7−3 「……あんまり人の家の事情に首突っ込まないでよ」
前回の粗筋。
遅刻したと思って慌てて木下の家を訪れた野田だったが、当の木下も同様に寝坊をしてしまっていた。木下の準備の間、家に通された野田はそこで木下の母親と何故か紅茶を嗜む羽目になってしまう。そして話題はいつしか茶香子の過去の話に……。
「もう十年近く前の話なのに、何故でしょうか。未だに私も夫も、時々あの日の事を夢で見るのです。
茶香子が学校で事件を起こした日を。それに今日もあの夢を見てしまった……。
そしてそんな日の朝は……私はあの子の顔を正面から見られない。
見る勇気が、どうしても出ないのです」
「それは、どうしてですか。自分の娘でしょう?」
「分かっています。十分に分かっていますとも。
でも、あの日帰って来た娘を、私は娘だとは思えなかった。
娘の皮を被った、血塗れの悪魔にしか……見えなかったのです」
茶香子の話では、学校で虐めていた奴らを撃って大怪我を負わせた後、部長によって家に帰らされたらしい。その後茶香子が両親に直々に事情を話した、と言っていた。
「あの子から話を聞いている最中、その実何も耳に入ってはこなかった。
話が信じられなかった訳でも、娘が信じられなかった訳ではないんです。
目の前で、自分の起こした事件を淡々と語る少女が、自分の娘だと信じる事ができなかった……。
思えば、昔からそうでした。
ずば抜けた才能を振るい、茶香子はいつも厄介な事を起こしていた。
ある時は発明で家を半壊させ、ある時はお隣さんを薬品事故に巻き込み……元々、やんちゃで大変な子でした。
だからあの子が何をしても周りに被害が出ないように、庭を広く作ったんですが、最近ではそれにすら収まらない。
あの子とあの子の才能が更にスケールを増し、次第に手に負えなくなっていくのが、私には怖かった……!」
震えを隠さず、心の内も隠さずにいる目の前の女性の声は、次第に小さくか細い物へと変わっていった。
「……怖かった、ですか」
「それが世間一般で言う『天才』であれば、私共は喜んであの子の才能を育んだでしょう。
でも、茶香子は違った。あの子は……『普通の天才』では無かった。
異常で歪な、尖った才を持て余しながら、この世に生を受けた」
「自分の娘を歪だなんて……」
「違うのです。私だって、娘を愛している。この世界の誰よりも。
でも、時々私は、私があの子の母親である資格があるのかと、悩む事があるのです。
私の様な普通の人間が、あの子のような天才の親を勤める事が出来るのか……。
私の規格を悠々と超えるあの子を、どうして私が育てる事ができましょうか。
あの日以来、ずっと悩み続けているのです」
その悩む姿は、どこか記憶があったものだった。それもその筈、その姿はまさに俺と同じものなのだ。凡才と天才との関わりを悩む、俺の姿とそっくりそのまま被るのだ。俺達だけの悩みではない。天才と関わる普通の人々だって、悩んでいる。
「……草臥れていたのかもしれません。そこで、例の事件が発生した。
だから私達は、娘を拒絶したのです。解放されたかったんです。
過ちだと、間違っていると頭で分かっていても、心は変わらなかった。
そしてそれ以来、未だに時折、あの子が自分の娘に見えなくなる時がある……」
茶香子の母親は、優雅さの欠片も無く、右手で握り拳を作って、手を震わせた。
それを見て、俺は何故か我慢が出来なかった。まるでその様が、自分だけが苦しんでいると言いたげに見えたから。不幸なのは自分だけなのだと言わんとしていたように見えたから。
いつ立ち上がって、いつテーブルに手を叩き付けていたのかは、俺も覚えていない。掌が痺れる感覚を覚え、テーブルクロスに少し溢れた紅茶が視界に入ってきた時、俺は既に口を開いていた。
「……そんなの、酷いじゃねぇか」
「し、識君?」
「茶香子は苦しんでいた。今だってそうだ。
自分にちゃんと向き合ってくれない両親に、今も悩んでる!
自分と両親の関係を滅茶滅茶にした自分の才能に苦しんでいるんだぞ!
娘の顔を見る勇気がない?ふざけんなよ!
一番辛いのは誰か、一番寂しいのは誰か、アンタだって分かるだろ!?」
「……でも、私達は怖くて怖くて仕方なかった。
今度あの子が爆発してしまえば、私達にはもう……」
「爆発してしまえば、じゃねぇだろ。
爆発させないために一番頑張る必要があるのは……お母さん、でしょう。
人を不発弾みたいに扱いやがって……それで娘を娘として見る事なんて出来る筈ねぇ」
「……そう、ですよね」
「昨日、茶香子から電話があったんですよ。
結構叱られたって言ってました。……とっても、嬉しそうに、ね」
昨日の電話口の茶香子は、本当に弾んだ声を出していた。きっと、久しぶりだったのだろう。本気で両親から叱られたのは。茶香子は親子の絆に飢えていた。だから両親が本気で自分を心配してくれた事を知り、どれほど嬉しかったのだろう。
そして目の前で娘を拒絶したと宣うこの母親も、本気で茶香子を叱った。この人は、心の奥底では娘を大事に思っている筈なんだ。ただその感情を自分で自覚する前に、茶香子に対する恐怖がその感情を塗りつぶしてしまっているだけなんだ。
もっとしっかり面と向かって真剣にぶつかり合えば、絶対に上手くいく筈だ。
茶香子の母親は、晴天の霹靂を喰らった鳩みたいに呆気にとられた顔をしていた。
「嬉し、そうに?」
「エへへ、なんて楽しそうに笑いながら、です。
……茶香子はもう、大丈夫ですよ。
今でも時々、発作みたいにおっかなくなる事はあるけど……一緒についてやる奴さえ居れば、アイツはきっと大丈夫です。
俺は茶香子を怖がったりしません。アイツの才能なんて、欠片も怖くありません。
でもそれは俺も茶香子の『同類』だからとか、そういう理由じゃない。
たとえ俺が運動音痴のただの馬鹿だったとしても、俺は茶香子を好きになってたと思います。
ましてや、貴方は茶香子の親じゃないですか。娘を世界一愛しているって豪語した、唯一の母親じゃないですか。
俺よりアイツを愛している人が茶香子を怖がるなんて事、絶対にないんです」
俺の言葉を聞いて、茶香子の母親は息を呑んだ。
そこには優雅なマダムなんてどこにも居なくて、一人の、子育てに悩む母親が座っていただけだった。
「後は、ご両親の二人だけです。
茶香子はもう、十分二人に歩み寄っています。
貴方が怖がって娘を遠ざけてしまっては、茶香子の努力も報われません。
きっと……もう大丈夫ですから。貴方達も、親として普通に接してあげられる筈なんです。
ただ、それをする勇気がなかっただけなんですよ。
だから、怖れずにもっと茶香子に構ってあげて下さい」
「……えぇ、本当に……そうですね」
茶香子の母親は潤んだ目を少し指で撫でながら、独り言のように呟いた。そして俺は、そこで漸く我に返る。
……何で俺は初対面の、他人の両親に説教をぶちかましてるんだ?
後悔と言う言葉では語り尽くせぬ悔悟悔恨の雨霰が俺の心に音を立てて降り注ぐ。俺の頭は酷く短絡的な回路で繋がっているらしい。今回とサッカー部での事件が良い例だ。茶香子の事を悪く言われたり、茶香子を悲しませる様な事をしたりすれば、大体頭にカチンときて我を失う。
そんな単純明快にして酷く厄介な性分が、分からなくて良いのに判明してしまった。それに、なんかどさくさに紛れてとんでもない事を口走ってしまった気がするんだけど。
「あの子が良いお友達に巡り会えて……本当に良かった。
それに、こんなしっかりした人がウチの娘を好いてくれているなんて……」
「え?……な、何の事っすか?」
「ハッキリ言ったでしょう、茶香子が好きだって。愛してるって」
案の定やっぱりなんか爆弾発言してやがったよ俺ぇ!
「そ、それはアレです!
友達としてっていうか、いや、茶香子……さんは十分魅力的だと思いますけど……って、そうじゃなくてですね!
えっと、どう言えばいいんだろ、つまり」
困った。非常に異様に異常に困った。ここ数日のアレやソレなんて、吹っ飛ぶ勢いで冷静さが蝕まれていく。頭が真っ白でなにがなんだかさっぱりだ。
取りあえず紅茶を飲んで頭を冷やそうと思ったが、未だに紅茶は熱く、頭は益々煮えたぎる。
前に座るマダム木下は俺の慌てぶりをクスクスとからかうように笑いながらも、目線は俺を貫くように真っ直ぐとこちらを向いていて、全くぶれない。品定めされているのはきっと気のせいだと信じたい。
精神的かつ独りよがりな八方塞がりに陥っている俺にとっての救世主が舞い降りたのは、カップを置いてから時間にして約十秒後くらいだった。
「おっまたせ、識君!」
部屋の中にバタバタと喧しく飛び込んできた茶香子が、息を切らしながらそう言った。
時計を見ると、二時二十分ちょっと過ぎ。準備を始めてから四十分くらいかかったか。寝癖だらけだった頭はいつものように綺麗なストレートになっている。服装の方も、ワンピースに薄手のジャケットを羽織った初夏らしい格好で、中々似合っていた。よく見ると普段していないのに、うっすら化粧もしているようだった。
気恥ずかしさで直視出来ずに、ちらちら横目で様子を窺っていると、茶香子も俺の様子がおかしい事に気がついた。
「……どしたの?顔赤いけど」
「な、なんでもねぇから!さっさと行くぞ!」
今日の用事は相川の見舞いだ。だったらさっさと病院へと向かうべきだ。うん、そうなのだ。
自分に言い聞かせながらさっさと腰を上げる。後ろを見ると、茶香子の母親が先程までの余裕を失って、急に戸惑った様な表情に変わる。娘をジッと見つめ、何か声を掛けようとしているのは明白だが、何を言えば分からない。恐らくはそんな状態なのだろう。
俺は暫くその様を観察していたが、茶香子の母親は首を俯けて下を向いてしまった。
「……じゃ、母さん、行ってくるね」
「………………」
「よし、行きましょ?」
茶香子は返事をしない母親に対して、特に何の感慨も持っていないらしい。
親子揃って、これが普段通りだと言いたげであった。俺はどれだけ口を開こうかと思ったが、本人を挟んで茶香子の事を相談するのは、茶香子にとっても望む事ではあるまい。これ以上は俺が背中を押した所で意味は無い。茶香子の母親が如何に勇気を持てるか。それだけなんだ。
俺の見下ろすような視線を避けるように、茶香子の母親は台所に引っ込んでしまう。
殆ど無意識的に追いかけそうになってしまったが、その手を茶香子が引き止めた。
「別に、聞こえてない訳じゃないから」
「いや、でもよ」
「いいから行こうよ!」
茶香子に怒鳴られてしまい、そこで俺はようやく我に返る。
「……あんまり人の家の事情に首突っ込まないでよ」
その言葉はどうしようもなく正しかった。
結局の所、俺の説教は、きっと茶香子の母親だって自覚している事だった筈だ。俺が改めて叱り飛ばすまでもなく、彼女は自分を責めて今日の今日まで苦しんできたのだろう。さっき言われてすぐに仲良しこよしになるんだったら、この確執は十年も続かない。却って傷口に塩を塗る様な真似をしてしまった俺は、大人しく引き下がるべきだ。全く、慣れない説教なんてするもんじゃねぇな。
先程束の間の、茶香子の母親との和やかでちょっと恥ずかしい会話の事なんて考えられないくらいの胸糞悪い気分が心を支配しているのを、俺はただ我慢する事でやり過ごした。
「さっきはごめん。怒鳴っちゃってさ」
玄関先で、すぐに茶香子が頭を下げた。謝るべきは俺だと言うのに。
「……でも、私の家はあれでいいの。
だから気にしないで。前にも言ったでしょ、二人ともまだ私を……」
「もう言わなくていい。分かってるから」
少し不躾に言ってしまった事を後悔しつつ、俺は茶香子の不在中の出来事を語る。
「実は茶香子が来る前、少し話をしてたんだ」
「うん、なんか識君の怒鳴り声が聞こえてきたから、慌てたよ」
「部屋に駆け込んできたのはそのせいか。
で、なんだ、茶香子とお前の親の事、ちょっと話してた」
「……そっか」
薄曇りの中で、俺達は互いに口を開きかねていた。
何を言えばいいのやら分からず、途方に暮れながら病院へ向かうバスの乗り場まで二人並んで歩いていた。自転車は茶香子の家に置きっぱなしだが、構いやしないだろう。明日も休みだ。
隣を歩いていた茶香子が、先に自分の意見を纏めきったようだ。
「識君、私のお母さんの事嫌いになった?」
「どうかな。俺もよくわかんねぇ。ただ、大変だなって思ったよ。茶香子も、お前の親も」
お互いがもっと歩み寄らなければならない事を知っている筈なのに、その一歩を踏み出せない。何もかも全部忘れてってのは、俺みたいに人生経験の少ない人間にしか出来ないのだろう。
俺にはあの人を責める権利は無いのかもしれない。
同じ立場に立てない人間がアレコレ口にした所で、何の説得力もない。最後の一歩を踏み出す勇気を与えてやる為に俺がすべき事は説教じゃなかった。
そもそも俺がすべき事なんてものがあったのかどうかも怪しい所だが。
「……それよりなんか天気良くないね、今日」
俺が黙りこくってしまったからだろうか。茶香子が話題を変える。言われて見上げると、汚い色の厚い雲が空を塗りつぶしていた。これはすぐにでも降ってくるかも知れないな。
「茶香子、悪いけど降ってきたら傘入れてくれるか?」
バッグを引っ掻き回す茶香子の方に振り返って、俺は少し照れくさかったが頭を下げた。慌てて自転車で出てきたため、勿論傘なんて持っていない。
しかし隣を、同じように空を見つめて歩く女はついさっきまで自宅に居た訳で。先週使った巨大な折り畳み傘も携帯しているに違いあるまい。
しかし当の茶香子はと言えば鞄を二度も三度もひっくり返す作業を行うばかりで、一向に傘が出てこない。とうとう鞄から顔を上げて、茶香子は申し訳なさそうに苦笑した。
「傘、家に忘れてきちゃった……」
ベトナムのスコールかと思う様な壮絶な雨が二人のマヌケを嘲笑うかのように降り注いだのは、茶香子がそんな天然な言葉を口にした直後だった。