7−5 「俺はお前と仲直りしたいからよ……いいか?」
前回の粗筋。
雨に振られつつも相川の見舞いの為に病院にやってきた野田と木下。既に二宮は病室にいて、相川は眠りについていた。そしてその入院経緯から病室の冷蔵庫に至るまで、桐生の言う『アフターケア』が行き届いていたのだった。
ひょっこり顔半分を覗かせてこちらの様子を窺う相川は、まだ状況がわかっていないらしい。
「この馬鹿野郎。木下さんもだぜ」
「ご、ごめんなさい、つい……」
剛志に割とマジで叱られた俺達は、大人しく椅子に腰を下ろした。俺と茶香子の顔を交互に見つめ、相川はようやく意識を覚醒させた。
「……あれ?シッキーとサカちゃん?」
「よぉ、起こしちゃってすまんな」
「おはよ、真見ちゃん。いや、もう昼過ぎだから、おそよう、かな?」
暫く目をパチパチさせてから、相川は何かを探すように周りをキョロキョロと見渡し、そして舌足らずな囁く様な声で言う。
「お母さんは?」
「真見の母さんなら、ちょっと前に帰ったよ。
店の修繕とかの打ち合わせを、桐生先輩とするんだとよ」
「え……き、桐生さんと!?」
相川が身を乗り出して、剛志の胸倉に掴み掛かった。俺は慌てて割って入り、相川の手を剛志から剥がす。
「大丈夫だ。もうあんな事はしないって、部長も言ってた」
「そ、そんな事言ったって……」
相川は手を震わせて、脅えた目を俺に向けた。また部長に母親が攫われるのではと、きっと不安になっているのだろう。俺達がどれだけ大丈夫だと言った所で、彼女の不安が取り除けるかどうかは分からない。
俺達だって100%大丈夫だなんて言い切れないんだから。あの腹の底の知れない部長が相手で100%なんて言葉は存在しないのだ。
しかし、このまま相川を説得出来ないままでは、相川は病院から逃げ出そうとするかもしれない。部長から逃げ延びた相川の逃走技術には、俺達の捜索能力なんて何の意味も為さないだろう。どうすればいいかと悩んでいると、隣に居る茶香子に相談しようと思った時。
茶香子は携帯電話を弄っていた。
「……どうした?」
「桐生さんに電話する」
「おい、ここ病院だぞ?」
「でも、それしか手はないよ。今、桐生さんと真見ちゃんのお母さんは一緒にいる筈」
「それを仲良しこよしの証明にするってのか」
「例え看護士さんに追い出されても、もうお見舞いは果たしたしね。
だから、この電話が終わったら私達も帰るよ。真見ちゃんも病人なんだから寝てた方がいい」
携帯電話をそのまま操作し、茶香子はすぐに電話をかけ始めた。俺は一応病室の外に顔を出してみたが、部屋の近くに看護士はいない。早めに用事を済ませば、特に注意もされないかもしれない。
病室の方では、既に電話が繋がっていたらしい。茶香子の普段よりちょっと高い声が、廊下にも少し響き渡っていた。……声がデケェよ。
「あ、もしもし桐生さんですか?はい、お忙しい所すみません。
で、ですね。真見ちゃんのお母さん居ます?……えぇ、それでですね。
ちょっと代わってくれませんか?……はい、そうです。
…………真見ちゃん、大丈夫。ちゃんと居たよ、お母さん。
……あ、もしもし、初めまして。
私、真見さんのクラスメイトの木下と言います。
……いえいえそんな。こちらこそお世話になってます。
あ、ちょっと真見さんに代わりますね」
廊下の見張りから帰ってくると茶香子は既に相川に電話を手渡していた。相川はおっかなびっくりそれを受け取り、ゆっくり耳に当てた。
「もし、もし?お母さん?
…………お母さん!大丈夫なの!?
だって、その人……え?店のお金出してくれるって……?
入院費も?借金の返済も、ってちょっとお母さん、なんかそれ逆に怪しいんじゃ?
その人なんだよ、水曜日の人。分かってんの?
……はぁ?良い人な訳ないじゃん!もう!……え?何?代わるって誰と?……ちょっと待っ」
聞こえてくる会話は相川の言葉だけだから、その全容は掴めない。だが、相川の顔色を窺う限り、再び部長が電話口に立ったようだ。
「は、はい……どうも。相川真見、です。
…………え?あ、あの……はい、ちょっと喉の方を……。
気管支炎、だったかな」
『気管支炎!?』
部長の喧しい声は電話が絞ったボリュームなんてものともせずに聞こえてきやがる。右の耳元で叫ばれた相川は、左手に電話を持ち替えて、右耳はそのまま耳を抑えた。
俺も部長に電話すると、よく同じ様な格好になる。暫くは耳鳴りが止まないだろう。
「……桐生部長、落ち着いて下さい。私、元気ですから。
薬も飲んだんで、そんなに喋るのも辛くないし。
だから、いや、あの……そ、そこまで落ち込まなくても……。
はい、はい。大丈夫です。皆も見舞いに来てくれて……はい。
……はい!?え、ぶ、部長さんも見舞いに来るんですか!?
あ、違うんです。別に嫌なんじゃなくって……その……え?あ、なんだ。ウチの部長か。
いやいや、今のはそんな深い意味はないですよ、本当に。
……それより、あの、お店のお金とかをって……はい、入院費もです。
それに、家の借金までって……お詫びって、そんな風に言われたら……。
はい、はい……え?そんな、そこまで…………ありがとうございます。
じゃあ、ウチのお母さんをよろしくお願いします。失礼します」
長々とした電話が終わり、相川は複雑な表情で窓の外を見て溜め息をつく。断片的な会話だったので内容はよく分からなかった。説明を求めていいものかと逡巡したが、すぐに相川が口を開いた。
「お母さん、桐生さんと一緒に、店のリフォームの打ち合わせしてたんだって。
その代金も、私の入院費も、店の借金も、桐生さんがお金を出してくれるって言うんだけど」
「あの人なら、それくらいの金は多分屁でもねぇよ」
アレだけ酷い事やってるんだから、そこそこ溜め込んでるんだろう、きっと。
綺麗な金じゃないだろうけどな。とは流石に言わなかった。
「それから、すっごい謝られた。私が気管支炎になったのを、すごく心配してたみたい」
「それは私達も聞こえました。声大っきいですね、桐生さん」
「んで、お母さんに簡単にだけど、料理の指南をするって。
調理助っ人の部員を一人、暫く貸し出すって」
「……そ、そりゃ良かった……じゃねぇか」
最後のは素直に喜んでいいのかどうか分からんが、相川が嬉しそうなんだから、きっと良かったと言っていいんだろう。『興龍』の飯が今より幾分かましになるんなら、今度から学校帰りに食いに行くのも有りかも知れないし。
「それで、安心は出来ましたか?」
「……うん。まだ完全には信じられないけど……」
「それでいいんだよ。あの人を100%信用してたら破滅するぜ」
部長がどれだけ反省した所で、そして例えそれが本心からであっても、あの人は変わらない。
のっぴきならない過去を引きずって形成されたあの人格は、きっと余程の事がなければ変われないんだろう。それが、俺には少し寂しいけれど。
……さて、今の騒がしい電話のお陰で、俺達はそろそろお暇しなければならないかもな。幸い同病室には他の患者は居ないが、あの声は廊下にも響いていた。そろそろ看護士さん達がここに来そうな気がする。
「じゃ、俺達は帰るぜ」
「あれ?シッキーも帰るの?」
「ん?なんかおかしいか?」
「いや、だってその電話かけたの……あー……まぁ、いいや」
その含みのある言い方は何だよ、と言いたかったが、深く突っ込みはしなかった。どうせ大した理由じゃない。
「バスの時間も丁度良いです。今ならそんなに待たないで乗れそう」
「そっか。んじゃ、また学校でな。ちゃんと寝て、ちゃんと食えよ」
「あ、あの……」
立ち上がった俺の手を、何故か相川が掴んで引き止めた。悲しそうで辛そうな表情を顔に引っさげて。
「なんだ……まさか、喉が痛むのか?看護士さん呼んでくるか?」
「いや、そうじゃなくて……その、ありがとうって、まだ言ってなかったから」
「……ありがとうって?」
「あそこの祠からシッキーの顔が見えたとき、本当に安心したの。
助けにきてくれなかったら、私、どうなってたかわかんないって、凄く不安だった。
……だから、ありがとう」
「そりゃ、どういたしまして。
ま、実先輩と大五郎の方が活躍したけどな。そっちは今度紹介してやるよ。
人が良いから、新聞部の取材もOKしてくれるぜ、きっと」
「あと、それから……ごめんなさい」
相川は蚊の鳴くような小さな声でだが、確かにごめんなさいと呟いた。救急車の中で何度も聞いた言葉であるが、今のが一番耳に残る『ごめんなさい』だった。頭を下げて時折こちらに視線を向ける相川は俺の顔を見るのが辛い、と言った様子だ。
「私、シッキーの鞄の中の名簿、勝手に撮影しちゃって……。
魔が差したとか、出来心だったとか、そんな事言って言い訳はしたくない。
私がちゃんと自分を抑えられれば、こんな事にはならなかった。
皆に迷惑かける事も……心配かける事も……なかったから。
全部、そういうの全部合わせて……本当に、ごめんなさい」
「……俺の方こそ、ごめんな」
俺の言葉に、全員の視線がこちらに向く。
あまりそうやって注目しないでほしい。ここから先は俺と相川の問題だ。
覚えている人は少ないだろうが、俺と相川は、今でこそこうした事件の混乱の内に居たからこそ普通に接しているが、事件前最後に会った時に喧嘩別れしてしまっていた。
良い機会だ。ここで今そのケジメを付けるチャンスがあるのなら、頼らない理由はない。
俺にとって、真にこの事件の全てを終わらせ、非日常的だった全てを日常に戻す為にも。
「あん時……火曜日、お前と下駄箱であった時だ。俺、お前に酷い事言った。
お前の新聞を、どうでもいいものみたいに言っちまった」
「でも、あれは……シッキーは間違ってなかった。私、嘘ついたんだよ?
だから、謝ったり、しないでよ」
「でもお前の書いた大事な新聞記事を『そんな事』って言ったのは、それとは関係ない。
だから、謝るのは俺なんだ。ごめんな、相川」
「……止めてよ、あんまり優しくしないで」
「そりゃ無理だ」
俺は俺の手を握る相川の手を一旦離し、逆の手に持っていき、そのまま握手を交わす。
掌は少し冷たかったけど、俺の心はこの冷たさに逆に心地よさを覚えていた。手の冷たい人の心は優しいというが……実際の所はどうなのかね。俺には分からないな。
「俺はお前と仲直りしたいからよ……いいか?」
「……うん。勿論」
相川は俺のその言葉に面食らっていたが、すぐに満面の笑みで返してくれた。久しぶりに見るその向日葵みたいに明朗快活な相川の顔を見て、俺はようやく実感出来た。俺は今になって、他の皆より一足遅く、この事件の終焉を迎えることが出来たって事を。
あの火曜日の別れから失われていた『普通の日常』が、ようやく俺の元に帰ってきてくれたんだ。