第一話 哀れな人形師の航海
暗い船室に響く娘の苦しげな呼吸音が、アイリスの心を針で刺していく。
三日前から続く微熱、青ざめた唇、そして時折口にする奇怪な言葉たち。医師たちは首を振り、同僚は目を逸らし、世界はアイリスから背を向けた。だが彼女は知っている。答えは必ず、あの忌まわしい星雲の中にある。
アイリス・ヴァーノンは、かつては宇宙遺伝学界の新星と呼ばれた女性だった。しかし今、彼女の手は震え、目の下には深い隈が刻まれている。
痩せこけた頬骨に、かつての美貌の名残が哀しく浮かんでいた。研究服の袖口は薬品のしみで変色し、多数のポケットには娘の治療器具が忍ばせてある。無造作に切り揃えられた黒髪に、いつの間にか白い筋が混じっていた。
「ママ…あの声が、また聞こえる…」
娘のエリンが寝言のような声で呟く。七歳の小さな体に、地球の医学では解明できない病魔が巣食っていた。関節が異常に柔らかくなり、時には物理法則を無視したような動きを見せることもある。
「大丈夫、エリン。ママがきっと治してあげる」
アイリスは娘の額に手を置いた。異常に冷たい肌。まるで宇宙の真空に触れているかのような感触だった。
探査船『アステリズム号』は、彼女が秘密裏に改造した小型船だった。表向きは老朽化した研究船だが、内部には禁断の生体実験装置、未認可の治療機器、そして夫の遺したデータを解析する超高性能コンピューターが隠されている。
船体は錆と腐食で醜く変色し、内壁からは有機的な異臭が漂っていた。まるで生き物のような軋み音を立てながら、船は宇宙の深淵へと進んでいく。
「母さん、正気に戻ってくれ!」
息子のライアンが制御室に駆け込んできた。十九歳の青年は、父親譲りの青い瞳に怒りと困惑を宿している。
「エリンを危険な場所に連れて行くなんて、狂気の沙汰だ!」
「あなたに何が分かるの」
アイリスの声は氷のように冷たかった。振り返った瞳に、異常な光が宿っているのをライアンは見逃さなかった。
「お父さんの死も、エリンの病気も、全てはあの星雲と関係がある。そこに答えがあるのよ」
「でも—」
「黙りなさい」
その時、船の通信装置が唸りを上げた。外部からの信号。だが、この宙域で通信など不可能なはずだった。
画面に映ったのは、夫の弟デヴィッドの困惑した表情だった。
「アイリス、どこにいる?君の船を追跡している。今すぐ引き返すんだ」
「なぜあなたが…」
「君は知らなすぎる。あの星雲で何が起こったかを」
通信が途切れる前、デヴィッドの後ろに何かの影がちらりと動いたように見えた。人間のものではない、不可解な輪郭。
ライアンとアイリスは顔を見合わせた。互いの瞳に同じ恐怖が映っていることを、どちらも気づいていた。
船外に目を向けると、星雲の端が見え始めていた。夫トーマスが死んだ、あの禁断の宙域。紫と緑が交差する不自然な光が、虫のようにうねりながら船体を撫でていく。
エリンの病室から、不気味な笑い声が響いてきた。まるで複数の声が重なったような、この世のものとは思えない響き。
アイリスは拳を握りしめた。細い手首に、予想外の力が宿る。研究者として鍛えられた体幹が、狂気と共に蘇っていた。
「もう後戻りはできない」
彼女の呟きが、船内に静寂を呼んだ。そして、エリンの笑い声だけが、宇宙の暗闇に響き続けていった。