7−6 「……………これは重症だ」
前回の粗筋。
桐生と母親が一緒に居る、という事を聞き、不安を覚える相川。彼女を安心させるべく、木下がとった行動は、桐生への電話だった。桐生の態度を見て相川も一先ずは落ち着き、野田に謝罪をする。一方の野田も、彼女と喧嘩していた事を思い出し、二人は握手を交わして和解した。
落ちかけた日を覆い隠す厚い雲達と、未だ地面への捨て身の特攻を止めない豪雨によって、今は夏場の夕暮れ時であるにも関わらず、視界が悪くなる程外は暗かった。病院を経由して俺達の町へ向かうバスの中には、同じく見舞い帰りの客が座っているが数は疎らだ。一番後ろに陣取った俺と茶香子は、水を払った傘を前の空席の背もたれに引っ掛けて、発車をしばし待つ事になった。
「……真見ちゃん、案外元気そうだったね」
「本当にな」
「二宮君、まだ居る気なのかな。
もう五時過ぎだし、サッカー部の練習もあったでしょうに。大会、近いんでしょ?」
「この雨じゃ、大した練習は出来ないだろ。
……いや、でもサッカー部には室内練習場もあったな」
「サボってまで来たのかな、二宮君」
バスに叩き付ける耳障りな雨音のせいで、近くに居る茶香子の声すら聞き取り辛い。
こう雨が強いと、なんでだろうか。何故か気持ちも落ち着きっぱなしでテンションが上がらない。茶香子もそれは同じであるようで、喋っている内容の割には言葉に覇気がない。お互い暫く黙った後で、今度は俺が口を開く。
「腹、減ったなぁ」
「うん。私も」
「…………」
会話、再び終了。
今のはそのまま『どこかで飯でも一緒にを食おうぜ』って言いたかったんだけど、今の俺にそんな金の余裕無いんだったっけ。だから漏れるのは溜め息ばかりだ。溜め息をすると幸せが逃げるって言うけど、それはきっと逆で、幸せが逃げるから溜め息が漏れるんじゃないかな。
こんな話を今茶香子に振っても、返事はきっと返ってこない。
相川一家誘拐事件は一応の解決をみたし、相川との和解も無事果たした。そして俺の心は何故か妙に疲弊していた。
ここ数日、具体的にはここ一週間、色々な事があり過ぎた。
先週の土曜日の思い出すのも面倒な程名前の長いテニス大会に始まって、日曜日の会議と呼べないような会議とバイクでの逃亡劇。月曜日は相川に取材を受けて、テニス部の部長の松井先輩と飯を食いに行って、才能の事で重い話をしたっけ。火曜日にはサッカー部で殴り合いの喧嘩をして、相川とも喧嘩して、茶香子の昔の話を聞いて……茶香子と一緒に徹夜で車の修理をした。水曜日には剛志と取っ組み合いをして、昔の遊びをして遂に負かされてしまった。木曜日には相川が行方不明になっちまったのを発端に、実先輩とか大五郎とかに助けられながら、また徹夜で相川を探した。昨日は朝から部長と重苦しい話をして、執行猶予をつけられて、そのままお袋から説教され通し。んで今日は茶香子の母親に説教を垂れて、相川の見舞いでも病院内だっつーのにバタバタしちまった。
事件が無い日が無かったこの一週間の疲れを快復するには、今日の昼過ぎまでの睡眠では足りなかったようだ。こんな忙しい一週間を送ったのは、世界で俺一人くらいなもんだろう。
「ま、ここから先は結構のんびりできるだろう」
「いや、でも明日は部活の会議ですよ?」
「部活の……会議ってなんだ」
「先週の日曜日、殆ど人が集まらなかったじゃない?
だから会議やり直すって、学先輩からその日の内に電話が来てたでしょ?
電話に出たのは識君なのに」
日曜日の記憶を必死で引きずり出す。
……バイクで逃げる直前辺りに、電話が来てた気がしないでもないけど。本当にやるのかよ畜生。明日こそはのんびり眠ろうと思ってたのに。今日も十分寝たけど、まだ寝足りないんだよ、俺は。
「昨日私の所に学先輩から確認の電話が来たよ。明日のお昼に大会議室だって。
来ないと絶対にお仕置きするって言うしね。識君も執行猶予中でしょ」
「行かないって選択はない、か……」
執行猶予ってのは案外難儀なものだ。事実上の前科者だから贅沢は言えないけど。
しかし、日曜日の会議ってのも大したもんじゃないだろう。どうせ部長の独演会になるのは目に見えている。適当に聞き流しとけばいいや。昼に始まって、三時くらいに終われば、そっからまたぐうたら出来る。なら良いか、と勝手に安心していると茶香子は更なる追い討ちを俺にかける。
「それに、もうじきテストですよ?ヤダなぁ」
「それは言わないでほしかった」
俺にしてみればこの一週間の事件よりもよっぽど胃に悪い大事件がすぐそこまで迫ってきていた。
忙しさにかこつけて、家でまともに勉強なんてした記憶なんて全くと言って良い程無い。確か再来週だったか。そろそろ現実を見据えて真面目に勉強始めないとマジで留年を覚悟する必要になる時期だ。赤点だらけのテストを持ち帰れば、お袋と親父に何をされるか分かったもんじゃないし。何となく順調に進んでいるかのように見えるこの学生生活を頓挫させる訳にはいかない。
「中間テストは何科目あったっけ。現国、古典、数学二種、英語二種、化学、物理に世界史と倫理。
中学校のころからは考えらんないくらいいっぱいあるよね」
「あああぁぁぁ……もう言わないでくれよ……」
「……来週まるまる一週間あるけど、もう七日しかないのかぁ。
うわ、一日一科目じゃ間に合わないんだね」
「おいばかやめろ」
「私は理数系と英語科目は勉強の必要無いか。
あとは古典と世界史さえ無ければ……うぅん」
「お前は俺を虐めて楽しいのかよ」
茶香子は俺が頭を抱えているのを見て、ニヤけながらテストの話をしてくる。潜在的にサディストだった事は今までの言動やキレた時の性格から何となく予想は出来ていた。しかし俺にその話をするのはSとかMとかそう言う次元を超えた、根源的苦痛を叩き付ける事でしかないのだ。
ちょっと涙目な俺を見て、流石に茶香子も反省したらしい。
「ご、ごめん。まさかそこまで落ち込むとは」
「俺の頭の悪さを舐めない方が良いぞ……」
「かっこつける事じゃないって。うぅんと、じゃぁ試しに問題出してみよっか」
「あぁ、頼む。
これでも普段から何とか自力でやる努力はしてるんだ。
簡単なのなら、多分行ける筈」
「お?そりゃ期待してもいいのかな?
……ま、とりあえず超簡単な化学の問題から。炭素の原子番号は?」
「……12、だっけ」
「あぁ、ちょっと違うな……聞き間違いかな?
じゃぁ、酸素の原子量」
「すいへーりーべーぼくのふね……だから……。
16の倍だから、32か」
「なぁんか微妙にずれて覚えてるみたいだね。しかも自信満々で。
……よし、違う問題にしよう。これも簡単なのだから。数学です。
(X+5)(X+1)を展開すると?」
「えぇっと……」
「……………………」
「……………………」
「……………これは重症だ」
茶香子はフリーズしている俺を見て、額に皺を寄せた。
畜生、俺だって紙に書いてゆっくりやればちょっと時間かかるけど出来るわ。多分。頭の中で展開していると段々分からなくなって来るんだよ、アレ。なんて言い訳する気も起きないほど、茶香子は俺に容赦ない不躾な視線を突き刺す。
「……重症って言うな。生まれつきだ」
「でも、それをテストでも言い訳に出来るの?」
「出来ないよな。これから暫く徹夜か……」
テスト前に睡眠不足でぶっ倒れる寸前くらいまで連日徹夜をするのは中学の頃から慣れている。でもアレは毎回テスト前一ヶ月くらいから綿密に体調を整える必要がある。プロアスリート並みの厳重な体力管理の果てに実行可能な最終奥義なのだ。今回はあまり余裕がないが、何とか発動条件を整えるしかあるまい。
「そこはテストにこそ万全な体調で臨もうよ!?」
「テスト前日はちゃんと寝るさ。お袋みたいな事言うな」
「お母さんじゃなくても言うよ、そんな無茶したら」
「中学校の頃からやっているけど、そこそこ成果が上がっているんだ」
「どれくらい?」
「一度だけ最下位を免れた事がある」
「……それで凄いって言うのもどうかと思うけど、まぁ、識君にとっては良い方か」
「まぁ、最下位はテストの日にインフルエンザで休んだ奴だったけどな。
ちなみの俺はブービーだった」
「事実上の最下位だから、それ!」
バスの乗客が俺達の騒がしさに訝しげな目を向けているのも憚らず、茶香子は声を荒げて立ち上がる。俺が周りに目を向けて頭を下げているのを見て、茶香子は少し顔を赤らめて腰を下ろしてくれた。
「とにかく……!ちゃんと進級出来るの?」
「剛志にも言われたよ、それ。
神のみぞ知るってかとこかな、ははは」
「笑顔が引き攣ってるよ」
「……ぶっちゃけ超不安です」
「顔が土気色になんだけど……よし、決めた」
茶香子は拳を胸の前で固く握りしめた。
嫌な予感というものは、良い事が起こる予感よりも遥かに当たりやすい。良い事の前兆より、悪い事の前兆の方が見つけやすいからだ。今のは少しだけ良い事か悪い事かの判断がつきにくいけど、嫌な予感だと俺が直感したなら、それは嫌な予感なのだろう。
「私が勉強教えてあげよう。理数限定だけど」
恐らく我が校の理数系教師より頭が回るであろうインスタント女教師の誕生であった。