黒貴珠代
雨森信也は、昭和×年に雨森勝也・信枝の長男として長崎県に生まれた。他に兄弟はなく、両親は共稼ぎで、彼は幼いころから鍵を身につけさせられていた。キーホルダーにぶら下がった鍵は、最初自宅の鍵一本だったが、やがてそこに貯金箱の鍵が加わり、机の鍵が加わり、日記帳の鍵が加わっていった。成長とともに鍵の数は増えていき、また、べつに意味があってしているわけではないが、彼は鍵を捨てることがなかった。そのため、使うことのなくなった鍵が、ホルダーにそのまま残されていることもあれば、引き出しの奥にしまわれていることもあった。鍵の一本一本が、これまでの人生の一面を物語っているような気がし、彼は妙に愛着を感じていた。
昭和×年、県下の公立高校へ進学した雨森は、おとなしい性格の、上背のある十六歳になっていた。やさしい目と太い眉を持ち、ちょっとした好男子であったが、引っ込み思案な性格のため女生徒たちの間で話題にのぼることはなかった。
スポーツを好まず、成績も中くらいの彼にとって、唯一の趣味は映画だった。暗い館内でスクリーン上に展開される光と影の躍動は、彼をたまらなく夢中にさせた。小遣いのほとんどを映画に注ぎ込み、勉学そっちのけで試写会の応募ハガキを書きまくった。映画は友であり恋人だった。進学を決める時期になると、映像関係の大学や専門学校の入学案内を取りよせ、彼はひとり空想の翼をひろげた。
しかし高校を卒業した雨森は、福岡県にある大学の経営学部へと進んだ。映画への思いは断ち切れないものの、それは甘い夢にしかすぎないという考えからだった。特別な才能もなく、なんらかのコネやツテがあるわけでもないのに映画の世界へ飛び込んでいくのは、無謀なことにしか彼には思えなかった。勇気と自信、そして成功を信じる気持ち、それが彼には欠けていた。
それでも映画とのつきあいがなくなったわけではなく、彼は大学生の日々を映画と共にすごした。映画サークルに籍を置き、市内の映友会に入会した。それまで個人活動でしかなかった映画が広がりをみせた。サークルのほうでは、八ミリカメラを片手に自主製作映画作りに専念した。素人の手遊びとはいえ、見るだけから創るほうへの進展は、ますます彼を映画へのめり込ませた。映友会での交流もまた楽しいものであった。同じ世代の者と議論を戦わせたり、年配者からしみじみとした映画の思い出話を聞いたりして、彼は映画への造詣を着実に深めていった。
大学での四年間の生活を終えると、彼は帰郷することなく福岡の中小企業に入社した。やはり映画はあくまで趣味であって、生計を支えるものには思われなかった。自分の人生を映画に賭けるのは、魅力的であっても、将来への不安が大きいのは否めなかった。
分別のある青年として、雨森は社会生活をスタートした。
代わり映えのしない、これといった不満はないが、情熱に乏しい得意先回りの日々が続いた。本当の自分がこんな人生を望んでいないのはわかっていたが、かといって、思い通りのことをやってみようという意志も持てなかった。それだけに彼の場合、実人生と夢との隔たりは明確になり、時々生きていることすら無意味なものに思えていた。
黒貴珠代と出会ったのは、ちょうどそんな時期であった。職場の上司に連れられていったクラブで、隣に座ったホステスが珠代だったのだ。
珠代は当時三十一歳。年上の女の色香をにじませ、ホステスとしても中堅どころであった。髪をアップにした細面の顔立ちで、くっきりとした眉と艶のある目が華やかさを添えていた。全体的に小作りで、グラマーというイメージからはほど遠いものの、仕草や表情に愛らしい魅力があった。
最初途切れがちでぎこちないものであった、雨森と珠代の会話は、二人が同郷であることがわかると、急に親密さを増していった。膝がふれあい、互いの息を感じるまでに二人は近づいた。そして店がひけた後、酔いにまかせたまま二人は一夜をともにした。雨森にしてみれば、出会ったその夜のうちに関係を結んだ女は珠代が初めてであった。これまでの女とは違うなにかを、彼は珠代に感じてしまっていた。
雨森は足繁くクラブに通うようになり、珠代もそれを歓待した。六歳年上の珠代に、映画しか知らない雨森が魅了されるのに、それほどの時間は必要でなかった。二人は情交を重ね仲を深めていった。やがて珠代の希望もあって、二人はクラブ以外の場所で会うことが多くなっていった。珠代が雨森に自宅の合鍵を渡したのは、二か月ほどたってのことである。
雨森のキーホルダーに、珠代の鍵が加わった。
それまでの満たされていない日々が、甘いものに変わった。世間ずれのしてない彼は、珠代と所帯を持つことすら考えていた。映画以外で、これほど心を奪われたのは初めての体験だった。最愛の女にめぐり逢うことができたと、彼は素直に信じ込んでいた。しかしその時点で彼は、まだ珠代のことをわかっていなかった。
珠代は、淫蕩な性癖の持ち主だったのである。
しだいしだいに、珠代は雨森を倒錯の世界へと引きずり込んでいった。一日中裸で抱き合い、欲望のなすがままにいくたびも情を交わすこともあれば、珠代のリードで変質的な快楽を味わうこともあった。それらは、二人っきりの密室でおこなわれることがほとんどだったが、さらなる刺激を求め、第三者をまじえたり、数人の男女との乱れた淫行に走ることもいとわなかった。それは狂おしいまでの愛欲の宴だった。自分の内奥にそんな欲望が潜んでいたことに雨森は慄然とし、たびたび呵責に悩まされたが、珠代を前にすると、理性は霧散し獣欲だけが彼を支配した。それほどまでに、珠代は妖しい魅力を放っていた。行為のたびに、珠代は美しくなっていった。性への渇望に翻弄されるまま、二人は互いの肉体を貪り喜悦を味わった。
しかし、果てることのない愛欲の先にあるのが、暗澹とした奈落でしかないことは歴然としていた。自分が人間でなくなっていくような根源的な恐怖を雨森は抱いていた。結婚などもはや考えることはできなくなっていたが、異常な行為は、異常であるがゆえに二人を分かちたがく結びつけていた。
知り合って半年がすぎた早春、その日雨森と珠代は、車で二時間ほどの県境にある湖へのドライブの計画を立てていた。昼前ごろに出発し、道路わきでヒッチハイクをしている少女と出会ったのは、遅めの昼食をドライブインですませたあとのことだった。
髪を長く伸ばした、細い肢体の少女だった。胸も腰まわりも小さく、手足ばかりが長くみえる。オレンジ色のトレーナーにジーンズで、荷物といえばディバックだけだ。
少女は、目的地が佐賀の友人のところであることを遠慮がちに告げた。
「これから湖に行く予定だけど、それにつきあえる時間があるなら、帰りにそっちのほうにまわってあげてもいいわよ」
珠代が言い、少女は嬉しそうにうなずくと車に乗り込んできた。
珠代がなにを考えているのか、雨森にはよくわかった。少女を送るつもりなのはほんとうである。ただしその前に、少女をまじえた三人で楽しもうというわけだ。
なにも知らない少女は、男女のカップルならへんなことはないだろうと安心しているらしく、ご迷惑でしょうけどお願いしますと、しおらしく頭を下げた。
三人が湖に着いたのは、午後三時をすぎたころだった。湖といっても、それほど大きいものではなく、もちろん観光地化すほどのものではない。緑の原生林に囲まれ、湖面を遅い午後の日差しが照らし、あたりは静粛につつまれていた。
三人は湖のほとりを歩き、風景を楽しみながら清冽な空気で肺を満たした。
湖のまわりにはコテージが点在し、なかには廃屋になってしまっているのもあり、そのなかの一軒が、もともと雨森と珠代の目的だった。湖のほとりの朽ち果てた廃屋でのセックス、それが今日のドライブのプランだったのだ。そこに、本人は知らないものの、ひとりの少女が加わったわけである。
一時間ほどのち、プラン通り三人は廃屋へ入り込んだ。
その廃屋は以前このあたりに来た時にすでに目をつけておいたもので、簡単な探索もすませてある。他のコテージからも離れた位置にあり、明かりを灯しても気づかれる心配はなさそうであった。
元はリビングだったと思われる部屋に、用意してきたビニールシートを敷くと、ランプと毛布、それに飲み物と食料を運び込んだ。
シートに三人して座ると、
「変わったピクニックという感じですね。いつもこんなことしているんですか」
黴と埃の臭いに顔をしかめ、少女が訝しそうに言った。
雨森と珠代は顔を見合わせて笑った。
「こういうのもちょっと変わっていていいでしょう。なんとなく気味悪くて、ぞくぞくしてこない」
珠代が、飲み口を開けた缶ビールを少女に手渡した。
「そうですか。わたしこういうのはあんまり……」
「大丈夫、だんだんと気持ちよくなってくるわよ。さあ、飲んで」
少女の肩に腕をまわし、珠代がわざとらしく雨森に片目をつむってみせた。
少女にすすめる飲み物に、媚薬が混入されているのは明らかだった。珠代がそういったドラッグを使用するのはお馴染みのことであった。
割れた窓から差し込む西日に朱色が混じり、廃屋の中に夕闇が立ち込めだすと、雨森がランプを灯した。
他愛ない会話がつづき、途切れなく、媚薬の入ったアルコールが少女の口に注がれていく。もう飲めませんからと言う少女に、珠代が微笑みながら無理強いする。額に汗が浮かび、目がおぼつかなげにさまよう。廃屋の外はこわいくらいにひっそりとし、その静けさがひしひしと迫ってくる。ランプの焔が、隙間からの微風にゆれ、妖しい影を壁に映し出す。
異変が生じたのはその時だった。いきなり少女は喉の奥でうめくと、手にしていた缶を落とし、全身を棒のように硬直させて、その場に倒れこんだ。手足が細かく震え、苦しそうに首を左右に振る。胸が波打ち、閉じられた瞼がひくひくと引き攣る。
突然の少女の変事に、雨森と珠代は狼狽した。
少女の両の肩を揺さぶり、声を限りに呼びかける。しかし反応はない。手に触れると、氷のような冷たさが伝わってきた。たぶん薬のせいだということはわかっていたが、どうすればいいのか、そのへんのことはまったくわからない。もしかすると、この娘は死んでしまうかもしれない。迫りくる不安で、雨森はいまにも押し潰されそうになった。少女の両の掌を、懸命にこすりつづけるしかなす術はなかった。
「――逃げるわよ」
珠代の言葉に、雨森は凍りついた。
「逃げるって……まさか、このままでかい」
「あたりまえでしょう。なにをぐずぐずしているの。早く片づけるわよ」
「そんな……そんなことをしたらこの娘は死んでしまう」
珠代が、雨森の胸ぐらをつかむと、険しい眼差しでねめつけた。
「いい、信也。わたしたちはこの娘と会ったこともなければ、ここに来たこともないの。だから、わたしたちは、なにもしてあげれないの。わかるわね」
「なにを言っているんだ。そんなことできるはずがないだろう。そうだ。病院に運べば……そう、そうすれば、まだなんとか」
珠代の声がヒステリックな調子を帯びた。
「気は確かなの。どう説明するつもり。セックスを楽しもうと思って、この娘を廃屋に連れ込んで薬を飲ませたらこうなりましたって言うわけ。助かればいいけど、手遅れだったりしたらどうなるかわかっているの。親になんて言い訳するつもり。言っとくけど、わたしはいやよ。そんなのごめんだわ」
両親のことを言われると、さすがに雨森も気持ちが萎えた。顔を歪め、奥歯を噛みしめる――珠代の言うとおりにする以外に、道はなかった。
そうやって二人は、ショック症状を起こした少女を、ひとり廃屋に置き去りにして逃走したのだった。
それからの数日間、雨森は新聞とテレビのニュースに全神経を張りつめてすごした。しかしどの媒体も、廃屋に残した少女のことについて触れたものはなかった。もしかしたら彼女は、あのあと回復したのかもしれないと一方で思い、もう一方では、いまだに遺体が発見されてないだけかもしれないと思い悩んだ。
雨森と珠代は、しじゅうそのことで言い争った。
「もういい加減にしてよ。うんざりだわ。そんなに心配だったら、あそこにもう一度行って、自分の目でどうなったかを確かめてくればいいでしょう」
珠代がいらいらした様子で言い、けっきょく、その後の報道でも、少女のことが報じられることはなかった。しかし、ひとりの少女を死なせたかもしれないという事実は、雨森と珠代の間に深い溝をつくることになった。
最後に見た少女の姿が、雨森の脳裏に焼きついていた。ランプで照らされた顔は、蝋で作られたかのように生気を失い、呼吸は浅く、手足の震えはほとんどなくなっていた。それはまるで、静かに死の訪れを待っているかのようだった。
そんな少女を見捨てて逃げ出したのだと思うと、いまさらながら雨森は罪の思いを噛みしめた。もしあのとき少女を病院に運んでいたら、それさえしていたら彼女は助かったかもしれない。そんな考えがたびたび去来しては彼を苦しめた。しかもそれが、いまでは取り返しのつかないことだとわかっているだけに、なおのこと彼を追いつめるのだった。また、そのことがいつか明るみに出るかもしれないという怖れもあった。見えない捜索の手が、じりじりと迫ってきているのではないかと彼はおびえた。
珠代がそんな雨森を、うとましく感じるようになったのは当然の帰結であった。彼女は雨森をしだいに避けるようになっていった。最初はさりげなく、だんだんとあからさまに。そしてそれが、雨森を苛立たせ、珠代に対して怒りをおぼえさせることになった。つまらないことで二人は言い争った。自分に比べて、なんの罪の意識も抱いていないように振る舞う珠代は、雨森にとって苦々しいものであった。顔を見るのもいやであったが、見なければ、それはそれで焦りと苛立ちをおぼえるまでに雨森は追い込まれていた。
その夜、珠代の借家で彼女を待っていた雨森は、珠代が帰宅すると、ぐだぐだ言い始めた。外では雨が降りしきり、それがなおのこと二人の間にうっとうしさをつのらせる。雨森が言い、珠代がうんざりしたように言い返す。それは、いままで何度も繰り返されてきたことの、また繰り返しだった。
ついに珠代が感情をむきだしにして、雨森に食ってかかった。頭に血がのぼった雨森は、珠代を畳の上に押し倒した。手足を振りまわして珠代が抵抗し、雨森はいっそう激情した。そして、自分でも気づかないうちに珠代の首に両手をかけていた。珠代が、カッと目を見開いて雨森を見る。雨森の両手に指に力が入り、珠代が呻いた。呼吸音がぜいぜいと鳴り、顔がうっ血していく。目を閉じ、苦しさに顎を突き出す。
珠代が右手を伸ばして雨森の頬を打ちつけ、ようやく雨森は正気に返った。慌てて、珠代の首から両手を離す。咳き込みながら珠代が雨森から逃れ、手形が赤くついた首を掌でさすった。凍てついたような間があり、いまだに呆然と両の掌を見ている雨森に、珠代が言った。
「わたしまで殺すつもりなの」
雨の降る表に、雨森は狂ったように飛び出していった。
その夜を境に、雨森は珠代から離れていった。また、珠代のほうから雨森に連絡してくることもなかった。
二人は出会い、そして別れた。それだけが事実として残った。




