第2話 旅立ちの灰
あの夜、光は本当に、俺を呼んでいるみたいだった。
世界の色は相変わらず灰色で、空も地面も大して変わらない。
それでも――塔の窓から見える光の筋は、昨日までより太く、白く、少しだけ近くに見えた。
「……気のせいだろ」
そう言い聞かせても、胸の奥が落ち着かない。
寝返りを打つたびに、薄い布のベッドが軋んだ。
結局、ろくに眠れないまま朝が来た。
「アオ、起きろ。苔が固くなる前に食っちまえ」
エルド爺さんの声で目をこじ開ける。
扉ががたがた鳴って、いつもの皺だらけの顔が覗いた。
「……おはよう」
「随分とひどい顔だな。灰海の亡霊でも見たか?」
俺は小さく息を吐いて、身体を起こした。
爺さんが差し出した缶の中には、いつもより少し大きい苔のブロックが二つ入っている。
「今日は太っ腹だな」
「そうでもせんと、腹の足しにならん日でな」
エルドは冗談みたいに笑うけど、目の奥がどこか探るようだった。
「昨日の光、見たんだろ?」
図星すぎて、言葉に詰まる。
「……見たよ。いつもより、近く感じた」
「そうか」
それだけ言うと、爺さんは窓の外に目をやる。
朝の光にかすんだ灰海。その向こうに、まだうっすらと白い柱が残っていた。
「昔な、あの光を目印にして旅に出た奴がいた」
「……帰ってこなかったんだろ」
「そうだ。だがな――」
エルドはそこで言葉を切り、俺の方へ向き直る。
「誰も帰ってこなかったからこそ、まだ“どうなったか”は誰にも分からん」
分からない。
それは、怖さであり、同時に、可能性でもある。
「爺さんはさ、行きたかったのか? あの光のところまで」
俺が訊ねると、エルドは少しだけ目を細めた。
「足がまだ動いた頃は、そう思った時期もあった。
世界の終わりの理由を、この目で確かめてやるってな」
「じゃあ、なんで行かなかったんだ?」
「行きたい理由より、ここに残る理由の方が多かったからだよ」
短く言って、爺さんは肩をすくめる。
塔の下の方から、子どもたちの喧噪がうっすら聞こえてきた。
「ここで待ってる奴らがいたしな。俺が死んじまったら、あいつら困るだろ」
「……今も、困るだろ。俺が出て行ったら」
言った瞬間、自分の言葉に驚いた。
エルドは、笑ったような、困ったような顔をした。
「そうだな。爺さんは困る。寂しくて、たぶんちょっと泣く」
「だったら――」
「だが、それとこれとは話が別だ」
爺さんは言葉を重ねるように続けた。
「アオ。人が誰かのために“問い”を捨てるのは、優しさに見えて、どこかで嘘になる」
「……またそれか。“問い”とか“なんで”とか」
「お前の中の“なんで”は、もう塔の中に収まらんくらいになっとる。違うか?」
否定しようとしたけど、喉が詰まった。
昨夜の光の残像が、まぶたの裏でちらつく。
どうして世界は終わったのか。
どうして、俺たちはこんなところで、苔をかじって生きているのか。
どうして、あの光だけが消えないのか。
――どうして、俺はこんなに、知りたがっているのか。
「……違わないよ」
吐き出すと、胸の奥が少し軽くなった。
「でも、行ったって、何があるか分からない。
途中で死ぬかもしれないし、たどり着いても何もないかもしれない」
「そりゃそうだ」
あっさり頷かれて、逆に戸惑う。
「怖くねえの? 爺さんなら止めると思ってた」
「怖いさ。だがな、怖いからこそ、選ばにゃならん」
エルドは腰のポケットから、小さな金属の板を取り出した。
割れた画面。ひびの入った黒い板。俺も何度か見たことがある。
「それ、昔の……」
「ああ。旧世界の“窓”だ」
エルドはそれを掌で撫でるようにしながら、続けた。
「こいつはもう映らんが、中身はまだ生きてる。
昔の言葉や、絵や、歌や、争いの記録が詰まっとるはずだ」
「そんな大事なもん、なんで俺に見せて――」
言い終わる前に、エルドはその板を俺の手に押しつけた。
冷たくて、思ったよりも重い。
「持っていけ」
「え?」
「塔の外に出て、聖遺区に近づけば……まだ動く場所があるかもしれん。
こいつの“声”が聞こえる場所にな」
突然すぎて、頭が追いつかない。
「ちょ、ちょっと待てよ。爺さん、俺が行くなんて――」
「言ってない? 顔に書いてある」
ケラケラ笑いながら、エルドは俺の額を指でつついた。
「アオ。
外に出る前に一つだけ覚えておけ。答えを見つけるために旅をするんじゃない」
「じゃあ、なんのために?」
「“問い続ける自分”を、諦めないためだ」
その言葉は、苔よりずっと嚙みごたえがあった。
ふいに、塔の廊下からばたばたと足音が近づいてきた。
「アオ兄! いる?」
扉が勢いよく開いて、小さな顔が飛び込んでくる。
くしゃくしゃの髪に、大きな目。下の階に住んでいる少女、ミラだ。
「ノックくらいしろよ」
「したよ! 二回も! 聞こえなかっただけ!」
ミラはぷんすか怒りながらも、すぐに俺の手元の黒い板に目を留めた。
「それ、なに?」
「宝物だよ。……俺の“なんで”を探す道具」
自分で言って、少し気恥ずかしくなる。
ミラはきょとんとしてから、首をかしげた。
「アオ兄、どこか行くの?」
「……かもしれない」
エルドが横から口を挟む。
「ミラ。こいつはな、ちょっと遠くまでおでかけするかもしれんのだ」
「え、遠くって――灰海の外?」
ミラの顔から、一瞬で血の気が引いた。
外の世界がどれほど危ないか、塔の子どもたちは嫌というほど聞かされている。
「死んじゃうよ」
「簡単に殺すなよ」
「だって……だって!」
ミラの目が潤んで、俺は慌てて言葉を探した。
「今すぐじゃない。ちゃんと準備して、それからだ」
「約束してよ。ちゃんと帰ってくるって」
真正面から見上げられて、逃げ場がなくなる。
小さな手が、俺の袖をぎゅっと掴んでいた。
――帰ってこられる保証なんて、どこにもない。
けど。
「……ああ。約束する」
そう答えると、ミラは少しだけ笑って、袖を離した。
「嘘ついたら、幽霊になってでも怒るからね」
「怖すぎるだろ、それ」
心臓の奥が、じわじわと熱くなる。
行きたい理由と、ここにいたい理由が、綱引きをしているみたいだった。
ミラが去ったあと、部屋に静けさが戻る。
エルドは、少しだけ遠い目で俺を見ていた。
「アオ」
「……分かってる。すぐには出ないよ。準備もしなきゃだし」
「そういうことじゃない」
エルドは首を振った。
「行くかどうかは、お前が決めろ。ただ――」
そこで言葉を切り、窓の外を指差す。
「急がんと、世界の方が先に動き出すかもしれん」
何のことか分からず、俺は窓の外を見た。
灰海の向こう。
白い光の柱が、さっきよりも明滅していた。
点いたり、消えたり。まるで脈を打つ心臓みたいに。
「……なあ、爺さん」
「ああ」
「あれ、やっぱり、ただの灯りじゃないよな」
「世界が残した“最後の合図”かもしれんな」
冗談にしては、重すぎる言葉。
でも、どこかで納得してしまう自分がいる。
塔の鉄骨が、ゆっくりと軋んだ。
風の音が、遠吠えみたいに聞こえる。
俺は拳を握りしめて、胸の奥のざわめきに名前を付けた。
――怖さ。
――期待。
そして、どうしようもないほどの「なんで」。
「爺さん」
振り向いた俺の声に、エルドは黙って頷いた。
何も言っていないのに、全部分かっているみたいな顔で。
「準備の仕方、教えてくれ。
灰海の向こうまで、行くとして――どれくらいの“覚悟”が要るのか」
エルドの皺だらけの顔に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「いいだろう、旅の授業だ。初回は、“戻るための嘘のつきかた”からだな」
「……なんだよそれ」
「家を出るには、理由が要る。戻るには、もっとたくさん要る。覚えとけ」
その日、俺は初めて具体的に“出ていく自分”を想像した。
塔の外。灰海の向こう。
そして、あの光の真下。
まだ何も決めていないはずなのに。
どこかで、もう決まりかけている気がした。
窓の外で、光がまた一度、強く瞬いた。
まるで、「早く来い」とでも言っているみたいに。
(第3話へ続く)




