第三話 深淵の歌声
船内の気温が氷点下まで下がった瞬間、アイリスは確信した。これは単なる幻覚ではない。
「船のログを見せろ、デヴィッド」
彼女の声に、研究者としての冷徹さが戻っていた。震える手でデータパッドを操作する。
「三年前のトーマスの最後の通信記録…全て消去されているはずよ」
「いや、ある」
デヴィッドが懐から小さなメモリーチップを取り出した。それは有機的に脈動し、触れると生暖かい感触がある。
「これが兄の最後のメッセージだ。だが、君には見せたくなかった。」
ライアンがメモリーを船のシステムに挿入する。画面に映ったのは、痩せこけ目を血走らせたトーマスだった。背景には、現在と同じ星雲が蠢いている。
『アイリス…聞こえるか?私はもう人間ではない。この星雲は…意識を持っている。何十億年もの間、宇宙を漂いながら、生命を…変化させている』
画面のトーマスが振り返ると、その顔の半分が星雲と同じ色に変色していた。紫と緑の斑点が、まるで皮膚の下で蠢いているかのように。
『エリンの病気は偶然じゃない。私が持ち帰ったものが…彼女を選んだんだ。この星雲は、特別な遺伝子を持つ者を求めている。娘は…』
通信が途切れた瞬間、エリンの病室から甲高い笑い声が響く。三人が駆けつけると、エリンの身体が半透明になっていた。
「パパの声が聞こえる…ママも一緒に来て」
娘の声だが、その口調は大人びていた。手を伸ばすと、アイリスの頬に氷のような指が触れる。
「エリン、気をしっかり持って」
だがアイリスの心の奥では、違う感情が芽生えていた。娘を救いたい一心が、いつの間にか別のものに変わっていた。夫に再会したいという、禁断の欲望。
「ママ、怖がらないで。パパがママを待ってる。星雲の中で、みんな一緒になれるの」
エリンの瞳から、涙のような光る液体が流れ落ちる。それは床に落ちると、小さな星雲の形になって蠢いた。
ライアンが母親を睨んだ。
「母さん、まさか本気で行くつもりじゃないだろうな?」
「あなたには分からない…夫を失った痛みが」
アイリスの声は、もはや人間のものとは思えなかった。低く、振動するような響き。研究服のポケットから、彼女は小さな注射器を取り出す。
「これは何だ?」
デヴィッドが警戒する。
「星雲のサンプルから作った血清よ。トーマスの研究を引き継いで、私が完成させた」
「まさか…自分に?」
「娘と夫に会うためなら、何だってするわ」
注射器の中身は星雲と同じ色で脈動していた。アイリスが腕に刺そうとした瞬間、ライアンが飛びかかる。
激しいもみ合いの中、注射器が床に落ちて割れた。液体が船の床を侵食し始める。金属が有機物のように変形していく。
「システム緊急警告。船体構造の分子レベル変換を確認。生命維持装置に異常発生」
エリンが突然立ち上がった。もはや病気の少女ではない。目は完全に星雲の色に染まり、皮膚の下で何かが蠢いている。
「もう待てない。パパが呼んでる。みんな、一緒に来て」
娘の声と共に、船外から巨大な触手のようなものが現れた。星雲そのものが、船を包み込もうとしている。
アイリスは狂気に満ちた笑みを浮かべていた。