白沢舞
雨森が、その後どうやって立ち直っていったかを具体的に説明するのはむずかしい。時間の経過が重要であったことは間違いないが、時とともに映画への情熱がよみがえり、それが雨森を救ったというのが、一番適切な言い方だと思われる。
珠代と別れて数日後の夜、仕事を終えた雨森が通りを歩いていて目に入ってきたのは、他ならぬ映画館の明かりであった。白熱灯がいま上映中の映画の絵看板を照らし、興奮と感動を保証するかのようなキャッチコピーが高らかにうたわれている。光に引き寄せられる蛾のように、雨森はそれに吸い込まれていく自分を感じた。チケットを買い、ロビーを抜け、闇の広がる中へと、本能に導かれるままに彼は進んだ。
そして後方の席に腰を下ろした時、まるでその席が、むかしから自分のためにとってあったような気がした。安堵感と同時に、自分が納まるべき所に、ようやく納まった感じがする。闇が彼を抱き、目の前のスクリーンでは光と影が乱舞し、彼をこことはべつな世界へと誘う。時が流れ、世界がどんなに変わっても、映画は以前と変わりなく彼を迎えてくれていた。まるで、ここへ戻ってくるのをわかっていたかのように。
スクリーンの上に、彼は自分の人生を見つめていた。数々の映画、珠代との出会い、廃屋に残した少女、いまの自分、これからの自分……。思いが胸に込み上げ、目頭が熱くなってくる。映画館の椅子に座り、右手で作った拳を唇にあてがい、涙の流れるままに彼はじっとスクリーンを見続けた。
――僕には映画しかない。
長い間埋もらせていた映画への思いが、ようやく雨森の中で結実した。
しかし、実際に雨森が映画の世界へ踏み出すには、それから二年ばかりを要した。仕事に従事しながら、映画へと進む方法を模索し続けた日々であった。チャンスは映友会を通じてやってきた。市内の映画館のひとつが、業績を立て直すために人材を探しているということであった。一も二もなく、彼はそれに飛びついた。
新たに採用されたスタッフは五人であった。いずれも映画好きでは人後に落ちない者ばかりだった。しかし、条件は厳しかった。給与の保証はなかった。再建するだけの資金の当てもなかった。映画に対する情熱、それだけが雨森たちの資産だった。
仕事は資金集めから始まった。銀行やスポンサーになってくれそうな人々を、足を棒にして訪ね歩いた。話だけは気持ちよく聞いてくれるものの、いまさら映画館に投資をしようと、首を縦に振る人はほとんどいないというのが実情だった。給与がないので、生活は貯金を切り崩してまかなった。つまり、ただ働きだ。情熱だけではやっていけないと、二人が辞めた。苦しい状態が続いた。雨森はアパートを引き払い、映画館の事務所で寝泊まりするようになった。車を売り、一日一食の即席ラーメンばかりの生活が続き、深夜の皿洗いのバイトをして、夢を追い求めた。
それでも、なんとか資金のめどがつくところまではこぎつけた。
毎夜、今後の運営についての議論が戦わされた。百席ばかりの小規模な館だけに、ロードショウ館に太刀打ちできないのは、はなからわかっていた。それにビデオの影響も大きい。そのうえで、どうやって客を動員するかが問題だった。いろいろな案が提示されたが、とにかく面白い映画を上映するしかないというのが結論だった。また、レンタルビデオがこれだけ普及していても、デートする場所でいまだに映画館が上位にあることから、それを考慮するべきだという考えを雨森は述べた。つまり、映画館は人と人との交流の場としての空間であるべきだということを彼は力説した。
最終的に、再建方法として、過去の映画を再上映する名画座スタイルをとることにプランは決まった。評価の決まった映画なら、面白さの選択にそれほど苦労することはない。また、レンタルビデオ愛用者の若い人の中に、どの映画が面白いのかがわからないという意見が少なからずあることにも注目しての結果であった。料金も、気軽に来れる金額に設定した。ペアチケットも作り、二人で来るといっそう低料金になるように工夫した。過去の作品を上映するからといって、館自体が古めかしいものであってはいけないと、内装はシンプルなモダンな感じのものに改装した。音響施設も入れ替え、前の席との空間を足が窮屈にならないよう広めにし、座席は大胆にも、従来のひとりずつ座るものでなく、多人数で座れるソファーのような長い座席にした。
映画の楽しみを伝える映画館として、雨森たちの福岡スペラ座は始まった。一番最初の上映作品は『ローマの休日』だった。
レンタルもあるなら、テレビで放映されたことがあるにもかかわらず、『ローマの休日』は、思いの外に好評を博した。むかしの映画をわざわざ映画館に観に行く人はいないという憂慮を、打ち消すほどの入りであった。客層は若者もいれば老年層もあった。共通しているのは、大半が二人連れであるということだった。初めて少額ながら給与が支給され、雨森たちは祝杯をあげた。『麗しのサブリナ』『昼下がりの情事』とヘップバーン特集が続き、『旅情』『ドクトルジバゴ』『ひまわり』『冒険者たち』『卒業』『ロミオとジュリエット』といった往年の名作が上映されていった。いずれもそれなりの支持を得ることができ、収益を上げることができた。といっても、新作を上映する館に比べれば、観客動員数が少ないのは当然であった。が、あそこの映画館はいい映画をしているというクチコミで、次第に客は増えていった。デートコースのスポットとして、情報誌やテレビに取り上げられたりもした。作品の古い新しいに関係なく、その映画がいいものであったら、客に対する提供の仕方で運営ができることを、雨森たちのスペラ座が証明した。そして、ヒットはないものの、手堅い経営の映画館として着実に伸びていった。福岡市が、新しいものとレトロの共存が成り立つ、地方の人口百万都市であるということも、うまくいった要因のひとつであった。
四年が過ぎた。雨森はスぺラ座の責任者になっていた。生活もそれなりになり、賃貸マンションの一室を住まいにしていた。連日仕事に追われていたが、一向に苦にならないのが不思議なくらいだった。いまでは、新聞やタウン誌で新作映画の解説文を受け持つなら、地方局のラジオで映画紹介のパーソナリティーを引き受けたりもしていた。映画ファンの集いで講演もするなら、去年から始まったF映画祭の実行委員でもあった。地方で活躍する映画人のひとりとして、雨森は人に知られる存在となっていた。引っ込み思案の面影は消失し、自信に満ちた眼差しの、やさしげな男の姿がそこにはあった。
アルバイトの募集に白沢舞が応募してきたのは、五月の昼下がりのことであった。その時すでにバイトの人選はすんでおり、先方にも連絡済であった。しかし無下に帰すのも悪いと思い、雨森は会うことにした。
事務所に入ってきた舞は、真っすぐに雨森を見つめると、白沢舞ですと笑顔し頭を下げた。その人見知りしない印象が、まず雨森の気を引いた。
年のころは二十代前半、髪を背に流した、すらっとした身体をしている。線で描いたような整った顔立ちで、鼻や唇に比べて目が大きく、口紅を除けば化粧っ気がまるでなかった。そのすっきりした感じとは裏腹に、服装は野暮ったいものであった。細かい花柄があしらわれた茶のワンピースは地味すぎるし、白いソックスとズックは逆に幼すぎた。提げた黒いバッグも、大きさだけが取り柄みたいな代物である。
目の前の椅子をすすめると、舞はすっと座った。そしてまた雨森に笑顔する。
思わず雨森も笑った。
「明るいかたですね」
「そんなことありません。みんな私のことネクラだと言うんですよ。それに、私もそう思います。ネクラだなぁって」
舞が眉をしかめていきなりまくしたて、雨森はまた笑わずにはおれなかった。
「よくわかりませんが、ネクラだとしたら、あなたは明るいネクラなんでしょうね」
舞はきょとんとした顔をしたが、気を取り直したみたいにすぐに微笑んでみせた。
履歴書には、大分県出身の二十一歳、福岡の短大を卒業後、いまは劇団に所属していることが記されていた。
「劇団のお給料だけでは、やはり貧しすぎてですね。それでアルバイトを探しているところです」
背筋を伸ばして舞はそう言うと、劇団でのことを熱心に語った。
「それでは、劇団のお仕事を将来もずっとお続けになられるおつもりなのですね」
「わかりません。いまはそう思っているだけです。ほんとうに続けるのか、いえ、続けられるかどうか。とにかく、できるとこまではしたいと思います」
夢と不安のないまぜになった返事に、雨森は好感を持った。力になってやりたいと思うのだが、もうバイトの人員は決まっている。いまさら先方を断るわけにもいかない。
雨森は正直に事情を話した。
「そうなんですか。私の来るのが遅すぎたんですね。いつもこうなんです、私って」
舞が大きくため息をつき、その様子に雨森は気が咎めた。
「せっかく来ていただいたのに、申し訳ありません。よかったら、これ使ってください」
雨森が事務机の引き出しから、優待券を二枚差し出すと、舞は両の掌を合わせ、目を見開いて喜んだ。いま肩を落としたと思ったら、すぐに陽気になる舞を、雨森は愉快そうに見つめた。
椅子から立ち上がり、もう一度礼を述べて立ち去ろうとする舞に雨森が言った。
「続けてくださいね」
なんのことかわからないという表情をした舞は、それが劇団のことだと気づくと、ハイと機嫌よく顔をほころばせて事務所を出て行った。
舞が去ったあとも、しばらくの間、雨森は彼女のことを思い出してひとり笑っていた。雨森にとって、その日は楽しい一日であった。
雨森がふたたび舞と出会ったのは、面接から二月ほど過ぎてからのことである。西通りの本屋に寄った彼は、雑誌コーナーで真剣な面持ちで立読みをしている舞の姿を目にしたのであった。面接の時の不格好な黒いバッグを左肩に提げ、ポロシャツにジーンズで、服装は相変わらず冴えないものであった。
声をかけると、舞は二度ほど瞬きして破顔した。
「スペラ座の社長さんですよね」
社長という言葉に、雨森は鼻をかいた。
「なんの本を読まれているのですか。えらく熱心そうですけど」
舞は手にしていた雑誌の表紙を雨森に向けた。カラー版の料理の本だった。
「へええ、料理がお好きなんですか」
舞はわざとらしく口をへの字にして、首を横に振った。
「いいものが食べれないので、こういう本でも見て栄養をつけようと思ったんですけど、やっぱりダメですね。かえって、お腹が空くばかりです」
雨森は顔をうつむかせ、右手で口を押えた。それでも笑い声が漏れる。
「失敬、失敬。どうです、非礼のお詫びに、僕に食事を奢らせてもらえませんか」
周囲の客が振り向くほどの黄色い声を、舞が上げたのはいうまでもない。
雨森にまだ仕事があったので、二人は夜に待ち合わせをした。それから雨森は舞を、アジア料理を食べさせる店に連れて行った。
背もたれの高い木製の椅子に座って、目の前の異国風の料理を、舞は物珍しそうに眺めた。
「いつもこんなの食べているんですか?」
「そんなわけないですよ。自分で作ったり、コンビニ弁当買ったり。普通ですよ、普通」
「なら、今夜は私がいるから特別なんですね。嬉しいな」
舞は、卓上のケースから箸を取り出して雨森に手渡すと、つぎに自分の分を取って、さっそく牛肉とナスのココナッツ炒めの皿へ挑んだ。
食事の間、舞はよく食べ、よくしゃべった。コンビニエンスストアーでのパートの仕事を見つけたこと。面接の時はあれでもお洒落していったつもりであること。芝居の世界に入ったのは、短大の友人の誘いがきっかけで、最初はたんなるつきあいのつもりだったのが、友人よりも自分のほうがはまってしまったこと。
「で、その友だちは、新しいボーイフレンドができたら、私を残してさっさと辞めちゃいました」
「うちの劇団、桜一劇団っていうんです。数ある桜の中でも一番という意味らしいんですけど、なんか、金田一みたいですよね」
「ほんとうにネクラなんですって。つまんないと思うことをぐちぐち考えては、ひとりで暗くなるんですから。それで、あのう、これ美味しいですね」
「バイトを探してたほんとうの理由は、部屋を借りたいなと思っているからなんです。いまお金がないから、劇団の稽古場に住まわせてもらっているんですよね。でも、やっぱり自分の部屋持ちたいじゃないですか。それで、少しずつ貯金しているんです。そして貯まったら、私も一国一城の主になる。いま、それが目標です」
舞との食事はひどく愉快で、そのくせ心安らぐものだった。またたくまに時が過ぎ、二人が椅子から立ち上がったときは、数時間が経過していた。
店を出て、舞が名前を聞いてきた。
「雨森さんっていうんですね。ご馳走してもらいながら、いままで名前も知らなかったなんて、私失礼にもほどがありますね。でもなんか、前からの知り合いみたいな気がして、つい聞くの忘れていました。雨森さんか……それじゃあ、Aさんですね」
舞がはずんだ声で雨森をそう呼んだ。
翌週舞が、食事のお礼ですと、実家から送られてきた大分特産のかぼすを一本携えてスペラ座を訪れ、雨森は雨森で、舞が働いている時間帯を選んで、彼女のパート先のコンビニに寄るようになり、そうやって舞と雨森の交際が始まっていった。
九月、十月と、雨森はF映画祭の準備と開催で忙しくなった。舞と会うことも思うようにいかない状態が続いた。しかしそれがすむと、すぐに二人は会い始め、以前にも増して親密さを深めていった。
年が明け、舞が雨森をAさんと呼び、雨森は、彼女の希望もあって、舞を舞と呼ぶ、それがごく普通のあたりまえの仲に、二人は進展していった。そして、年の離れたいい友だちであるはずの舞の存在が、雨森の内部で大きく比重を占めるようになってきた。
舞の長い髪に女らしさを感じ、舞が時折事務所に差し入れしてくれる、パンの耳を砂糖でまぶしてフライパンで炒めたスナックは、雨森の好物となった。舞の野暮ったい服装も、いまの雨森には微笑ましいものに映った。
しかし、スペラ座の従業員たちから二人の仲を尋ねられると、決まって、いい友だちだけですよと雨森は答えた。年が十ほど離れていることもあり、自分より、舞の気持ちを大切にすることを雨森は願っていた。
月日が経ち、着実に雨森と舞との思い出は増えていった。この間が、雨森にとって最も幸福な期間であった。経営も順調で、舞もそばにいてくれるなら、することなすことのほとんどが快調であった。原稿や講演の依頼も増えて多忙ではあったが、人生という果樹園において、実りの多い時期を雨森は静かに味わっていた。
女が雨森を訪ねたのは、その年の八月の上旬であった。暑い日で、スペラ座にかかっていたのはフランス映画の『男と女』であった。
お客様ですがという女性従業員の言葉に、やりかけの仕事を中断してロビーに通じるドアを開いた雨森は、客を目にした途端、身体が凍りついてしまった。
ひとけのないロビーで、黒貴珠代が彼を待っていた。
改行・会話が少ないうえに、説明調の長めの文章と、はなはだ読みにくいであろうことをお詫びします。迷宮課シリーズにちなんで、やや実話風にしているつもりです。特にケータイご利用の方、申し訳ありません。
よろしかったら、懲りずに、最後までのおつきあいをお願いいたします。