し、舞を失うなんて、とうてい受け入れることのできるものではなかった。珠代に対する憎しみが日毎につのり、同時に舞を求める気持ちがふくらんでいく。珠代さえいなければ――そうすればすべては解決する。しかしそこから先を考えるのは、雨森にも抵抗があった。
十月に入り、F映画祭も具体的になってきた。上映作品のいくつかが変更になり、それに伴って、招待客やゲストに修正が行われた。日程が決まり、参加している上映館のスケジュール調整、観客動員数の予定、イベントの追加検討など、雨森は連日仕事に追われていた。そういうなかで舞から電話があったのは、十月の中頃で、開催を前にほんの一息つくことのできる数日間のことであった。
劇団の長期巡業でしばらくの間福岡を離れるから、その前に少しだけでいいから話ができないだろうかという舞の言葉に、雨森は近くのカフェで会うことを約束した。巡業のことなど知るよしもなかった。このところ話すら聞いてやろうとしていなかった自分に腹立たしさをおぼえ、舞にすまない気持ちで一杯だった。
穏やかな昼下がりのカフェで、二人は顔を合わせた。
テーブル越しに舞を前にすると、それだけで雨森は胸がつまる思いがした。舞とのひとときが、どれほど自分を幸福にするかを切実に感じさせられた。
久しぶりにこうやって会えた喜びを、舞も隠そうとはしなかった。きらきらした眼差しで、ただ雨森を見つめていた。
「お仕事よかったんですか?」
ようやく舞が言った。
雨森がうなずくと、舞は嬉しそうに満面に笑みをたたえたかとおもうと、すぐに鼻にシワをよせた。
「でも、今度は私のほうがダメになっちゃいました。もう行かないといけないんです」
毎年恒例の劇団の巡業に、いまから出発することを舞は話した。巡業は、ひと月ほどの日程で、九州各地の小学校や幼稚園、あるいはホールなどをまわるもので、劇団の大きな収入源となっていた。
「去年は留守番だったけど、今年は純子ちゃんが留守番で、私は連れて行ってもらえるんです。もう、いいとこみせないと。それで、じつはこれをAさんに預かっていてもらいたいと思って」
舞は腰にはめたウエストポーチから、一本の鍵を取り出すと、テーブルの上におごそかに置いてみせた。顔が得意げになる。
「やっと一国一城の主になりました」
思いがけぬ出来事に、雨森は口を開きかけたものの、そのまま言葉を飲み込んだ。
「話そうと思っていたんですけど、Aさん忙しそうだったので、言いそびれちゃいました。今月の初めに借りたんです。古くて、ネクラな感じのするとこですけど、なかなかですよ。引越しも、劇団の人たちに手伝ってもらって無事にすみました。でも、やっと引っ越したと思ったら、すぐに巡業に出るんですから、私なにやっているんでしょうね」
舞は掌を口に添えて、ふふと笑った。大きな目が細くなって、目尻が下がる。
舞のそんな態度が、なおのこと雨森に自責の気持ちを生じさせた。
「すまない。忙しさにかまけて君のことをほったらかしにして、ほんとうに悪かった。僕になにかできることがあったら遠慮なく言ってくれないか」
「私が戻ってきたら、私の家で新居祝いを二人でしましょう。Aさんも、その時は映画祭も終わっているから大丈夫ですよね? 約束ですよ。それと、これ」
舞はテーブルの上の鍵を、雨森のほうへすべらせた。
「なくすこともあるかと思って合鍵を作ったんです。で、どこに置いとこうかと考えていたら、Aさんに預けるのが一番だと気づいて」
唇から白い歯がこぼれ、はにかんだ表情を舞はしてみせた。
「それに私とAさん、いまよりももっと仲良くなってもいいんじゃないかと思うんですよね。最近会えなくなって、私もいろいろ考えさせられちゃってですね。それで、いまの私の気持ちを知ってもらうには、これが一番かなって、そう思って。Aさん、この鍵預かっていてもらえませんか」
ずっと胸の奥に秘めていた舞への思いが、一度に噴出するのを雨森は感じた。年が離れていたせいでこれまで抑制していたものが、奔流となって身体をかけめぐった。
雨森は、かたくうなずいて鍵を受け取った。
「あっ、もうこんな時間だ。早く行かないと怒られてしまいます。それじゃAさん、私行って来ます」
舞は急いで紅茶を飲み干すと、電話は高いのでハガキ送りますねと、長い髪を翻しながら去っていった。
舞のいなくなったテーブルで、雨森は舞から預かった鍵をしばらく見つめていた。そして、鍵は預かったものの、舞の借りた部屋がどこにあるのか知らないこと、また、舞もそのことを言い忘れていることに気づいて、ひとりで笑った。
まったく舞らしい。それに彼女が戻ってきてから、そのことは聞くほうがいい。そう、その時こそ、僕も、舞の気持ちに応えることができるはずだから。
鍵をキーホルダーの輪に差し込みながら、すでに雨森は珠代の殺害を決意していた。
過去を消し去り、舞にふさわしい人物になるにはそれしか方法がなかった。
どんなことをしてでも、雨森は舞を失いたくなかった。
やっと、動機の箇所が終わりました。
次回は、殺害の話となります。