7−2 「もう、十年近く昔の話ですのにね」
前回の粗筋。
母親の説教をかまされて翌日の午後に目覚めた野田。
しかし彼は前日、午後一時から木下と共に相川の見舞いに行く予定があった。
慌てて飛び起きる野田。果たして間に合うのか。いや、もう間に合ってないけども。
茶香子の家に到着したのはそれから約三分後の事だった。
息を整える間も惜しんで、俺は雑多な機械が溢れかえる茶香子の家の前で、それらを掻き分けてからインターホンを鳴らす。
しかし茶香子が出てきた途端に、彼女が「遅かったじゃないか……」とか言いながらエアガンを俺の額に突き立てないと言う保証はない。軽くウィービングの練習をしてから一歩引いて家の前で待っていると、たっぷり二分程立ってから、漸く玄関が開く。
「ふぁいぃ、どちら様ですかぁ……」
出てきたのは、長い髪のあちらこちらがあらぬ方向に吹っ飛んだ、まるで神話のメデューサみたいな爆発頭の少女だった。
眠そうに目を擦るその少女は、どうやら俺の良く知る部活の仲間であるらしい。
「茶香子、だよな、お前?」
「げ、識君」
人の顔を見て、げ、とは中々のご挨拶である。茶香子の様子を見る限り、俺も慌てて家を出て来る必要なんてなかったのかも知れん。
コイツも寝坊だ。
茶香子も状況が分かり始めたらしく、冷や汗を流しながら恐る恐る俺に尋ねた。
「えっと、今何時?」
「一時四十分かな」
「……ち、遅刻ですよ、識君。情けないなぁ、はは、はは」
「悪かった。じゃ、今すぐ病院に行こう。その寝癖頭とニワトリさんのパジャマでいいから」
「ごめんなさい嘘です。嘘だから引っ張んないで」
そう言って外出の準備の為奥に引っ込んだ茶香子を、俺はそのまま待つ事になった。時刻は予定より大幅に遅れているが、見舞いに行くだけだし、向こうに時間を伝えているわけでもない。むしろ先に剛志がいたら、俺達は邪魔な存在でしかない。遅れて行くのが得策だよ、きっと。
「あの頭直すのにも、相当時間かかるだろうな……」
自分の遅刻の正当化に成功した俺がどうでも良い事を考えながら待っていると、再び玄関が開く。
予想より随分早い。……と言う訳ではないらしい。
再び玄関を開けたのは茶香子ではなかった。
「……すまないね、娘がだらしなくて」
小太りで小柄な中年の男が、パーマのかかった豊富な髪を蓄えた頭を掻きながら照れくさそうにそう言った。もしかして、この人は。
「ええっと、もしかして茶香子の……茶香子、さん、の」
「父だ。えっと……識君、だったかな。いつも娘が世話になってるよ。
こんな所で待たすのもなんだから、中で待っててくれ」
茶香子の親父さんが、人懐っこい顔を見せながら、家の中に招いてくれた。
木下家の父親に招かれ、俺は掃除の行き届いたフローリングのリビングに通された。親父さんはそのまま自室で仕事を続けるとかで、俺はリビングにとり残されてしまった。
外の庭の混沌の有り様を絵に描いた様な様相とは正反対で、家の中は逆に物が少ないくらいだ。しかし、物が少なくてもその、物と言うのが重大な訳で。
黒革の高そうなソファに座らされた俺の正面では、見た事のないサイズの壁掛けテレビが昼のニュースを読み上げていた。網戸から吹き込んでくる涼しい風を浴びながら、俺は我が家には無縁の高級ソファの感触を味わう事も出来ずに背筋を正していた。
量より質……か。我が家でも実践してくれないかな。無理だろうけど。
「いやぁ、今日は暑いですわねぇ。こっちにきてお茶でもどう?」
「あ、別にお構いなく」
食事用のテーブルを超えた先の、対面式のキッチンの向こうから声をかけてきた妙齢の女性は、茶香子の母親だろう。長い髪を後ろで束ねた背の高いその女性は、俺の言葉を無視して茶の準備を着々と進めて行く。流石にそれを止める訳にも行かず、俺はどうしたものかと部屋の中をグルリと見渡した。
正面には映画のスクリーン並みにデカいテレビ、名も知らぬ観葉植物が窓際に鎮座、床に敷いてあるトラ柄のカーペット。綺麗な白い壁にかかっている油絵は、きっとレプリカだろう。うん、そうだと信じたい。天井には何も無い。何も無いが、天井がメチャメチャ高い。俺が剛志を肩車しても多分天井に手が届かない程度に高い。
そもそもあの異様に広い庭の敷地面積を考えれば、茶香子の家が結構な金持ちだ、なんて事は容易に想像出来たことじゃないか。今更緊張するのも変な話だ。
別に俺達は付き合っているとか、そう言う訳じゃないんだから。この人は単なる友達の母親だ。落ち着け、俺。と自分に強く言い聞かせているうちに、茶の準備が済んだのだろう、茶香子の母親が、少しハスキーな声を再び発する。
「さ、識君……でよろしかったかしら?」
「はい。初めまして、野田識と申します」
「これはこれはご丁寧に……どうぞ、こちらへおいでなさいな」
「……ど、どうも」
暑い日に出されるのでてっきり麦茶か何かだと思ったが、出されたのは熱々の紅茶であった。
またそのティーセットも高そうなもんだ。値段は聞かないけど。聞けばきっと怖じ気づいて触れなくなるし。二つのティーカップが用意されているのを見ると、どうやらこの人も飲むらしい。
……気まずいって思ってるのは俺だけか?
「聞いてたよりもずっと丁寧な人で、私も安心しましたわ」
「聞いてたよりって……?」
「茶香子がよく貴方の話をなさるんですの。
所で、お砂糖は幾つ?」
「あー……」
紅茶なんてペットボトルでしか飲んだ事のない俺にとっては、ベストなラインなんてまるでわからない。ノンシュガーもあることだし、無しでお願いした。
目の前の女性は普通に角砂糖一個を入れて、紅茶を優雅にかき回す。
きっと午後の紅茶とか紅茶花伝とかって、こういう風景を想定されて作ったんだろうなってくらい、様になっていた。
「……あら、どうかしまして?」
「へ?いや、あの。テ、テレビがでかいな、なんて……」
「茶香子が作ったんですのよ、あれ。自作にしては中々鮮明に映りますの」
「あ、はは、そうなんですかぁ……」
食い入るように見つめていたのがあだになった。茶香子の母親は俺の視線に気がついたらしく、優雅な笑みを崩さずに俺を見つめ返す。その微笑みが茶香子のそれにそっくりで、それを見て俺はまた少ししどろもどろになった。
俺の挙動不審に、茶香子の母親は口元に手をやってホホホ、と上品に笑う。
本物だ。本物のセレブなマダムが俺の目の前にいた。
「そう緊張しないでくださいな。今の貴方、まるで娘を嫁に貰いにきた悪い虫のようですよ」
「うへぁ……」
なんか早速牽制されてないか、俺?
そう思って前を見るが、茶香子の母親は特に含みのある表情をしてはいない。それどころか彼女は、ハッとした表情で口元を抑えて、顔を少し赤らめた。
「あらやだわ、私ったら、とんだ失礼な事を。気を悪くしないでね。
娘が男の子を家に連れてくるなんて初めてだったから」
「ええっと、本当はお邪魔する予定じゃなかったんですけど」
「分かってますわ。今日はおデートの予定だったんでしょ?
全く、茶香子ったらこんな大事な日にお寝坊なんて、我が娘ながら情けない」
「おデートって……いや、あの、友達の見舞いなんすけど」
「……そう言えばそんな事も言っていたかも。
嫌だわ、私ったら。なんだか少し浮かれていたみたい。
娘が男の子を家に連れてくるなんて初めてだったから」
「それ、さっき聞きました」
この人も茶香子と一緒で天然か……!しかも茶香子以上の、天然記念物……!
遺伝の過程で中和されたようだな。親父さんはしっかり者っぽかったし。一先ず俺は緊張をほぐす為に、紅茶を一口啜って一息入れる事にした。鼻先に漂う嗅いだ事もない様な上品な香りを楽しむ余裕も、今の俺にはなかった。
「識君は……」
「はい、何ですか?」
「ウチの娘の事をどう思います?」
目の前の女性の邪気の無い質問に、飲みかけた紅茶を吹き出しかけた。これは……試されているのか?娘との関係を確認する為の質問なのか?ここで言うべきセリフはなんだ?
無難……とても優しい人ですよ。
冒険……とても可愛い人ですね。
無謀……娘さんを下さい。
ここはちょっと勇気を出して冒険レベルくらいまでは踏み出してもいいかもしれない。いや、待て。いきなり可愛い、なんて言い出して、変に勘ぐられても俺が参る。しかしこの振りはある意味俺にとってチャンスであると言えなくもない。好きな人の両親を抑えると言うのは、誰憚る事の無いおつきあいが可能になるのだ。
しかしここで読み違えてしまえば、たちまち親というものは巨大な障壁と化す。危険は大きい。
リスクとリターンを秤にかけてウンウン唸る俺の回答を待たず、茶香子の母親は口を開いた。
「最近のあの子、何だか前よりも生き生きとしているんです。
高校に通い出して、よっぽど楽しい事があったんでしょうね……。
助っ人部……でしたっけ。その部活に所属してから。
確か貴方も、助っ人部の部員、なんですよね?」
「え?はい、そうですけど」
「随分仲の良いお友達が出来たそうで……本当に、良かった。
娘も昔、色々ありまして……」
「色々……ですか」
いじめられた過去。それが原因で起こした銃乱射事件。そして……両親との不和。
今もその不和が完全に消えたとは、茶香子は思っていない。
茶香子の両親はどう思っているのだろうか。初対面で聞くような話では無い事は分かっていたのに、何故だろうか。口が勝手に動いた。
「茶香子から……茶香子さんから大体の事は聞いてます。昔の事も、今の事も」
「そうですか……あの子も、もう人に話せるくらいには、整理出来たんですね。
それに比べて、私達ときたら……」
ティーカップを持つ白魚のように綺麗な細い指が、少し震えていた。目を伏せる女性は、その様すらもどこかしら優雅さを秘めていた。
「もう、十年近く昔の話ですのにね」
彼女はゆっくりと、躊躇うように、しかし確実に言葉を紡いでいった。