【短編】奇跡は降るよに、悪役令嬢 ~ラリアは茨の棘に似て
耳をさわる癖がどうしても抜けないでいる。
「結い上げましょう、ラリアさま。新しい耳飾りも、御髪の色によく映えます」
鏡越しに尋ねてくる侍女に、ラリアはそっと首を振る。
「いつもとおなじで……耳飾りはしまっておいて」
侍女は鏡のなかでうなずき、手を動かしはじめた。
ラリアの緩くうねる黒髪は蔦のようで、いつも香油を塗り込み背や肩から胸元へと流している。
いつまで経っても耳をさわる癖が抜けず、髪で耳を隠してごまかしている。髪にふれるか、両手をにぎるかの違いだ。
「髪飾りはドレスに合わせて……こちらでいかがでしょうか」
侍女にうなずく。幼いころから仕えている彼女に任せておけば安心できた。
髪飾りをためしに合わせる姿が鏡に映っている。
ラリアは目も髪も黒く、ドレスとおなじ青い色の石をあしらったものを侍女は選んでいた。
髪飾りをあてがうなか、髪が揺れ耳が一瞬露出した。
あまり目立たないが、白い筋が残っている。
昔、テオール・デュクロにつけられたものだ――ラリアの現在の婚約者である。
●
ラリアがテオールと婚約を結んだのは、十歳のころだった。
気がつけばそれから十年が経っている。
生家で家庭教師に囲まれて過ごしたラリアと違い、テオールは騎士団に入団し研鑽を積む日々を送っていた。その甲斐あり、テオールは王室直下の王室騎士団の一員となっている。
騎士団が開く交流試合や演習試合などにはラリアも参加し、寄宿舎にも婚約者として立ち寄った。
この国でテオールの金髪碧眼はもっとも多い色であり、騎士団の大半がそうだった。
ひとの多い場所で彼を探さなければならないとき、いつも先にテオールがラリアを見つけていた。黒い髪が珍しいからだろう。
ラリアの妹が仕入れてくる噂話では、テオールは孤高さを保った有望株として、女性たちに人気があるという――が、王室騎士団所属のものは全員そうだろう。
ほかの騎士団員に彼の暮らしぶりを尋ねてみたかったが、催された試合や寄宿舎でテオールはラリアのとなりにずっとついて歩いていた。
おかげでほかの団員には挨拶ていどしかできなかった。
ラリアは最近はお茶会に呼ばれることも減り、決まった友人と会うくらいしか情報交換の参加できていない。
ここ数年、社交界の中心となっているのは王太子妃殿下だ。
彼女は色恋にまつわる話が好きで、とくに諍いに発展するような過激なものをとくに好んだ。
現実にそんなものはそうそう起こらず、王太子妃のお茶会での会話は創作物――小説や歌劇が中心だという。
各所で開かれるお茶会は、もっと刺激のある新しい話題はないものか、と噂話と飛躍した解釈の飛び交う場所となっていた。
その流行のなか、ラリアは目をつけられてしまった。
ラリアは同世代の貴族令嬢との交流が浅く、ほかの誰よりも先に婚約をしていた。
それについてとくにラリアとしては語ることもなく、語らず――だが親世代のどこかから、ラリアとテオールの婚約にまつわる話が流れ出ていた。
――テオールが責任を取るかたちでの婚約。
なにが起こり、テオールがなんの責任を取るのか、そこは流れていないようだった。
噂の真偽や詳細を知りたがる顔に囲まれるお茶会は、ラリアにとって楽しいものではなかった。
侮蔑的な言葉を使ってまで話を引き出そうとする令嬢も現れ、いつしかラリアはうんざりしていた。
言葉での応酬が可能ならまだしも、少し言い返すだけで令嬢は泣き出したり激昂したりする。
そのうちラリアが氷のように冷たい心の悪辣な人間だ、という噂が出回りはじめた。
テオールが危害を加えて当然の女だとも。
もうどうでもよかった。
日々学ぶことが多く、社交を切り捨てればそちらに時間をあてられる。
社交を切り捨てるのは、将来的に致命傷になるかもしれなかった。
だがラリアには、よその令嬢たちとのお茶の席がまるで子守のように感じられていた。
そんなものは妹の相手だけで十分だ。
自分が優位に立とうとし、気に入らないと当たり散らし、場合によっては泣きわめく。
うんざりだ。
それでも招待状は届いていた。
断りの手紙を書くうちに、ラリアの悪評は確固たるものとなっていたらしい。
親交もないのに招待状を寄越す相手は、お茶会でラリアをつるし上げるべく招いていたようだ。
断りづらく、義理立てで参加したどのお茶会でも、テオールを束縛する売女扱いだった。
ラリアとしては噂の出所や詳細を知りたかったのだが、全員すでにかたまった噂を理由にラリアを非難するばかりだった。
どうやらかなり前にどこかの席でラリアが話題になり、妙な転がり方をし尾ひれがついて話がふくらんだ――そういうことらしい。
何度目の糾弾の後だったか、どこかの令嬢が泣き出してお茶会が解散になった。
その日を境に、ラリアはお茶会に出席しなくなったのだ。
会話も口論もできない令嬢たちの相手は疲れる。
妹は隣国の学院に留学予定のため、ラリアの態度が原因で災いが及ぶことはないだろう。
選り好みしているがラリアにも友人はおり、彼女たちからよそでどう言われているか知らせてもらっている。
令嬢たちより、その生家への対応は必要だ。
やり取りがある家なら、それこそひざを交えて話し合いをしなければならない。
今後取引から手を引くとしても、恨まれてはならないからだ。平たくいえば、原因が令嬢にあると明文化する必要がある。
やり取りのない家なら、どんな事業を展開しているか調査する。
穴があるならそこから崩壊させるし、先回りをして妨害工作だってする。
やり過ぎではない。
お茶会での彼女たちの言動は、子供の他愛ない話のていどを超えていた。
子女の言動を監督できない家なら、多少の痛い目には遭ってもらったほうがいい――家族の見解であり、ラリアも賛同している。
現在のラリアは、夜会や園遊会への参加は少ない。
婚約者があるなら同伴するのが当然、というならいがあった。
騎士団に所属するせいか、テオールは長時間の外出を避けたがった。
最低限は参加するが大半の夜会や園遊会は見送り、休暇も騎士団詰め所のある城下町で過ごすことが大半――そこにラリアも同席して過ごしていた。
個室のある飲食店での時間は、とくに有意義だった。
おたがいの領地の情報交換や、高位貴族の動向を話し合う。
三年後に結婚を予定している。
事前にテオールの生家であるデュクロ伯爵家に入らないか、という誘いが正式に来ていた。
女主人としての教育を前倒しにはじめよう、というものだ。すでに私物の搬送ははじまっている。
「お嬢さま、テオール卿がお見えです」
家令の呼びかけに、ラリアは顔を上げた。
支度を調え、迎えのテオールを待っていた。
自室を出ると、テオールが立っている。
「入ってくればよかったのに」
「俺に会うために出てくるところを見たかったんだ」
差し出された手を取り、ラリアは短く笑った。
婚約を交わしたころに比べ、おたがい成長している――ほぼおなじ背丈と身体付きを持っていたのに、現在のテオールの大きさはべつの生きもののようだ。
「どうかした?」
「……ずいぶん、背がのびたわね」
「ラリアもだよ」
頭ひとつは背の高いテオールがうなずく。
「十年経ったものね」
「まだまだ先は長いよ」
その通りだ。
そう思いながら馬車に乗り込んだ。
●
夜会の主は新規事業に熱心な男爵家だ。
新しい事業では宝石を扱うとあり、貴族だけでなく商人も招かれていた。
国内のめぼしい顔の集まる夜会だ、規模は大きく、会場を一巡するだけでも疲れてしまいそうだった。
三年後に結婚を控え、それはテオールがデュクロ伯爵家当主になる、ということだ。
まとめて顔を売るのに最適であり、そこにラリアも同伴する。
事前にそれがわかっていたため、ラリアはややかかとの低い靴を履いていた。
立食形式の会場は広さがあるものの、調度やもてなす料理を配膳したテーブルの多さもあり、かなり手狭に感じられた。
なによりひとが多いのだ。
ひとりひとりと挨拶をしているだけで、時間が過ぎていく。
出会う顔出会う顔とそつなく挨拶を交わすテオールは、薄い笑みを浮かべている。
整った彼の顔立ちを時々横目にし、ラリアも微笑んで向かい合った顔に言葉を返していく。
「お会いできて光栄でした」
「ありがとう、ラリア嬢。どうかテオール卿と楽しい夜をお過ごしください」
いくつもの顔と挨拶を交わしちえると、主催者である男爵が現れて会場が静まりかえった。
「堅苦しい挨拶は抜きです! 今宵みなさんをもてなせる喜びに感激しております。どうか飲みものをお手に――乾杯!」
挨拶が短くて助かった。
「ラリア、それ俺とおなじもの?」
先に一口グラスに口をつけたテオールが尋ねてくる。
「そうね、おなじワインだと思うわ」
給仕が配ってまわる飲みものを、テオールと同時に手に取っていた。
「これはちょっと強いな。べつの果実水を」
「……ワインくらいで酔わないと思うわ」
「酔うほど呑んだことないだろう?」
「テオールはあるの?」
「騎士団の定例会が、毎回酒宴になるんだ。参加者の半分が立っていられなくなるまで、全員延々呑まされる」
ラリアのグラスを取り上げたテオールは、会場の一角に目配せをする。
そちらに目を向けると、空になった休憩用の長椅子がいくつか置かれていた。
「あそこが……」
どうかしたの、と目線を戻すと、すでにテオールはラリアから離れていた。
新しい飲みものを取りにいくつもりのようだ。その間、ラリアには長椅子で待っていろ、というのだろう。
長椅子に腰を下ろすと、思いのほか足が疲れていた。背中までだるく感じられる。
身体を楽にしてみると、その長椅子からは楽団の演奏を眺められると気がついた。
まだ演奏ははじまっていないが、おしゃべりにも疲れたとき、こういった席はいいかもしれない。
視線を転じ、テオールの背中を探した。
ひとの輪のなか、彼の横顔を見つける。
青いリボンの結ばれたグラスを手にしていた。あの色の紐やリボンが結ばれているのは薄荷水だ。
はじめて彼と顔を合わせたとき、薄荷水を分け合って飲んだことが思い出された。
彼の薄い金の髪と青い瞳は、引き会わされた幼いころから美しかった。
まっすぐ戻ってこられるだろうか――あっという間にテオールに声をかける男性が現れ、そこにべつの男性も加わった。
王立騎士団の団員であり、遠からず伯爵家の当主となるのだ。
テオールの顔と名前を覚え、接触して縁をつくっておきたい、というものは少なくない。
男性女性が入り混じり、テオールの周囲に壁をつくっていく。
女性はみな髪を結い上げ、長さのある耳飾りで装っている。
そのふたつの組み合わせが流行となっていた。
金糸銀糸と宝石ををあしらったフリンジが揺れ、明かりを照り返すのが美しい――昨年王女殿下が装ったのがはじまりだ。
無意識のうちに耳に手が伸びたが、髪が指先がふれ、思い留まることができた。
左耳――そこに傷跡がある。
いずれ消える、そう語る医師の言葉を、ラリアも家族も信じていた。
いまではそこには、うっすとした傷跡が残っている。
ふたりきりになったとき、時折テオールがふれてくる。
傷を隠す髪を掻き上げ、ラリアの耳をのぞきこむ。
そこで彼がなにを思っているのかわからない。
ラリアが感じることを伝えていいのかも、よくわからない。
「……誰だったかしら」
会場に到着してからずっと、こちらをうかがっている顔があった。
それがいまもラリアを見ている。
わざわざそちらに挨拶に向かう気は起こらず、喉元まで出かかっているがはっきりしないでいる名前に、ひどくもどかしい気分になった。
彼女は飴色に近い金の髪を結い上げ、ふくよかな胸元を引き立てるドレスに身を包んでいる。
頭から爪先まで流行に合わせた彼女のような令嬢は、会場にたくさんいる。
そのなかでも群を抜いて似合っていた。
背もたれに身体を預けていくと、さらにテオールがひとに囲まれていくのが見えた。
目上の人間に囲まれたテオールは、しばらく戻って来られなさそうだ。
ラリアが迎えに行けば、解放されるか話の転換にでもなれるか――腰を上げるか迷ったとき、彼女が動く姿を視界のはしにとらえた。
――エラータ・ラヴィス子爵令嬢。
こちらに歩いてくる彼女の姿に、その名前を思い出した。
いくつかのお茶会で同席し、いさかいにもならず会話もほぼ交わしていない相手だ。ほかの令嬢がラリアを糾弾する場面を、ただ黙って眺めていた顔だ。
過去の夜会でも見かけ、だが挨拶をかわした覚えはなかった。
なのに、彼女の筆まめさを知っている。
エラータの顔つきと足取りから、ラリアに用があるらしいのは予測できた。
楽団員が数名、準備をはじめている。
そちらに気を取られた間に、エラータが間近に迫っていた。
「こんばんは、ラリアさま。おひさしぶりです」
「以前お茶会でご一緒して以来ですね」
「ええ……あのときはあまりゆっくりお話ができなくて」
逡巡した素振りに苛立ちを覚える。さっさと話せ、といいたくなるのを呑み込んだ。
「なにかお話しなさりたいことがありましたか?」
「まあ、そんなに冷たいことをおっしゃらないでください」
「お話があるなら、お手紙をくださったらよかったのに」
冷たい対応と取ってくれて結構だ。となりに腰を下ろすよう勧めるつもりもない。
楽器を移動させてくる楽団員が行き来し、エラータは眉をひそめそちらを一瞥している。
「……夜風に当たりませんか?」
「ここでひとを待っていますので」
面倒だ、という気持ちが強かった。
なにをいわれるのか、と身構えてはいない。
彼女に対する知識も興味もなかった。
用向きがあるのはエラータのみだ。
かといって、ここであまりに無碍な態度を取るつもりもない。
――適当にあしらえたらいい。
「テオールさまがいらっしゃるまで、ご一緒しても?」
「こちらから迎えに行くことも、いま考えているところです」
相変わらずテオールはひとに囲まれている。
「私ではお話相手にもなりませんか?」
「どうでしょう。お話をしたことがありませんから……私になにかご用が?」
友人相手なら、用がなく時間がなくとも出かけていく。
話したいからだ。
エラータは動かない。
ため息を噛み、ラリアは長椅子のとなりをしめす。
エラータは腰を下ろしたが、なかなか口を開かなかった。
楽団員が来て、去って、またやって来た。
わらわらと往復するなか、場が整えられていく。
「演奏の用意ができたら、テオールを迎えに行こうと思っています」
エラータの横顔が緊張した。
――そんな緊張をしてまで、わざわざなんの話をしようというのか。
「ラリアさまは、おしゃれに興味がないのですか?」
意地の悪い返事がいくつか頭をよぎった。それらを押し退け、ラリアはべつの言葉を選んでいた。
「私の装いは流行ではなく、テオールのとなりに立つべくととのえたものです」
それは最高に意地の悪い言葉だった。
――テオールにふさわしい装いは、流行を追うあなたには無理。
エラータが過去の夜会で見せていた目つきが思い出された。
彼女はテオールに懸想している。
騎士団で研鑽する見目麗しい騎士――しかも時期に伯爵家の当主となるのだ。
独身であれ既婚であれ、彼に秋波を送る女性は少なくない。手紙も多いそうだ――彼の家の家令がすべて処分していると聞いた。
その女性のなかに、エラータがいた。
とくに熱心に手紙を書く女性が何人かおり、家令から耳打ちのかたちで用心をうながされたことがある。
見境がなくなった女性は、機会があればなにを仕出かすかわからないのだ。
「流行は世間の動きです。それを学ぶことを否定されるのですか?」
なんでそうなるの、と尋ねたかったが、ラリアは軽く笑うに留めた。
「幼いころから、勤勉であれと……そう躾けられています。同世代のどの家門の令嬢たちも」
それを口にするのか――ラリアはエラータに向かって首を振っていた。
「家門を持ち出して相手に意見するなら、相応の覚悟を持ってください」
エラータが口を開け閉めし、それからわずかにうつむいた。
自分の失言を悟ったのだ。
一介の令嬢がほかの家門に口を出すことの意味を。
「……美しく競い合うのも楽しいものでしょう。エラータさまがそうなさりたいなら、それでいいのではありませんか」
「ラリアさまがそうなさらないのは」
「私が流行をまったく学ばないと?」
興味はないが、最低限は知っておいたほうがいい――そう思ってはいる。装わないだけだ。
それを考えていなかったのだろう、エラータが目を丸くする。
「流行から外れたらみっともない、と思っておられるのですか?」
どうやらそうらしい。
目を泳がせた彼女は、何度か深呼吸をする。そんな追い詰められるような会話でもないだろうに、そこまで緊張した彼女が不憫になってきた。
「み、みんな流行を日々学んでいます。そこを怠けるような……」
「それは危ない考え方ですわ、エラータさま」
思わず言葉を遮ってしまった。
目の前でこんなことを口走るのが妹であったら、ラリアはきつい説教をするはずだ。
「自分以外を勤勉でないと感じるなら、足を止めて一度深呼吸をなさって」
よし、と胸で自分を褒める。
やわらかい言い方ができた――そう思ったのに、となりにすわったエラータはそうではないようだ。
ひどいことをいわれた、とでもいう顔をしている。
「あなたも私も……誰も彼も、学んでいます」
妹にするような言い方にならないよう、ラリアは注意していた。
「学ぶ方向だって、全員おなじではないでしょう?」
私とあなたは違う、それだけのことだ。
ラリアの友人の輪はそれが通り、彼女の友人の輪ではそれが通らないのではないか。
はやい段階で婚約者――テオールを得、社交から半分抜け出したラリアは、事業や政治を学ぶようになっていた。
婚家でよりよい足場を得るためだった。
ラリアにそれに不満はなく、しかしエラータには理解できないことだろう。
背もたれに体重を預け直し、ゆったりと相づちを打つテオールを確認する。彼も彼でうんざりしているのが透けていた。
「テオールさまとのご結婚は、予定通りに……?」
おずおずとした物言いに、まだ彼女を気遣ってしゃべらなければならないか――そんな疑問を持ってしまった。
「そのつもりよ」
「お、王立騎士団の一員でもあるんです、彼に恥をかかせないよう、ラリアさまにはもっと努力を……」
頬をひっぱたいてやろうと思ったが、両手をにぎってそれをやり過ごす。
「テオールに気持ちを寄せていらっしゃるなら、彼を愚弄するような言葉は控えてくださる?」
エラータの肩が跳ね、それに合わせて耳飾りが踊った。
「愚弄だなんて……っ! それに、あの方に気持ちは……」
「見ていればわかるわ。テオールを思っての提言に見せかけるのはやめなさい」
お茶会でのいくつもの嘲笑、ラリアを悪し様に罵る声、起きてもいないことを持ち出して誹る声、テオールに同情しつつラリアを侮辱する声。
ラリアがそういった声を浴びせかけられている席で、エラータは黙って見ていた。
傍観に徹しているようで、エラータは彼女たちと一緒にラリアに悪罵を浴びせていたのとおなじだ。
「……私がテオールさまのことを知ったときには、もうラリアさまと……こ、こんなの不公平です」
「エラータさま、この世に公平なことは少ないんです」
あれがほしい、といまさらまわりに訴えても、彼女はテオールを手に入れられない。十年も前に、ラリアとテオールの家同士がふたりの未来を決めたからだ。
「婚約はなさってますが、まだ取りやめられるでしょう? 取りやめなくても……私にも、テオールさまと……近しくなる機会があっても」
「その願いは失礼ですよ。テオールにも私にも、あなたを育てたラヴィス子爵夫妻にも」
ラリアの妹がもしこんなことを言い出したらどうするか――おそらく何度もひっぱたくだろう。
「ですが、社交界には不倫がはびこっていますわ」
「泥をすするのがはびこっているからといって、テオールにもそうであれというのは……馬鹿な言動を取るのも流行ですか?」
このていどの言い方、妹なら鼻で笑う。
しかしエラータは妹ではなく、顔色を失っていった。
「泥をすすりたいならすすればいい。他人にそれを求めるのは愚かです」
ラリアもラリアの友人たちも、みな噂話に向いていない。だから社交界では浮いており、集まると気が楽な間柄になれた。
エラータはお茶会でラリアが受けたもてなしを知っている。
そこでぶつけられた言葉たちが――その後に広がっていった噂が、単なる言いがかりだとじつはわかっているのではないか。
「ラリアさまとテオールさまの婚約は、なにかの償いだという噂は……? もし見合った賠償金が支払われたら……テオールさまを解放するのでしょうか」
彼女の声はやけに弱くなっていた。
ラリアは笑いそうになっていた堪え、そんな自分を胸で盛大に褒める。
――自分のほしいものを持っているラリアは悪いやつ。
エラータと話していてもとくに楽しくない。そろそろ解放されたかった。
「これまでにも私にまつわる噂話は、すべて根も葉もないと何度も申し上げてきましたが……それではみなさんおもしろくないのでしょうね。きっとなにかあるはずだと、いつまでも食い下がる。どれだけ私たちに揉めていてほしいのかしら」
冷たい響きの言葉が落ち、エラータが気まずそうにした。
「じつは……ラリアさまがテオールさまを脅していると……昔から耳にしていて」
「好きなひとが脅されてるから、あいつをいじめてやろう、って?」
図星らしい。それが顔にありありと浮かんだエラータの肩から、力が抜けていくのがわかった。
「テオールを脅そうとするなら、国が転覆するような理由がないと無理でしょうね。そもそも私たちの婚約は十歳のときよ、なにをどう脅すっていうのかしら」
気まずそうにする彼女の様子に、どうしてお茶会でまわりと一種になってラリアを糾弾しなかったかわかった。
彼女は他人を罵るのに向いていない。
「ただいま、ラリア」
「……おかえりなさい。まだあなたと話したい方がいらっしゃるようよ」
戻ってきたテオールの背に、いくつもの目が視線を送っている。エラータはうつむいてしまっていた。
「ラリア、薄荷水をいただいてきた。一緒にほかの方の挨拶にいってくれる?」
「もちろんよ」
受け取ったグラスに口をつけると、さわやか甘さがのどにまで広がった。
楽団員が集まり、演奏席が埋まっていく。
これから会場に合わせた演奏がはじまり、ダンスの時間に移るのだ。
立ち上がり、お辞儀をしたエラータがうっすらと頬を赤く染めた。
「わたくしエラータ・ラヴィスと申します」
「テオール・デュクロだ。ラリアを返してもらっていいかな?」
「はい、あの……このあとダンスは……よろしければ、私と」
「まだ挨拶していない方も多くて、ダンスの時間を取れるかわからないんだ」
「そうなんですね……」
婚約者のラリアの許しがあれば、彼女がテオールと踊っても問題にならない。
一度くらいなら、とエラータは思っていたのかもしれない。
「そろそろ行こうか、ラリア」
ラリアのグラスを取り、テオールは残っていた薄荷水を飲み干した。
彼の口元から、すっきりとした香りが漂う。それはラリアの呼気とおなじ香りだ。
指揮者がホールに向かって一礼し、演奏がはじめられた。
軽やかな音色が流れていく。長椅子の位置は音が大きく聞こえ、会話が難しくなっていた。
「……わざとかどうかわからないけど、あなたが見落としていることがあるわ」
エラータが首をかしげる。
「ラリアさま、演奏が……よく聞こえないです」
「テオールは私を愛しているの」
彼女に微笑んだラリアは、テオールと腕を組んだ。
「そして、私も彼を愛しているわ」
――他人がどれほどとやかくいおうと、関係ないと思うほどに。
演奏に満たされた会場を、テオールのエスコートで歩きはじめる。
会話を楽しみたいものは、テラスや楽団から離れた場所に移動していた。
徐々にダンスに勤しむ数が増えていく。
「機嫌がいいのね」
無表情に近いが、テオールの横顔でわかる。
「……きみの気持ちを聞けたから」
いくつかの令嬢の目がテオールに向けられていた。それがラリアで留まり、険しくなっていく。
「とっくに知ってるでしょう?」
「知ってても、聞きたいんだ」
「テオールだってなに言わないじゃないの」
会場からにらみつけてくる顔に笑顔を返す。なにも見なかった、といわんばかりの態度で、彼女たちは顔を背けていく。
「ラリアを前にすると、うまく言葉が出てこなくなるんだ。文官じゃないからかな、表現できてない気がする」
つい、ラリアは耳にふれてしまっていた。
――十歳のころ、両家の共同事業が成功した。
その祝いの席に、子供たちも連れられていったのだ。
たくさんのお菓子が用意され、普段なら許されないようなスカートでのかけっこも許された。
テオールや彼の姉、ラリアの妹で遊ぶのは楽しかった。
くたくたになるまで遊び、居眠りをしていたラリアの耳が切られたのは、日が落ちる前のことだ。
テオールがナイフで切ってしまった。
理由があまりに稚拙で――だが実際テオールは十歳の子供で、理由を与えたのは彼の姉だった。
過去に数度顔合わせがあり、そのころからテオールはラリアを思っていたらしい。
髪の毛と、髪の毛の主の好きなお菓子、それを一緒に花の根元に埋める。
そんなおまじないを実践しようとしたのだ。
それで恋が実るのだと。
幼いテオールはナイフの扱いが不慣れで、こめかみに流れた毛先だけを切るつもりが、ラリアの耳までざっくりと傷つけてしまった。
彼の願いは叶った。
責任を取るというかたちで婚約が成立した。
婚約後しばらくの間、ラリアは彼に気持ちを打ち明けられなかった。
初恋だったと告げ、いまなお気持ちを寄せていると告げたのは、彼から騎士団入団を決めたと報告を受けた日だった。
――それを先に知っていたら入団を決めなかった。
ラリアを抱きしめくちづけてきながら、彼はそう呻いていた。
踊り、歓談するひとびとの喧噪に背を向けるようにし、自然と爪先は静かなテラスに向けられていた。
ガラスの扉を隔てるだけで、騒音から切り離された過ごしやすい空間になった。
「あの令嬢となにを?」
「私の噂がほんとうかどうか、ですって」
「……嘘だって説明した?」
「いいえ。みなさんひとの説明に耳を貸さないもの、適当な世間話をしただけよ」
それを信じていないようで、テオールは鼻を鳴らした。
彼の手が動いたかと思うと、ラリアの髪を掻き上げ、耳を露出させていく。
耳朶の、おそらく傷跡に彼のくちびるが押しつけられた。うっとりする感覚のなか、ラリアはテオールの背に腕をまわした。
「一生俺はラリアのものだよ」
「当たり前でしょう、私だってあなたのものよ」
もっと甘い蜜のような言い方ができればいいのだが、ラリアが口に出すとかたく愛想のないものに感じられる。
顔を上げ、鼻先を突き合わせてきたテオールは、上機嫌そうな顔をしていた。
彼の機嫌がいいのだ、ラリアはこれでいいのだろう。




