1−1 「ストップストップ!識君、まぁ見てなさいな!」
さて、回想を終了し、テニス大会の翌日の日曜午前十一時半。
俺は制服に袖を通して、トボトボと気の進まない学校への道のりを歩いていた。
もう六月に突入して少し経つ。間もなく冬服ともお別れできる、じめじめした季節であった。
天気の方は例年通り雨模様が強くなってきている。今日の予報も雨だ。
背の高いマンション群から謙虚に覗く狭い空を眺めていると、西の方に大きな入道雲が見える。
これは学校に付く前に一雨来そうだ。雲め、ざまぁみろ。
内心ほくそ笑みつつ、登校用の学生鞄の中に常備しておく折り畳み傘を取り出……って、おや?
「おかしいな……いっつも入れとくのに」
手探りしても中にあるのは筆記用具と携帯電話、それから財布だけだ。
つやつやのプラスチックの柄も、さらさらの傘布の感触も、俺の手には伝わらない。
鞄を覗き込んでも、現実とは時に非常な物である。つまり、なかったのだ、俺の黒い折り畳み傘が。
まさかと思ってすぐさまお袋に電話で聞いてみると、親父が出勤の際に持って行ったそうだ。
馬鹿なだけでなく物忘れも激しい俺は、傘は基本的に常時入れておく。
つまり親父は俺の鞄を勝手に漁って持って行ったって事になる。
いくら肉親でもそれはないだろ。後で親父に嫌がらせとして空メールをしこたま送ってやる。
天気はどうだろうと空を見上げると、黒々とした入道雲はいつの間にやら俺の頭上まで移動していた。
何時降ってきてもおかしくはない。今は一先ず傘の確保が最優先事項だ。
近くにコンビニがないかと辺りを見渡していると、ウチの高校の制服を着た女生徒で俺の視線は止まる。
見覚えのあるその女生徒の顔に、俺は小さく手を振った。
「あ、識君!」
向こうも気がついたらしく、こちらに微笑みかけながら小さく走り寄ってくる。
ほんの数十メートルの距離なのに、彼女は少し息を荒げていて、たっぷり10秒深呼吸してから顔を上げた。
「おはよう……って、もう昼だけどね」
「まだ午前中なら、おはようで良いんじゃないかな?」
「ごもっとも。では改めて、おはよう、識君」
「……お、おはよう」
そうやって小首を傾げる彼女は、狙ってやってると勘違いしてしまうほど様になっている。
少し見とれていた俺は慌てて挨拶を返して、目の前に迫ってきた交差点の信号を睨んだ。
信号は未だ赤ランプの方が点灯している。国道沿いは待ち時間が長くて困るぜ。
「桐生さん、突然すぎるよね。こっちも予定があったのに」
「そっちをわざわざキャンセルしたのか?」
「ま、予定ってのはウチの用事だったんだけどね。帰ってからも出来る事だから別にいいけど」
「木下、反論とか文句とかあるなら、言ってやれよ」
彼女こそ入学初日で部長に共に呼び出しをくらった同級生、木下 茶香子であった。
女子にしては背が高く細身で、綺麗にまとまった黒い髪が美しい。
ついでに言えば結局彼女はあの下駄箱での言い合いの後、部長についていって入部を済ませていたらしい。
同じ部活に所属するクラスメイトともなれば、必然的に話をする時間もそこそこある訳で。
彼女はいつのまにやら俺を下の名前で呼び、俺もさん付けをいつの間にか止めている程度には親しい間柄である。
さて、彼女とは部活の仲間、なのである。あの『万能人材派遣部』の一員として認められているのだ。
あの時はまるで考えすらしていなかったのだが、これ即ち彼女にも特別な『なにかしら』がある訳で。
「識君だって。反論してる所なんて見た事ないよ?」
「昨日してみたよ。そしたら折檻だってさ。ほんと、怖い話だぜ」
「桐生さんの折檻って……。大丈夫なの、識君?」
「行くのダリィって言っただけだから、いくら何でも心配無用だと思いたいな。
精々デコピン一発とか、そんなもんだろ」
「あの身長で、識君のオデコまで手が届くんですかねぇ?」
クスクスと茶香子が笑う度に彼女の黒く艶のある髪から良い香りが漂ってくる。
必死になって嗅いでいる自分がそこにいた。我に返って自己嫌悪に陥る。
彼女はこうやって男心をくすぐる仕草や特徴が多かった。
狙ってやっているのでは、とすら思う。事実そんな噂も立っていた事があった。
煙のように広がる筈の噂はまるで台風でも来たかのように、一日で吹き飛ばされた訳だが。
「俺が屈む必要があるかもな」
「フフフ、律儀に体罰を受けるんですか?優しいね」
「いや、別にそう言うつもりは……げぇ」
漸く信号が変わった頃、遂に入道雲は我慢の限界が来たのか、一滴一滴と水滴を地面に残し始める。
茶香子は予測済みだったらしく、バッグの中からピンクの折り畳み傘を取り出していた。
入れてもらえないか、と期待したが、些か傘が小さ過ぎる。
女の子との相合い傘なんて滅多に経験できないのだが、ここは四の五の言っている場合ではないな。
「俺、傘忘れたから先行ってるわ」
「え?」
「また部室でな!」
「ストップストップ!識君、まぁ見てなさいな!」
折り畳み傘を広げる茶香子。
何の変哲も無いピンク色の小さく可愛らしい傘だ、などと言った感想を抱いたのは一瞬だけだった。
広がり切った傘の骨から、さらに傘の骨がジャキン!と猛烈な勢いで飛び出してくる。
それに伴ってピンクの傘布も強引に引っ張られて可哀想なくらいウィーンウィーンと何故か機械的な音を発しながら伸びて行く。
しかし傘布は破れる事無く、むしろ柔軟に傘骨のトランスフォームに追従している。
たちまち折り畳み傘とは呼べない程の、大の男四人くらいが悠々入れる程の巨大な傘が姿を現した。
その下で胸を張る茶香子が、得意げな顔をしていた。
「今朝ちょっと作ってみたんだけど、どう思う?
傘骨が折れてたんで修理がてら、少し弄ってみたんだけどさ」
「……相変わらず、心臓に悪いよな」
とても今朝ちょっとの時間で作れそうにないハイテクな、哀れにも改造されて可愛らしさの欠片さえも失った茶香子のピンクの傘に入れてもらいつつ、俺は言った。
彼女、木下茶香子の得意分野と言うのはこうした無駄に洗練された機械技術であった。
簡単に言ってしまえば彼女は物作りが異常に得意な少女なのだ。
彼女の技術は多岐に渡り、情報工学、機械工学、果ては鋳造や鍛冶なんてものにまで至る。
そうした技術を部長に見込まれて、彼女は我らが『万能人材派遣部』に所属している。らしい。
俺と肩を並べると、茶香子は少し照れくさそうに笑う。
もっと照れくさそうに笑っているだろう隣の俺は、気恥ずかしくて顔を無理矢理正面に固定した。
「そう言えば、まだ私たちが見た事無い部員が居るんだってね、どんな人かな?」
どうやら昨日は茶香子にも同じ様なメールが送られていたようだ。
律儀にも腕を伸ばして、携帯電話(無論だが改造済みである)のメール画面を見せてくる。
メール画面は見慣れたものに比べて光度も解像度も高い。
ついでに言えば何を表しているのかよく分からない記号が画面のあちこちに表示されている。
昨今の携帯電話の加速度的多機能化をブッチギリで突き放す何かしらを備えているのだろうが、俺がそれを知る事はきっとない。
画面の文字を注視する。文字が比喩ではなく踊っていた。びょんびょん縦に跳ねる♪を見て、俺は呆れ果てた。
すんごい技術の無駄遣いだな、これ。逆に読みにくくなってたら意味ねぇって。
大体俺も同じ文章を貰っている訳で、特に見直す意味なんてないんだけど。
その上、ただでさえ他の未知の部員について考えないようにしていたと言うのに。
部長の眼鏡にかなう事それ即ち。中庸な人類とはかけ離れたものたちなのだ。
自他ともに認める事なかれ主義の俺としては、もっと心臓に優しい友人も欲しい。
「知らんよ。考えるまでもないし。あと十五分もすれば嫌でも分かる」
「夢が無いですよ、識君」
「近代文明の塊が何を言ってんだか」
「んん?聞き捨てならないですねぇ。科学とは人の想像を実現する為に発生した学問だよ?
つまり夢そのものを体現する為に今日まで発展してきた訳で、夢の無い科学なんて……
聞いてますかぁ、もしもぉし?」
「聞いてるよ。耳には入ってる」
頭には入れてないけどな。茶香子は基本的に話が長いのが玉に瑕だ。
放っておいたら学校までの道のりで俺の口が相槌以外の言葉を発する事はないだろう。
折角の学校でも綺麗どころな女の子とアイアイガサと言う思春期男子垂涎のシチュエーション。
木下茶香子教授プレゼンツ近代工学の授業〜基本編〜にしてしまうには惜しいと思うのは男であれば当然であろう。
早めにこの話題は切っておいた方が良さそうだと思い、俺は口を開いた。
「そういや、ウチの用事があるとか言ってたけど、何かあったの?」
「あぁ……ウチの車勝手に改造したら、お父さんに注意されてしまいましてね?
お願いだから元に戻しておいてくれって言われちゃった。
出勤に使ってるやつだから、今日中に終わらせなきゃならないのよね」
「……どんな改造したらそうなるんだよ」
「内緒ですわ」
茶香子はニヤニヤと悪戯っ子独特の微笑みでそう言い放った。
ふむ、可愛らしいのは認める。けれどあんまり親父さんを虐めないであげて。
どうせニトロエンジン積んでるとかフロントライトがサーチライトになってたりするに決まっている。
茶香子の発明や改造は基本的に悪い意味で人の度肝を抜く、行き過ぎたものが多い。
彼女には常識があまりないのかもしれない。
高過ぎる技術力と言うのも考えものだ。
「どうせなら一から作ったらどうだ?車一台くらい、お前なら訳ないだろ?
せっかくだ、俺にも車とは言わないけど、原チャリかなんか作ってくれよ」
「材料提供してくれるなら幾らでも作ってみせましょう♪」
「さ、さすがにそんな金はねぇかな……」
「じゃ、諦めなさいな。私の腕をタダで奮わせようなんて考えるべきじゃないわ。
でも?いずれ世界的なエンジニアとして名を馳せる私が作った車なんて持てれば、自慢になるかも?」
「そりゃなってから言う台詞だ」
「ふっふーん。じゃ、今のうちに言っておくと良いわ。なんせ、今しか言えませんからね」
鼻を鳴らしながら自信過剰にさえ取れる発言をした茶香子を、俺は少し羨ましく思う。
彼女は自分の真にやりたい事をするために、恵まれた自分の才能をフルに利用出来るのだ。
生まれ持った才能こそが彼女の進む道を決めたのか或いは目指す未来が偶然にも才能を伴っただけかは、聞かないと分からない。
しかし今の彼女は、自分の将来のヴィジョンを語る彼女は希望に溢れた顔をしている。
さっきの憎まれ口は単なる僻みたいなもんで、彼女は間違いなく彼女の思い描く通りの未来を手に入れるだろう。
そうして自分のやりたい事をして、やりたいように生きて行けるのだ、彼女は。
羨ましいったらないな。俺にも茶香子みたいな才能があれば。
或いは、何かスポーツに打ち込める情熱が俺にもあれば、と無いものねだりを誰にともなくしていると、少し不安げな表情で声が肩の向こうから聞こえてきた。
「識君、やっぱりなにか作ったげよっか?」
「ん?何で?」
「ちょっと恐い顔してました。もしかして……怒ってる?」
「いやいや!全く全然これっぽっちも怒ってないよ、ははは。今少し考え事しててさ」
「考え事って……人の話は聞くようにって、母さんに習ったでしょう?」
「親父からは教わったよ、拳骨のおまけ付きで」
「やだ、なにそれ」
どうやら俺の顔は知らぬうちにしかめっ面になっていたようだ。
何とか冗談を言って取り繕うと茶香子はクスクスと小さく声を上げて、桜華の様な淑やかな微笑みを浮かべていた。
機嫌が直った様子でなによりである。俺とした事が、少し難しく考え過ぎたようだ。
彼女の何が悪い訳でもないのに俺の都合で妬んだって、それは俺の我が儘。
我ながら情けない。昨日久しぶりに色々考え込んだせいで、神経過敏にでもなっているのか?
ネガティブな考えを追い出そうと必死になって頭を振る俺を、茶香子は少し怪訝な顔で見ていた。




