8−2 「……部長から、逃げ切ったんすか?」
前回の粗筋。
会議の資料を作り終えた野田は、帰り道で桐生へ失望をしていた。
そして自分の将来その他を案じた結果、退部の決意を固めるのだった。
翌日俺は律儀にも制服に身を包み、台風一過の様な清々しい昼前の日を浴びながら学校を目指していた。
昼飯時を多少は考慮してほしい正午ちょうどからの会議に、小さく折り畳まれた退部届けをポケットに突っ込んだ俺が遅刻せずに向かう必要が果たしてあるだろうか、とも考えたが部長にこれを渡す以上、結局学校には向かわなけりゃならんのだ。
ハードな日常を耐え抜いてきたこの身体も休息は必要な訳で、緊張で眠れない、なんて事態にならなかったのは不幸中の幸いと言えるかもしれない。道路のあちらこちらに出来た大きな水溜まりを避けながら、俺はこの通学路の町並みをしっかりと目に焼き付けていた。まるで死出の旅路のように。無意識的な行動であるが、縁起でもない話だ。自分のしている行為に気づいてからはすぐに視線を前だけに向けた。
俺の決意は確固たる物である筈だが、一つだけ気がかりがあった。間もなく我が部の一員となってしまう相川の事である。俺が部活を退部した所で、相川が新聞部に復帰出来る訳ではないし、助っ人部入りを止める事も出来ない。それらは相川の意志が決める事であって、俺が介入する余地は無い。俺には、俺の退部が彼女の心に何かしらの反響を起こしてくれる事を期待するしかできない。
俺の中の最大の懸念にして最大の無念は、その一点であった。
結局相川の事に関しては一切解決策が出ないまま、俺は通い始めてほんの数ヶ月の校舎にたどり着いた。こうして見ると感慨深い……とはとても言えないな。入学してからまだ百日と経ってないし。
早々に会議場となる大会議室に上がり込むと、そこには既に何人かが到着しており、会議までの数十分を各々適当な時間つぶしをして過ごしている。頬杖をついて携帯電話を弄る女子、一心不乱に弁当を書き込む男子、椅子の上で文字通り『おすわり』をしている犬……って言うかコイツ、大五郎か。こうして遠目で見ると誰もが普通の人々である。学校の昼休みとかで教室にいるような、そんな天才のての字も感じられない様な、ありふれた人達に見える。しかしその彼らこそが部長によってこの部に誘われた、結滞な天才達ばかりなのだ。
一体彼らが何者であるかは、結局一度も部員名簿に目を通す事の無かった俺が知る事はない。
そして今日が終われば彼らと関わる事は永遠に……
「……野田君」
「うひゃぁ!」
会議室の入り口で中の様子を窺っていた俺の背中を何かが突っついた。予期せぬ不意打ちに俺は素っ頓狂な声を上げて、室内の注目を一身に浴びる羽目になった。振り返った先にいたのは、随分と背の低い割にパンクロッカーみたいな緑色の髪の毛を生やした少年の様な学生だった。
「なんだ、実先輩か」
「なんだ、とはなんだい?先輩に対しての挨拶にしちゃ随分失礼じゃないか」
「そのキャベツみたいな色の頭はなんすか?」
「今日のラッキーカラー……って、一々失礼だな」
実先輩が目を細めて振り返った俺の腹にツッコミを繰り出す。肩の高さがその辺だから仕方ないとは言え、全く様にならない。俺達の漫才を不思議そうに見ていた部員達も次第に感心が薄れていったのか、再び各々の暇つぶしに戻っていく。
「今日は遅刻せずに済んだよ。先週はちょっとエロい目もとい、エラい目に遭ったからね」
「……何か聞こえたけどこの場はスルーしときますね。
先週は実先輩も何か罰を喰らったんすか?来る筈だったのに遅刻したんでしょ?」
まぁね、と舌先を出す実先輩。
小柄な少年っぽい可愛らしさにマッチしてしまうのが不思議だ。
「この戸を開けた瞬間に死を覚悟したけど、隼弥も混乱していたのかね。
その場は『出てけー!』の一言を喰らっただけで済んだけど、帰ってからが大変だった。
家に戦車が突っ込んできた時は流石に死を覚悟したね。
こう……僕は本を読んでいたんだけどさ。何かが窓を叩くんだよ。
何かと思って振り返ると、いきなり砲塔がガラスを突き破って飛び込んで来るんだ。
あの時は情けない事に泣きながら無我夢中で逃げ惑ったね」
「……よく生きて帰ってこれましたね」
荒唐無稽甚だしい話であるが、嘘ではないだろう。恐ろしくゾッとしない話である。
実先輩は調子を良くして、八重歯を輝かせながらウィンクしてみせる。はい、無駄に爽やか。
「ま、僕には宇宙に逃げるって選択肢もあるから、流石の隼弥も手が出せなかったようだけど。
終いには『帰って来て下さい』って文字と土下座してる地上絵書いてたしな。
流石の宇宙人達も苦笑を隠し切れない様子だったぜ」
「後半が電波過ぎるんですが」
電波な実先輩を無視しようかとも思ったが、いくら電波な言葉でも、決して聞き捨てならない言葉が含まれていた。俺は慌てて詳細を尋ねる。
「……部長から、逃げ切ったんすか?」
「ん?……まぁ、そうなるか。一応。丁度地球を通り過ぎるUFOがいて命拾いしたよ……。
アイツならスペースシャトルで追っかけてくると思ったけど、流石にシャトルそのものが無きゃ発射は不可能だからね」
俺の唖然とした顔を、実先輩はむしろ怪訝とした顔で見つめ返していた。
「なんか僕、変な事言ったかな?」
「……それ、ツッコミ待ち?」
「バレたか。流石の隼弥もNASAまでは手中に収めきっていないらしい」
「そっちじゃなくて……いや、もういいっす」
ツッコミを入れるとツッコミどころが増えると言うねずみ講。
俺はそれを察知し、実先輩の話を詳しく聞く事を止めた。いくら俺がこれから部長に追われるかもしれない立場にあっても、俺にはそんな未知との接触による逃走は不可能だし。
俺の口から自然と漏れていた溜息をどう解釈したのか、実先輩はまた笑顔を浮かべた。
「いくら隼弥と言っても、アイツの手の届かない所は沢山あるのさ。
ま、君もアイツから逃げたいんなら、そう言う所を探すと良いよ」
「……え!?」
「ん?どうかしたん?」
「べ、別に何も」
「そっか。んじゃ、頑張ってね。
応援してるよ。……少なくとも僕は、ね。
……お、カッちゃん来てるんだ。感心感心、じゃ、また後でね」
ガキっぽい生意気な笑顔からは、彼のその真意は掴めない。
まるで俺のこれからの行動を見透かしているかの如く言葉を放った実先輩は、冷や汗をかいている俺の脇を通り過ぎて、会議室内の部員達に声をかけに行く。実先輩は古参らしい顔の広さで、彼ら全員と知り合いらしく、楽しげにお喋りを始めていた。
「手の届かない所ねぇ……?」
実先輩は宇宙という領域にまで知己を拡大しているから平然とそんな事を言ってのけるが、身体能力以外は純度十割パンピーの俺がたどり着けて且つあの暴君の手の及んでいない場所なんておよそ思いつかない。
一縷の希望とも思える言葉だったが、俺にしてみればそれは、お絵描きが嫌いな園児が描いた餅にすら見えない程曖昧な形に歪んだ餅でしかないのだ。同じ絵に描いた餅であっても、せめて涎が垂れる程度に上手く描いた餅でなければ、俺の逃亡は到底成功しない。
何だか時間が経つに連れて外堀が埋まっていく気がするが、それでもしかし、俺は未だに退部の決意を緩めてはいなかった。半ば自暴自棄なのかもしれないが、それを自己分析出来る程冷静なら逃走経路の一つでも考える方に労力を回す。
手近な席に腰掛けて、俺は自分の脳内の町の地図に様々な備考を書き込む作業を、部長が会議室に訪れるまで止める事はなかった。