第3話 塔の約束
エルド爺さんの“旅の授業”は、意外と現実的なところから始まった。
「まずは荷物だ。持っていけるものは少ない。重けりゃ、途中で命取りになる」
塔の物置きに連れていかれて、俺は途方に暮れていた。
そこには、壊れた道具やら、使えそうで使えない鉄くずやら、いつ拾ってきたのか分からないガラクタが山になっていた。
「この中から選べって、無茶言うなよ……」
「無茶じゃない。世の中いつだって“選ぶ”ところから始まる」
エルドはそう言って、しゃがみ込む。
古びたリュックや、千切れかけのロープ、形の定まらない金属片を、ひとつひとつ手に取っては戻していく。
「まずは、これだな」
爺さんが投げてよこしたのは、小さめのリュックだった。
擦り切れているけど、まだジッパーは生きている。
「背負ってみろ」
言われるまま肩にかけると、意外と身体にフィットした。
「お、悪くない」
「これで“旅人っぽさ”は合格だな」
軽口を叩きながらも、エルドの目は真剣だった。
「水を入れる容器が一つ。苔を詰める布袋が二つ。あとは――」
爺さんは、木箱の底から細長い鉄の棒を引っ張り出した。
先端が平たく削られていて、簡易の杖か、武器にもなりそうだ。
「杖代わりのつもりで持っていけ。歩くにも、身を守るにも使える」
「……武器なんて使える自信ないぞ」
「使わずに済めば上等だ。だが、持ってないと死ぬこともある」
言葉が重い。
けど、その重さを避けて生きていける世界じゃないことくらい、分かっていた。
ひと通り必要そうなものをより分けたところで、俺のリュックはだいたい形になった。
苔を乾かした保存食、水筒代わりのボトル、布切れ、古いライターのような火打ち具。
そして、胸ポケットには、爺さんから渡された黒い板――旧世界の“窓”。
「……こうやって並べると、本当に行くみたいだな」
リュックの中身を見下ろしながら呟くと、エルドは肩をすくめた。
「行かん準備をする奴はいないさ」
そのときだった。
「アオ兄!」
甲高い声と一緒に、物置きの入口に影が飛び込んでくる。
ミラだ。肩で息をしながら、じっと俺とリュックを見比べていた。
「……やっぱり、本当に行くんだ」
にじみ出るような声に、胸が少しだけ痛んだ。
「まだ決めてない。ただ、いつでも出られるように――」
「それ、決めてるって言うんだよ」
ミラは、まだあどけない顔をぐしゃっと歪める。
「ねえアオ兄。どうしてそこまでして、外に行きたいの? ここじゃ、だめなの?」
その問いは、俺自身がずっと自分に向けていたやつだった。
ここでも生きていける。
苔を食べて、塔の中で風をやり過ごして、たまにミラや他の皆と話して。
そんな日々を「悪くない」と思う自分も、ちゃんといる。
それでも――
あの光を見た夜から、塔の天井が低く感じはじめた。
「……俺さ」
言葉を選びながら、ミラの目を見た。
「ここにいる理由より、“外に行かない理由”を、だんだん言えなくなってる」
「意味、分かんない」
「俺にも、まだちゃんとは分かんない。でも――」
胸ポケットを指でつまむ。冷たい鉄の感触が返ってきた。
「世界がこうなった“なんで”を知らないまま、俺はずっとモヤモヤしてた。
このモヤモヤを抱えたまま、ずっと塔の中で暮らすのは、なんか違う気がするんだ」
ミラは黙っていた。
その沈黙が怖くて、勢いで続ける。
「俺が外に出て、何か分かったらさ。ここに戻ってきて、話すよ。
ミラにも、皆にも。世界がどんなふうに終わって、どんなふうに続いてるのか」
「……怖くないの?」
今度は、はっきりとした声だった。
「怖いよ」
即答したら、ミラは少しだけ目を丸くした。
「聖遺区がどんなところかも知らないし。途中で何がいるかも分からない。
多分、塔の中にいる方が安全だ。それくらいは俺だって分かる」
そこで一度息を吸う。
「でも、怖いのってさ――“何も知らないまま終わること”の方なんだ」
それは、俺がやっと言葉にできた、自分の本音だった。
ミラは、ぎゅっと唇をかんで、それから小さく息を吐いた。
「……ずるい」
「え?」
「そういうこと言われたら、止めにくいじゃん」
ぽつりとこぼしたあと、ミラは目元をぬぐった。
「分かった。もう“行くな”とは言わない」
「ミラ……」
「でも、約束は守って。絶対に帰ってきて。
それから、その“なんで”の話、全部聞かせて」
その手が、俺のリュックの紐をぎゅっと掴んだ。
「分かった。ちゃんと帰ってくる。
“怖かった話”も、“すごかった話”も、全部持って帰る」
口にした瞬間、それはもう、自分への宣言でもあった。
エルドがわざとらしく咳払いをする。
「よし。じゃあ、出発日は――」
「ちょっと待った」
俺は慌てて手を上げた。
「さすがに、明日とかは無理だろ。準備もいるし、塔の皆にも……」
「分かっとる。そう急ぐ話でもない。
だが、世界の方が先に動くかもしれんと言ったのは、脅しでも何でもないぞ」
エルドは、塔の外を指差した。
物置きの小さな窓から、灰海の一部が覗いている。
「光が強くなってから、灰海の“揺れ”が増えとる」
「揺れ?」
「塔の軋みが変わってる。お前も、夜中に起きた時、なんとなく気づいてただろう」
言われてみれば――と思い当たる。
昨夜、眠れないで天井を眺めていたとき、床がかすかに震えていた気がした。
「世界がどう変わるかは分からん。
だが、“変わる前”と“変わった後”を、どっちも見られる目は、貴重だ」
エルドの言葉は、妙に現実味を帯びていた。
「だからこそだ。
行くなら、だらだら迷うより、“行くと決めてから迷え”。いいな?」
「……相変わらず、よく分かるようで分からないこと言うよな」
ぼやきながらも、心の中では何かがカチリと音を立てた。
行くと決めてから迷え。
その順番を、俺はずっと逆にしていたのかもしれない。
物置きを出る頃には、灰色の空が少しだけ赤みを帯びていた。
塔の通路には、行き交う人の気配。
その一人一人を見ていると、急に世界が細かく見えるような気がした。
「アオ兄」
隣を歩くミラが、小声で言う。
「出発する日、ちゃんと教えてね」
「ああ」
「私、見送りに行くから。塔の一番上まで登って」
「そんな高いとこまで登ったら、風に飛ばされるぞ」
「アオ兄が落ちないか見張るんだよ」
そんな他愛もない会話をしながら、自分の部屋に戻る。
扉を閉めると、狭い空間に一人きり。
さっき詰めたばかりのリュックが、床の上でじっと待っている。
窓の外には、相変わらず灰海と光の柱。
でも、昨日までよりも、少しだけ“距離感”が変わって見えた。
俺はベッドに腰を下ろし、胸ポケットから黒い板を取り出す。
「……もしもし、世界」
独り言みたいに囁く。
「俺がそっちに行ったら、ちゃんと話してくれるか?
どうしてこうなったのか。これから、どうなろうとしてるのか」
もちろん、返事なんてない。
ひびだらけの画面は、曇ったまま沈黙している。
それでも、何かを握りしめている気がした。
問いと、怖さと、ほんの少しの期待を。
窓の外で、光がまた一度、明滅する。
塔の鉄骨が低く唸った。
――たぶん、もう引き返せないな。
自分でそう思って、苦笑した。
「よし」
立ち上がって、リュックの紐をぎゅっと握る。
「行くって決めてから、迷うんだっけな、爺さん」
まだ何日かは準備にかかる。
皆にどう話すかも、考えないといけない。
それでも、どこかで分かっていた。
この灰色の塔から、灰色の世界へ。
光の柱に向かう道が、もう俺の中で“始まり”に変わってしまっていることを。
窓の外で、遠くの地平線がかすかに揺れた。
それは、世界の方が先に動き出した合図だったのかもしれない。
(第4話へ続く)




