7−8 「もし天の神様って言うのが居て、この世界を作ったって言うなら……」
前回の粗筋。
即席女子高生家庭教師へと肩書きを変えた木下は、野田の家で彼の勉強を見てやる事に。勉強中、野田の母親が顔を出し、木下に夕飯をご馳走すると申し出る。初めは断ったが、おばちゃんパワーに押されて、野田家で夕食を摂る事に。穏やかで、かつ騒がしい食卓の中で、木下は突如涙を流し始めた。
茶香子が完全に泣き止むまで、約十五分程も時間を要した。
冷めた飯を一先ず胃の中に掻き込んだ後、俺はちゃぶ台を拭いて再び勉強の用意をしていた。泣き止んだ後で洗面所で顔を洗いに行っていた茶香子だったが、俯き加減で目の辺りを手で隠している。よっぽど泣き腫れが酷いのだろうか。
「目、大丈夫か?」
「ちょっと痛いけど平気。ごめんね、何かお騒がせしちゃって。識君のお母さんは?」
「台所」
お袋は未だに自分の料理に原因があると考えたのか、台所で料理の試行錯誤を繰り返している。これ以上弄った所で、もう何年も作り続けている飯の味が急に変わるとも思えない。むしろ変わってしまったら俺も親父も落ち着かないだろう。無駄な努力をせいぜい続けた後に原点回帰してほしいもんだ。
俺の指差した台所の方を少し眺めた後、茶香子が俺の勉強道具を見てから自分の頬を叩き、気合いを入れ直した。
「さ、勉強再開しなきゃね」
「いや、それよりお前の方だろ」
「ん?私の勉強?」
「……分かって言ってやがんな?何で泣いたんだって訊いたんだ」
「それは……」
「それは?」
「……羨ましかったから」
茶香子が再び泣きそうな顔で俯く。
羨ましかった……と言われても、何がだろうか。飯が上手くて羨ましい、なんてのはまず無いだろう。となれば、お袋だろうか。感激のあまり涙してしまう程お袋が気に入ったのだろうか。
「あんなお袋でよければいつでも貸し出し可能だぜ。
お袋本人も喜ぶだろう。生粋のお喋りだから、お前ん家の母さんとも……」
「本当に!?」
まさか食いついてくるとは思わなかった。冗談九割くらいの気持ちで言ったんだけど。茶香子も俺の驚きの表情を見てそれを悟ったらしい。額をちゃぶ台に付けて、溜め息をつく。
「……だよね。無理だよね」
「そんなにお袋が気に入ったのか?
茶香子ん家の母さんも良い人……」
そこまで言ってから俺は今日の出来事を思い出す。
今日俺はあの人と話をして、どう感じただろうか。最初に抱いた印象は物静かなマダムであったが、最終的な俺の印象はとても良いとは言えない。娘にいってらっしゃいの一言も言わずに奥に引っ込んだあの母親と、例えば俺の家の母親は果たして気が合うだろうか。俺のお袋でも説教かましちまうだろう、多分。
そして俺は気がつく。羨ましい、と言うのはつまり、俺のお袋と俺が軽口利いて喋くるのが羨ましいと言う事ではないか?茶香子の家の親子仲は、今日のやり取りを見ただけでもどの程度冷えているかが分かる。
茶香子も、言葉を途中で留めた俺の胸中を察したようだった。
「……私の母さんも、昔は優しかったんだよ?
ううん、今だって優しい母さんなの。ただ、少し怖がりなだけなんです。
だから、あんまり母さんを悪く言わないであげてね」
「でも、それで良いのか茶香子は?寂しくないのか?」
「寂しくない訳ないじゃん」
漫画をちゃぶ台の下から取り出して、読みながら茶香子は何でもない様に吐き捨てた。まるで感情を押し殺すのにすら慣れたとでも言いたげな様子で。
「本当はもっと構ってほしいけど、もういいの」
「もういいって、なんだよ」
「今日、識君の前で……家族以外の人の前でも、母さんの態度は変わらなかった。
それを見て、これから先どれだけ時間がかかっても、もう私達の関係は直らないって確信しました。
もう私の家は終わってしまったのよ。……本当はあの事件の日からもう終わっていたんだろうけど。
ただ、私が諦めたくなかっただけなんです。
また昔みたいに、親子で仲良く暮らせるって思ってたけど……もういい」
「そんな事言うなよ。昨日は本気で叱られたんだろ?
お前の両親もお前の事は心配なんだよ」
「……だったら何で今日は駄目なの?本当は……今日も優しくしてほしかったよ。
昨日は優しくて、今日は冷たくて……私は何時まで振り回されなきゃいけないの?」
「でも、諦めなきゃそのうちに」
「識君に何が分かるのよ!
こんなに良いお母さんが居て、家族にないがしろにされた事なんてない癖に!
私の……私の家の、何が分かるって言うのよ!」
漫画本は投擲武器ではない、と言う事を誰か茶香子に教えておくべきだ。咄嗟の反射行動で首を横に反らせた為、飛んで来た漫画本の直撃は免れた。俺の背後で、漫画が襖に当たって音を立てて開く。
正面で顔を赤くしている茶香子が、少し晴れた瞼の上の眉を急角度に吊り上げていた。おざなりな返事を返した事は謝らなければならない。
「……すまん。ちょっと軽はずみだった」
「いいの。もう、いいのよ。
私はそう言う星の下に生まれてきたんだよ、きっと」
茶香子は十年近くも諦めなかった。人生の半分も、頑張って両親との不和に耐えてきたんだ。諦めなきゃ、なんて言葉はもう手遅れなのかもしれない。茶香子は、科学的思想に傾倒している彼女にしては随分と信心深い話を続ける。
「もし天の神様って言うのが居て、この世界を作ったって言うなら……。
きっと神様はこの世界に、才能そのものが不幸を招くような仕組みを作ったんだと思う。
だから、才能に恵まれる事が幸せそのものに繋がる事はない。
そうじゃなきゃ、人間皆平等、なんて口が裂けても言えないよ」
勿論、今のは茶香子の信じる考え方でしかなくて、俺が信じる訳もない。
しかし反論が咄嗟に思い浮かばないのは、きっとさっきから脳裏にちらつく金髪チビのせいなのだろう。桐生部長も茶香子も、辛い目に遭っているのは自分の才能のせいだと言う。実際才能を持って生まれなければ、二人の過去の事件も、起こりはしなかっただろう。
でも、一つ例外がある事を俺は知っている。
「俺は自分が不幸な目に遭ってる、なんて思ってねぇ」
「……でも、その学力の低さは不幸だよ」
「なんだと」
同じ様な事を散々言われてきたが、真顔で言われるのが一番傷つく。
って言うか今そう言うギャグっぽい場面じゃねぇから。少しだけ和んでしまった空気を転機に、茶香子は話題をすり替えた。
「私には、もうお父さんもお母さんも必要無いしね。
高校を卒業すれば私は就職するから、それっきり。食い扶持に困る事は有り得ないって自負してる。
一人で自由に生活費を稼いで、一人で自由に暮らしてやるわ。もう実家に帰る事もないでしょう」
「……本当に、それで良いのか?」
「良いとか悪いとか、そういう次元の話じゃないんです。
選択肢が無いんだから、限られた選択でも自分が好きで選んだって思わなきゃ。
それに、今は識君や部長が……みんなが居るから寂しくないしね」
茶香子の言葉に俺は少し心臓が跳ねたのを感じた。
別に恋愛的な意味の動悸ではなく、昨日の部長の言葉を思い出していたのだ。同類は同類同士で集団を作っていけば、その中で誰憚る事無く生きていける。部長はそう言っていた。茶香子も、ひょっとして口には出してなくても、そう思っているのだろうか?
俺は慌てて茶香子に尋ねる。
「それって、相川とか剛志も含めてって事だよな!?」
「んー……どうだろ?真見ちゃんも二宮君も、いい友達だよ」
「そ、そうだよな。良かった」
「だけど、なんて言えば良いのかな。識君とか桐生さんとは、また少し違うんだよね」
俺は今、どんな顔をしているのだろう。きっと安心した直後に聞いた一言に、狼狽と驚愕を足して二で割った様な、困惑した表情を浮かべているに違いない。
「真見ちゃんとか二宮君とは、一緒に居ると楽しいお友達だって思うよ?
でも、識君とか桐生さんと一緒に居ると、安心するんだよね。
私はここに居てもいいんだって思うと、凄く落ち着く。識君もそうじゃない?」
「あ、いや、俺は……」
ここでそうだって首を振る事は別におかしな事じゃないのかも知れない。茶香子や部長だってそうなら、俺だってそうなのかも知れないじゃないか。
しかし部長の住む部室で漫画読んだり、茶香子と一緒に車弄ったりしていた時、俺は本当に落ち着けていたのだろうか。
どうして俺は素直に首を縦に振れないのだろうか。こんな疑問が湧いて来るんだろうか。
心の底で拒否する俺の一部は、何を意固地になっているのだろうか。
……よくよく考えるまでもない話だ。俺の幼い頃からの生活を考えれば、本当に悩む価値すらない程に。
「俺は、お前や部長の近くに居ると落ち着かないよ」
「え?」
「俺は剛志とか相川とかと一緒に居ても、別に気兼ねはないね。
むしろ、茶香子とか学先輩とか、実先輩と一緒の方が、よっぽど緊張するよ」
「な、なんで?」
茶香子は心底不思議そうな顔をしている。
自分の中の常識を崩されてしまえば、そりゃ驚くだろう。でも、それは自分の中での定義でしかなくて、俺の中の定義と茶香子の中の定義は全く別の理論なんだ。だから人の勝手だ。俺は俺の考えを述べるしかない。
「俺は桐生部長とかお前とは違う育ち方をしたんだ。
部長みたいに孤独に生きてきた訳でもないし、茶香子みたいに衝撃的な事件が起こった訳でもない。
起こりそうになった事はあるけど、俺の親がなんとか留めてくれたし、俺自身も厄介は避けて生きてきた。
つまり俺は才能を持って生まれはしたけど、今の今まで平凡な生活ってのを送ってこれたんだよ。
だから助っ人部みたいに、普段では見かけないような人達と居ると、どうも落ち着けないんだな」
「…………でも識君は、普通の人とは違うでしょ?」
「前に話さなかったか?お前の思う普通ってのは、本当にこの世にあるのかどうかって。
普通と異常の線引きをする事それ自体が間違っているんだと、俺は思うぜ」
「識君は……識君こそ、本当にそれで良いの?」
逆にそうやって聞かれるとは予想外であった。
「それで良いってのは、今の会話のどの部分に掛かってくるんだ?」
「識君は、そのまま普通に生活を送っていけるの?
今まで言わなかったけど、私、知ってるんだよ?
野田君が火曜日の放課後、サッカー部の部室で大暴れしてたって事」
茶香子の言葉が耳に届いた瞬間に、俺は自分の血の気が引いて顔が青くなるのが自分でも分かった。
あの事件は部長が完全に隠蔽していた筈だ。誰に聞いても『何の事?』って返される程の完璧な隠蔽を行なったと言ったのは、あの部長に他ならない。どうして茶香子がそれを知る事が出来るのだろうか。
「……昨日、学先輩から電話で聞いたの。会議の連絡と一緒にね」
「あのデカブツめ……」
木曜日に結構ひどい仕打ちしちまったからな。もしかしたらそれの意趣返しのつもりかもしれない。
そして、学先輩は当然のようにその事件を知ってるらしい。流石、部長とのパイプは太い訳だ。
「あんまり詳しくは話してくれなかったけど、大体は聞いた。
原因は分からないけど、サッカー部の人と他校の生徒を病院送りにした……って」
「……そうだな。間違いなく、その通りだ」
事件の発端となった俺のブチ切れの理由は、桐生部長にすら話していない。しかし事件の内容は、それこそ動機以外の全てを、桐生部長は俺以上に把握している。学先輩にそっくり話したのだとしたら、恐らく茶香子もかなり細かく事情を知っているだろう。
「無事で良かったとは思うけど……識君、分かってないよ。
プロのボクサーが人を殴っちゃいけない理由を知ってる?拳が凶器だからだよ。
プロの人達はその事を十分に自覚して、腹を立てても手を出さない事を教え込まれる。
手を出してしまえば、職業のライセンスすら無くなっちゃう。
だからあの人達は手を出さない事に必死になれる。
……識君のパンチは、そこらのボクサーの比じゃない。
識君が本気で人を殴ったら、当たりどころが悪ければ多分本当に死んじゃう。
だからもし頭にきても、殴り合いの喧嘩なんてしちゃいけない筈なの。
でも識君には、その事を自覚させるだけの出来事が今までなかった。
今回は桐生さんがいてくれたから良かったけど、同じ事が起こらないって保証出来るの?
もしまた腹が立てて人を殴ったら、今度は本当に殺人犯になっちゃうよ」
「……だったら死ぬまでグローブでもつけてっか」
「真面目に聞いてよ!」
茶香子がちゃぶ台を両平手で叩く。台所のお袋まで聞こえると思ったが、その様子は無い。
茶香子は勘違いしているようだが、俺としては至って真面目だ。真面目に聞いてこんな態度をとっているのだ。俺自身でも、まだその答えが出ている訳では無いのだ。普通の人とはちょっと違う特異な人々が、普通に生活していけるのかどうか、と言う問いに対して。問いを出されたのはもう随分と前……松井先輩との会話の中であったが、今でも俺の答えは決まっていない。しかし分からないから、と言ってその場しのぎに茶香子の意見に同意するのは嫌だった。一度でも妥協してしまえば、きっと俺はその答えに引きずられてしまう。
俺は才能の壁を信じる訳にはいかない。俺にだって夢があるし、その夢は才能が敷いた未来へのレール上には乗っからないんだ。だから、自分の才能に溺れて諾々と生きていく事はイコール夢を諦める事と同義であると俺は思っている。
それにだ。大体、才能の有無で人との絆に諦めをつけるのは最低の行為だ。勉強出来る奴としか、運動出来る奴としか仲良くならない、なんて事を堂々と口にする奴を考えてみれば良い。そんな奴はこっちから願い下げだ、馬鹿野郎。
剛志とは昔からの親友だし、相川とは今まではともかくこれからは仲良くやっていける……と思うし、松井先輩の事は心底応援している。ちょっと運動神経が発達しているからってそいつらとの関係を断絶しろ、なんて言われたら、俺はそんな事を言った馬鹿に反論をせざるを得ない。
「じゃ、剛志や相川と関わっちゃいけないってのか、お前」
「べ、別にそこまでは言ってないよ」
「そう言う事を言ったんだよ、茶香子。今言った言葉はつまりそう言う意味だ。
俺が剛志と取っ組み合いした事あるだろ、つい最近。
つまり、ああ言う事が起こってしまうのを避けるために、その人との付き合いを止めろって。
今お前はそう言ったんだ」
「そんなつもりは……」
項垂れて声が段々と萎んでいく茶香子は、しかしまだ必死に反論を考えているようだった。
俺はもう化学の例題なんて頭の片隅にも残っていなかった。シャープペンシルは未だに手の中にあるし、教科書もノートも開きっぱなしだったし、今も目で例題を追っているし、手は問題を解き進めているが、何も頭に入ってこないし、入れようともしていない。何か無意味な事でもやって気を紛らわせなければ、腹が立ってしまいそうだったのだ。
「識君は、これからもやっていけるの?二宮君や、真見ちゃん達と……」
「……今までだって友達付き合いしてきたんだ。当たり前だろ。
あんまり深く考える事じゃないんだよ。それより、今は勉強の方が大事だ。
ほれ、とっくに出来てんだぜ。さっさと採点頼む」
「…………分かった」
目の前に突きつけられた紙をどける事なく茶香子は、渋々と言った様子で了承の言葉を返す。
顔色こそ窺えないものの、閉口しているその様子から声も出ない程驚いていると言った所か。どうやら俺の解答の正確さに驚愕しているらしい、なんて甘い考えが出来るのはこの馬鹿な脳味噌ならではである。
「この短時間で、俺は急速に学力を伸ばしている。
馬鹿が不幸なんてチャンチャラおかしな理論なんて俺が」
「……ねぇ、識君」
「ん?」
「ちょっと正座してくれないかな。いや……正座しなさい」
自信満々で提出したルーズリーフに、赤で大量のバッテンがついていく様はある意味清々しいものを感じた。そして茶香子の顔が先程とは違う意味合いで難色を示していた。
既に先程の話題は完全に流されて、今茶香子が機関銃の如き口から放たれる言葉は俺への怒りと苛立ちに溢れている。これはもう暫く化学の教科書に向き合う羽目になりそうだ。茶香子の、お袋に匹敵するレベルの説教をかまされつつ、俺はひたすら肩を窄めるばかりだった。