7−9 「私、今日帰りたくないな……」
前回の粗筋。
泣き出した木下の口から語られる、天才故の苦しみと悲しみ。
野田はそれに衝撃を受けながらも、どうしてもそれを肯定出来ないでいた。
天才だって普通に生きていく道はある。野田の意見は変わらない。
茶香子の化学の授業が終わったのは、午後十時を回ったくらいの時間だった。正確には終了ではなく、中断だったけど。
「もうそろそろお帰りなさい。
お母さんも心配してるでしょうし」
台所から顔を覗かせたお袋がそう言ってくれなければ、俺は朝まで延々と鉛筆が禿びていくかの如く様相で肩を細くしていなければならなかったかもしれない。
って言うかまだそこにいたのか、お袋。諦めろよ。
ともあれ、その一言によって茶香子は渋々ながらも帰り支度を整え始めたので、俺に取っては万々歳な自体に変わりない。外は未だに雨が降り、月は完全に隠れてしまっていて、道を街灯が細々と照らすだけだ。女の子を一人こんな道を帰らせるのはあまりに薄情なんで、俺が家まで送る事になった。雨が降りしきる帰り道すがら、アスファルトの水たまりに気をつけながら、俺達は二人並んで傘を差して歩いている。
そして俺の馬鹿さを咎められる事はなかったが、代わりにもっと答えにくい会話が始まってしまった。
「本当はもっと居たかったんだけどな。識君の家に」
「……それは、どうして?」
「親に心配されたいから……って言ったら、おかしい?
さっきあんな事言ってたのにね、私」
「いや、おかしくはないさ。でも残念に思った」
実はちょっとときめいていたのは秘密である。
「ま、多分無理だけどね。識君の家で晩御飯食べていくなんて連絡、本当は入れてないもん」
「何?お前それじゃ」
「私は見舞いに行ったまま、現在行方不明って訳。なのに電話の一本も無し。
ホント、なんなんだろうね、うちの家族ってさ」
傘を回しながら苦笑する茶香子に、俺がかけるべき言葉なんて果たしてあるのだろうか。黙って悩んでいると、茶香子が不意にこちらを向いた。
「私、今日帰りたくないな……」
薄暗い街灯に照らされてかろうじて窺える彼女の微笑に、俺はどことなく薄っぺらい印象を受けた。踏めば割れる薄氷みたいに脆いその微笑みに深く切り込んでいくには、俺には勇気が足りなさ過ぎる。
……色々と勘違いしてしまいそうな言葉の方は、声色からは冗談とも本気とも判断がつかない。いや、多分本気で言っている。だがそこに深い意味はないのだ、茶香子の場合は。本気でただ家に帰るのが嫌なだけなのだろう、きっと。
「そうすりゃまた親が叱ってくれるかも知れないからか?」
「……うん。昨日みたいに、さ。
昨日の今日でもしかしたらって思ったんだけどなぁ……」
「あんまり心配かけてやるなよ
母さん、泣くぜ」
「いっそ泣いてくれた方がどれだけ良いか……」
俺は今日の昼間、茶香子の母親との会話を思い出していた。
彼女は身体を震わせながらも、娘を愛しているとハッキリ言った。あの言葉に偽りは無い筈と、俺は信じていた。
「お前の母さんも、悩んでたよ。
いつまでも昔の事を引きずってる自分に苦しんでた。
本当はお前の事愛してるって、言ってた。
ただちょっと心が不器用なだけなんだよ、多分。
だから、もうちょっとの間でいいから、母さんを信用してやってみてくれ」
「……ふふ、何かおかしい。
なんで識君が母さんをかばってるのに、私は親が許せないでいるんだろ」
「なんでだろうな。でもさ……茶香子は母さんが嫌いなのか?」
俺は今まで、どうしてそれを聞かなかったのか不思議な位、根本的な問題を問うた。茶香子はあっさりと、当然のように即答してくれた。
「本気で嫌ってたら、もう家出してるって。それか蜂の巣?」
「後者は絶っ対止めとけよ!」
「冗談だよぅ……。でも本当に、嫌いな訳じゃないんだ。
ううん、本当は今でもお母さんもお父さんも大好きです」
「そっか。うん、良かったよ」
茶香子の笑顔からは先程の薄っぺらさは見て取れなかった。
きっと茶香子と彼女の親との溝は、茶香子が思う程深くないんだろう。お互いが嫌い合っている訳じゃないんだから、いつかそのうち、それこそ何年先かは分からないけど元に戻る日が来る。
俺が茶香子にしてやれるのは、茶香子を諦めさせない事だ。やる事が明確って言うのは、随分気が楽だね。肩の荷が下りた気分だ。なんて思ってたら間もなく本当に肩の荷が下りる時が来るようだった。
いつの間にやら茶香子の家の門の前まで到着していた。茶香子は玄関先まで少し駆けていく。俺は門の前から動かずに、そのまま突っ立っている。先程より距離が離れて雨が傘を叩く音が五月蝿い中で、茶香子の小声は少し聞き取り辛かった。
「んじゃ、また明日。今日みたいな遅刻は絶対厳禁だからね。
桐生さんに酷い目に遭わされたくなかったら」
「お互いな」
「そ、それもそうですね……あと、今日はありがとう。
色々ゴメンね、愚痴ばっか聞かせちゃって」
「気にしてねぇよ。機嫌の悪い日ってのはあるもんだ」
女の子だから特にな、とか言ったら殺されるかな。……殺されるな。黙っておこう。その代わりになる一言は案外あっさり思いついた。
「俺の方こそ、勉強教えてくれてありがとよ。また頼むわ。
今日は茶香子と一緒に居れて……た、楽しかったぜ」
「え……?」
「んじゃ、またな!」
去り際ならこうした歯の浮く様な台詞が言える程度には、俺も成長しているようだ。顔が熱いが、それでも俺は十分頑張った方だろう。茶香子が玄関先で未だに惚けているのを尻目に、俺は今来た道を少し早足で歩き始めた。