8−7 「離、せ……デカ、ブツ……!」
前回の粗筋。
病院の中で、根本と出会う野田。
今まで得意分野の明かされなかった根本こそが、特殊工作部員であった。
拳銃を手に、根本が野田に襲いかかってきた!
「……信じられないな」
学先輩がキョトンとする顔を見たのは、初めてではないだろうか。それ程までに彼は底を見せずに今まで俺に接してきたと言う訳になる。俺はあまりの緊張から荒くなった呼吸を整える事で必死だった。
「………………」
「今のは結構自信あったんだけどね。流石としか言いようがないよ。
空中で脚を振って、空中で軌道を変えて銃弾をすれすれで躱すなんてね。
僕も、軽く自信喪失してしまいそうだ」
「……こんなんで折れる自信なら、さっさと捨てた方がいいっすよ、先輩」
仮に俺が学先輩に銃で撃たれたとしよう。身体に風穴が空いてしまったとしよう。その時俺が口を開いて余裕かましていられると思う諸兄はおるまい。
俺の背後の、病院の壁に貼られたアイドル看護婦のポスターには申し訳ないが、紙に謝っても仕方ないな。確かに身体は宙に浮いていた。そして学先輩の狙っていたのは俺の胴体。目線からそれを悟った俺は、脚をバタバタともがく事で弾を避けたのだ。バタ足ジャンプって、本当にできるんだな。俺が驚いたよ。
学先輩は肩で息をする俺に、再び銃を向ける。
「忘れてたよ。君も紛れも無い天才だ。
筋力、柔軟さ、反射神経、どれをとっても人間の領域を遥かに凌駕している。
対する僕にあるのは火器の扱いの技術と格闘の心得くらいなもんだ。
熊と人間みたいだね」
「熊ってのは俺っすか」
「熊にしちゃ脚が速い。鹿……とか、どうかな?」
好きにすればいい。俺には一切の興味がない。つーかこんな妙な会話を交わしているうちに段々、学先輩のペースに引き込まれそうな気がする。答えを言わない俺に痺れを切らしたのか、学先輩が再び懐に手を突っ込む。
「……さっきと同じ方法をとったら、君は一体どう避けるかな。楽しみだ」
「馬鹿の一つ覚えって奴っすよ、それ」
学先輩は聞く耳を持たずに、懐から手を引き抜く。再びナイフを投げると踏んでいた俺は、懐から抜かれたものに意識を集中させた。間もなく飛んでくる筈のナイフに備え、俺は前傾に身構える。ナイフを避けて、そのまま学先輩にインファイトを挑むプランを立てていた。格闘合戦で勝てるかどうかは微妙なところだが、俺が彼を突破するにはそれしかない。覚悟は決めていた。決めていたのだ。
そして。
パァン。
だ。
……不意に、さっき聞いた、乾いた破裂音が耳を打った。
学先輩はまだ引き抜きかけた手からナイフを投げていない。しかし、拳銃の銃口からは硝煙が上がっているのが見える。銃は撃たれていた。どこに向けて、だ?俺に向けて、だ。
プランって何ですか。覚悟って何ですか。学先輩の嘲笑うような表情が目に映る。腹の辺りが、痺れた。見たくない。痺れの原因を確認したくない。すればきっと身体が灼熱に包まれる。激痛が走る。まともに立てなくなる。
「で、野田君。もう一つ聞きたいんだけど」
「…………」
「馬鹿の一つ覚えってのは、いったいどっちの事?」
人殺しの天才が折り目正しく二回も同じ手を使う訳も無い。まんまと騙された俺は、脇腹から吹き出る鮮血を見て、その事を身を以て思い知らされたのだった。
声は出なかった。痛みに呻く事すら許されない程の激痛。無様に床に転がってもんどりうつ事も出来ない程の、激痛だ。
内臓へのダメージなんて本来感じる必要もない様な慣れない痛みと気持ちの悪さが同時に襲いかかる。俺の身体はまるで感覚を失ったかのようにゆっくりと力が入らなくなっていく。脚がバナナの皮みたいにへたり込んだ。意識がはっきりしているのを、身体が拒否し始める。襲いくる眠気を振り払う事に全力を注いでいると、頭上から学先輩の声が飛んで来た。
「……この程度の痛みで気絶なんて、案外情けないんだね、野田君も。
まぁ、いい。暫くは動けないだろう。
隼弥ちゃんには適度に痛めつけて、生かして連れて帰るように言われたけど……」
学先輩は座り込んでいる俺の身体を蹴り飛ばす。俺を超える怪力から繰り出される回し蹴りが俺の首を打ち付ける。抵抗する力を失っている俺は、まるでボールのように軽々と吹っ飛んで、病院の隅っこの観葉植物に激突した。止めどない出血で出来た道筋をなぞるように、学先輩は悠然と俺に歩み寄ってくる。
「あんまり気が乗らないんだよなぁ……連れて帰るのって。
元々手加減するのって好きじゃないし」
学先輩は投げ出されていた俺の右腕に、思い切り踵を落とす。
腕が真っ二つに割れるかと思うような衝撃と鈍痛。倒れた俺の左肩を思い切り、何度も踏みつける。痛みに翻弄されて、俺の意識は段々と白んでいくが、目を瞑って必死に耐え抜く。
「君は最初から気に喰わなかったよ。
選ばれた才能を持ちながらそれを否定し、挙げ句僕らに歯向かう。
折角隼弥ちゃんがその気になり始めてるんだ。
今変な考え方をあの子に吹き込まれちゃ困るんだよ。
このまま彼女の力を利用すれば、僕の悲願は達成される。
僕みたいに歪んだ才能を持っていても生きていける人間社会を作る事ができる。
だから君みたいな人間は……異常な才能を持ってる癖に普通の人間みたいに振る舞うような人間は、僕らにとって邪魔なんだよ。
……って、この様子じゃ聞こえてないか」
そう言って、俺の頭を鷲掴みにして、俺の身体を片手で宙に持ち上げる。
畜生。聞こえてんだよ。聞こえてるけど身体が動かねぇんだよ。最悪だよこのシチュエーション。俺への嫌みどころか、桐生部長への本心すら筒抜けじゃねぇか。可哀想なのは利用されている桐生部長か、はたまた今その悪漢に頭を掴まれているこの俺か。抵抗すら許されず、それどころか俺の命は風前の灯火。台風の夜に防波堤の先端でチリチリ燃える線香花火よりも頼りない命だ。
首に拳銃が突きつけられた。目の前の巨人が引き金を引けば首の骨とか頸動脈とかを貫通する。多分死ぬ。いや、絶対死ぬ。
「当たりどころが悪かった。そういう事にしとこうかな。
あ、死後の裁きの結果報告は、実先輩を通してくれれば構わないよ」
「誰が……死、ぬか……」
必死さのあまりか、声は自然と喉からまろび出てきた。
死にたくねぇ。俺はまだ高校生だぞ。遊び足りない。勉強だって足りない。恋愛だってまだまともに出来てない。やってみたい事は星の数程思い浮かぶし、将来への希望だって捨てた訳じゃねぇ。死んだらどうなるんだろうか。決まってる。俺には一度臨死……というか、幽体離脱した経験がある。きっとあんな感じだ。流れていく人間達の日常を指をくわえて眺め続ける怨霊と化すのだ。
絶対に嫌だ。死にたくない、死んでたまるか。
……不思議な事が起こった。
少しずつだが、身体に力が戻り始める。さんざん足蹴にされた腕に、力が篭り始める。身体全体に麻酔を打ったかのような痺れが走る。脇腹の激痛が鈍くなっていく。死を拒否する強い意志によって新たな力に目覚めた……なんてファンタジーな展開が起こったとでも言うのだろうか。もしくは死ぬ前の風前の線香花火の最後の輝きか。いずれにしろ俺の意識は再び明確に戻り始めていた。自分の身体の事なんて碌に分かりはしないが、今気にするのはそんな事じゃねぇ。
「まさか……意識が戻ったのか!?」
「離、せ……デカ、ブツ……!」
突きつけた銃の引き金を引く学先輩。俺はその数瞬前にその手を弾いて、銃身を首脇に反らす。背後の窓ガラスが派手な音を立てて砕け散る。それを呆然と見ていた学先輩の隙をついて、俺は学先輩の銃を持っている手を両手で思い切り握りしめた。
「ぐぬぁ!」
大きくてごつごつした無骨なその手は、俺の握力によって無惨に複雑骨折をする。指の間から骨が皮膚を突き破り、ダラダラと血を滴らせている。
そして頭を掴む学先輩の腕を、脚を高く上げて蹴りつける。
咄嗟に手を離した学先輩は慌てて俺と距離をとる。俺は少しよろめくが、足腰は撃たれる前とさほど変わらない程の力が篭っている。学先輩は俺の顔を見、俺の腹を見、そして汗を垂らしながら、砕かれた右手を左手で押さえて、俺を睨みつける。
「血が止まってる……だと……?
そんな馬鹿な。あの傷の深さだぞ、治癒が早すぎる」
ブツブツと何か言っているが、俺の耳には届かない。心音がうるさい。耳の血管ですら脈が取れそうな程に激しい血流が身体を巡る。身体の感覚が鈍いのは相変わらずで、一歩一歩前に進むのにも意識しないと前に倒れてしまいそうだ。視界が赤い。血じゃない。赤みのあるものが目に入ってくる訳では無いのに、目の前が赤く眩しいのだ。信じられないくらい身体が熱くなる。石炭でも大量に喰ったみたいな程の灼熱を、自分の中で感じ取る。
一体何がどうなっているのか分からないが、今俺がすべき事は、そう多くないので、何も考えはしない。
「クソ、化け物が……!」
学先輩が左手で銃を構える。先程よりも銃身の短い、小さな短銃。デリンジャー、とか言ったか。しかし利き腕でない事が災いしてか、何度引き金を引いても俺の身体を捕らえはしない。目が冴えていた。学先輩の短銃がどこを狙っているか、いつ撃つのかまでもがハッキリと見えた。まるで学先輩の動きが緩慢に見えた。スローモーションで再生するかのようなトロさだった。重かった身体が軽くなってくる。段々と脚を速めて、俺は加速度的に学先輩に接近する。バン、バン、と銃声が虚しく響く。その音の一回の後、俺の右脚のあたりに違和感を覚えるが、俺は無視する。
「あ、当たったのに……今、当たったぞ!何で倒れないんだ!」
じれったかった。辺りに血が飛び散るのも構わず、俺は学先輩に突進する。学先輩は次第に恐怖に引き攣った顔を浮かべ始める。この人、ニヤけ面とキレ顔しか見た事無かったから、こうやって脅えるのは案外新鮮である。
その顔は何となく普通の高校生っぽくて、なんだか可笑しかった。
「そ、そうか……野田君。
僕はてっきり、君の身体は単に筋力や神経が並外れて優れているだけだと思っていたよ。
でも、それだけじゃない。君の身体は、アドレナリンまでも……」
脅えつつニヤける顔、と言うのは中々奇異なもので、穏やかで冷徹な学先輩には案外その表情は似合っていた。だからこそ俺は、憎き学先輩にふさわしいその顔面が許せなくて、思い切り振りかぶった拳を下から叩き付けてやった。
顎の肉を打つ感触、次いで、骨を砕く感触。
学先輩の身体が持ち上がる。自分の足を思い切り踏みしめる。そして、思い切り腕を押し上げる。顔面の形が変わる勢いのアッパーを受けた学先輩の身体が、ふわりと宙に飛び上がる。
まるで格闘ゲームのように飛んだデカブツの身体に、俺は追い討ちの飛び後ろ回し蹴りを打ち付けてやった。綺麗に踵が脇腹を捕らえ、学先輩の身体を病院の受付カウンターの方へ吹き飛ばす。受付の窓を破りながら、学先輩はカウンターの奥の壁に激突、そのまま倒れ伏した。
「……やったか?」
肩で息をしながら、俺はカウンターの向こう側を覗き込む。うつ伏せで倒れている学先輩は、俺が言うのもなんだが、随分と悲惨な姿をしていた。
右手は完全にグロ画像だ。骨とか腱とかが剥き出しで、実に痛々しい。うつ伏せなので顔面は窺えないが、顔から流血しているのは間違いない。身体はたまにピクリと痙攣するのだが、意識があるようにはとても思えなかった。
学先輩は意識不明で戦闘不能。彼にザオリクをかける輩もこの場には存在しない。つまり、俺の勝ちだ。
「まさか学先輩がこんなに危ない人だとはな……」
拳銃にナイフに、体格を活かした体術。喧嘩素人にふっかけるべき人種ではないというのに。本当に恐ろしい男だった。今後二度と顔を合わせたくない。割と本気で。辺りを見回す。病院の広いロビーの中だと言うのに、異様なまでに閑散としている。
完全に避難完了、と言った所か。全く、学先輩のせいで隠密行動が台無しだ。それに、今は目の前の障害をクリアした事に安堵している場合ではない。俺の本来の目的は打倒学先輩ではなく、桐生部長からの逃亡と、相川の奪還、というか誘拐だ。
腹と脚の二ヶ所に風穴が開いている人間が最優先でとるべき行動は医者の診察を受ける事だが、悠長にお医者さんから銃弾摘出手術を受けている暇はない。これまた不思議ではあるのだが、何故か撃たれた箇所からの出血は止まっている。足にも鈍い痛みが走っていたが、問題無く動く。
別に動けるなら問題はないだろう。あまりのんびりする時間はない。俺は相川の病室に向かう為に階段を駆け上がった。無視出来る痛みにまで回復している事に疑問を持ちながらも。