はじまりの朝
朝か。気が付けば、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。何か、夢を見ていたような気がする。なんだろう、とても長い冒険をしてきたような。ぼんやりした頭で思いを巡らせる。ええと、今日は、月曜日で。そう、起きなきゃ。ごみを出して、それから。今日は、会議があるから準備をして。
そう、「今」は、倒すべき魔王もいなければ、攻略すべきダンジョンもない。日が昇れば、そこには昨日までと同じ「日常」が広がるだけ。魔法が死んで久しい。AIはありとあらゆる情報を学習して、闇のヴェールの奥に秘されてきた秘密を白日の下に晒してしまっていた。
「起きるか。」
誰にともなくそう呟いて、瑠璃は重いカラダを持ち上げて、ベッドで上体を起こした。大きくため息をついてから、立ち上がって、カーテンを開ける。うん、いいお天気。窓を開けると、涼しい空気が頬を撫でた。うんざりするような暑くて長い夏もようやく終わりを告げて、季節は秋を迎えたところだった。
青木瑠璃。27歳、会社員。どこにでもいる、普通の女。いや、ちょっと違うかな。「普通」のフリはうまいんだ。絶対に人には言えないことがある。そんなことを言えば、頭がおかしいと思われてしまうだろう。
いつもどおりに朝の身支度を終えてデスクに向かい、朝のオンラインミーティングに参加した。今は、リモートワークが許されているので、毎日通勤ラッシュでもみくちゃにされて都心のオフィスに通う必要もない。
「それでは、今日もよろしくお願いします。」
モニターの向こうで上司がそう言ってミーティングを締めくくった。
「よろしくお願いします。」
わずかに頭を下げる仕草をして、それからオンライン会議から退出した。大きくため息をついて、椅子から立ち上がる。なんだかんだとリモートワークというものは自由がきく。キッチンに立って、コーヒーを淹れた。朝のコーヒーは、仕事のスイッチだ。
コーヒーを飲みながら、デスクの脇に置かれた本に目をやる。いかにも胡散臭そうな、黒地にサイケデリックな色彩で彩られた装丁のその本は、昨日古本屋で見つけて思わず買ってしまった本だった。これは、まあ、言ってみれば「魔術書」なのだろう。まさか、こんな本が売っているとはね。その表紙には「ALの書」とラテン語で書かれている。小さい頃に聞いたことがある有名な魔術師の名前が著者として書かれている。出版されてから半世紀近くが経っている本だ。だめでしょ、こんな本を書店に並べてちゃ。その帯には、ご丁寧にも「猛毒を含んだ霊界危険文書!!」と書かれている。まるで大昔の週刊誌の袋とじのように、本の4分の3ほどは赤い紙で「封印」されている。その赤い紙にはいくつかの魔法陣とともに「封印を破って研究なさるのは自由ですが、決して悪用しないで下さい。」と書かれている。さらには、その本は出版から9か月後に災害・大戦争・天変地異が起こるとされているらしく「小社は一切の責を負いかねます。」とも書いてある。
「ばからしい。その9か月はとおの昔に過ぎてるんだけど?」
コーヒーを飲みながらひとり言を漏らす。
そう、瑠璃が隠し続けてきたこと。それは、ただならぬ魔術に関する興味だった。それは、オタクという域を突破して、確信していると言っていいレベルの。人には誰にでもそんな時期はある。文字通り中学二年生のときにどっぷりとその沼にはまったのだった。一緒になっていろんな本を読んでいた友人たちが次々と興味を失うなか、瑠璃だけは確信していた。
「まだそんなことやっているの?」
幼馴染の言葉に、これは決して言葉に出してはいけないのだ、と学んだ。
苦いコーヒーをぐいっと飲み干した。
「あとで、読もう。あとでね」
こんなに涼しげな秋の朝の光の中で、こんなあやしげな古びた本に、どんな悪さができるというのか。窓から差し込む朝日の中に、その本を置いて、PCに向かい、仕事に戻った。




