6−1 「相川……こんな所に……」
前回の粗筋。
天才犬の大五郎先輩は、同時に変態犬でもあった。しかも酷く気分屋で、仕事放棄を宣言してしまう。なんとかやる気を出させる為に相川のブラジャーの匂いまで嗅がせる羽目に。
しかし本領を取り戻した大五郎は、再び精悍な名犬へと姿を変えた。
街灯も喧噪もすっかり消え去り、夜の静寂を絵に描いた様な、静かな商店街の中を四人と一匹が暗がりをひたすらに駆けていた。
今はもう深夜一時を回って久しい頃合いである。しかし、捜査開始からまだ20分と経っていない。明かりが点いているほんの数件を除けば、朝の早い大抵の商店街の店主たちは既に夢の中なのであろう。本来なら俺達高校生だって、そうでなければならない。今日は金曜日で、学校もあるんだからな。
しかし、今の俺達には学校以上に今行かなければならない場所がある。
「大丈夫、なんすか、本当に!?」
「的中率は100%さ。まぁ、見てなよ」
捜査の進展が眼に見えている訳でもなく、俺達がこれ以上手を尽くせないのが今の現状だ。
大五郎が己の本分を思い出してくれたのは有り難い限りなんだが、その足はとてつもなく早く、ダッシュみたいなスピードで夜の闇を切り裂くように駆け抜けている。それを予測していたらしい実先輩は、茶香子に言ってバイクの後ろに乗せてもらっている。二人乗りのバイクで逃げ回る犬をのんびり追っかけ回しているように見えるのが絵面的には最悪だが、大五郎はそれほど速いのだ。
俺も先程から猛然と足を動かしている。剛志は先程まで必死についてきていたが、流石に無理だったらしい。放置されていた鍵のかかっていない古びたママチャリに跨がって、呼吸を整えながら俺達の後ろに着いた。畜生、なんで俺ばっかりこんな面倒な役回りが回って来るんだ。今日の朝の占いは一位だった筈なのに、やっぱり頼りにならんな占いってのは。
「殺気立たないでくれよ。犬は人の感情の変化に敏感なんだから」
「そうだよ、識君。あんなエッチな犬でも、真見ちゃんを見つけるために必死なんだから」
「いや、もっと殺気立て、野田。こっちは急いでんだ」
脇を並走する三人の噛み合ぬ意見を無視しながら、俺は今だスピード衰えぬ大五郎の背中を自分の足で追いかける。これ以上急がれたらいくら強靭と言われている俺の呼吸器でも爆裂してしまうわ。
俺が殺気を向けている相手はお前ら三人だって事に気づかんのかね、コイツらは。
「もしも……」
茶香子が不意に真剣で、不安そうに零した。
「もしも、真見ちゃんがここよりもずっと遠くに逃げていたら、どうするんですか?
今だって真見ちゃんは逃げ続けているかも知れない。ちゃんと、見つかるんでしょうか」
「大丈夫さ。今の彼女にそこまで遠くに逃げる体力は無い。
交通機関は桐生に抑えられていただろうし……市内から出るのは難しいだろう。
それにね……」
実先輩は頼りになる一言を、ヘルメットの向こう側からでも分かるニヒルに微笑みながら俺達に言ってくれた。
「ボクには大体見当がついてるんだ。真見ちゃんの隠れ場所にね」
捜査開始からニ時間も経った頃。薮の中を、小枝を踏み砕きながら未だに俺は速度を落とさずに走っていた。
流石に大五郎も疲れたようで、スピードは小走り程度まで落ちている。俺の地理感からして、今俺達が足を踏み入れているのは市街地の外れにある小高い丘で、夏場はキャンプにもよく使われる我が町随一の観光地となっていた筈だ。
俺が小学生の頃から町内のレクリエーションとして行なわれていたキャンプでも、ここは会場としてよく利用されていた。森が殆ど手つかず……と言えば聞こえは良さそうだが、実際は殆ど野生の原生林の中にログハウスを数件構えただけの簡素なキャンプ場であった。
そんな中でも、もはや地元民の俺ですら通った事も無い山道をピョコピョコと小さく跳ね回る大五郎の背中をまともに追いかけられているのは俺だけだった。バイク組の茶香子と実先輩も、始めのうちこそ何とか山道入り口辺りまでは辿り着いたのだが、そこから先はバイクも乗り込めず、体力のなさからすぐにダウン。
剛志はついさっきまで俺と並走していたんだが、真っ暗な山道の中で足を取られ、途中で姿を消した。来た道を引き返していると思うが……後で探しに行ってやった方が良いかも知れないな。
暗闇の中でも何とか道を外さぬように、携帯電話の僅かな明かりを頼りに、大五郎の後を追いかける。途中からは獣道のような雑木林と背の高い雑草に囲まれた原生林を抜ける間、大五郎の背中を何度も見失いかけたが、大五郎は俺を気遣ったのか少しペースを落としてくれた。
「すまんな、大五郎」
「ワゥフ」
尻尾を振りながら、俺の呼びかけに答える大五郎。
こうしている分には普通の可愛らしい犬となにも変わりない。さっき蹴った事に関しても悔恨の念が沸き上がってくる。実態はエロいくせに。
「さっきは蹴っ飛ばして悪かったな。でもよ……」
俺は辺りを見回す。二メートル先もまともに視界が利かない闇の中、所構わず伸びる木々と雑草共。時折聞こえる耳障りな虫の羽音。まるで手つかずなこの森の中でも、一際生物の気配が感じられない場所であった。
相川はこんな、野生の猪ですら忌避しそうな道を通ったってのか。学校を休む程の体調不良でこんな道を通れば、普通の人間は間違いなく遭難するだろう。
……いや、必死で逃げているうちに辿り着いてしまったのかも知れないな。そうして道を見失って、相川は一体今、どうしているだろうか。
腹を空かしていることだろう。喉も渇いているだろう。優れぬ体調の身体に鞭打って必死でここまで逃げてきたのだろう。……一瞬だけだが、良からぬ想像が頭を駆け巡った。それは部長に捕まるよりも、よっぽど最悪な事態だ。
「……無事、だよな、きっと」
「バゥ」
当たり前だろ。
弱気になる俺を、そんな言葉で叱咤するように鋭く吠えた大五郎は、再び目の前に鬱蒼と茂る森の獣道を歩き出した。
大五郎の背中を少し頼もしく思ってしまった俺は、やっぱりこの犬の後輩って事で落ち着くんだろうな。それで悪くない気がしている俺も俺だけど。
それからさらに一時間程歩いた頃。
時刻は朝の五時を回っていて、すでに太陽は地平線から完全に顔を出している。着ていた制服は木々の枝に引っかかってボロボロのズタズタだ。白色系だったスニーカーも既に焦茶色の土に侵され、見る影も無い。高校に入って二ヶ月超でこれじゃ、お袋に殺されるかも知れないな。
しかし、制服を犠牲にしただけの甲斐はあった。流石に疲労を感じ始めた俺が眠い目を擦りながら相変わらず大五郎に追従していたときであった。
「ウゥフ」
大五郎が立ち止まり、小さく唸り声を上げて、その場におすわりをする。後から草薮の中を抜けた俺の目の前に、こじんまりとしたスペースが広がっていた。
そこだけ草が生えていない、焦げ茶色の腐葉土が剥き出しになっているその空間。大体人間が十人くらい円になって座れる程の広さの真ん中。その場所に、えらく不自然な物がそこにあった。
「祠?」
木製の半壊した古びた祠が、周りに立つ木々に圧迫されながらも木漏れ日を浴びて健気に、しかし何処か厳かな雰囲気を纏いながら建っていた。ある意味では森の中にあっても何ら不思議の無い建造物ではあるのだが、ここに至るためのまともな道が存在しないのが違和感を掻立てる。
もしかしたら大昔に忘れ去られた神様でも祀っていたのかも知れない。
しかし、これが一体どうしたと言うのだろうか。大五郎は此処で立ち止まってしまった。ただ、初めて俺達に相対したときの様な精悍さでジッと祠を見つめるのみだ。
……ところで、祠には大小様々なサイズが存在する。簡素な神社かと思える程立派で、賽銭箱や鳥居まである大きな祠から、ペットの墓かと見紛うほどこぢんまりとした小さな祠まである。目の前の祠は、割りかし大きめの祠と言えるかも知れない。
小柄な人間だったら、身体を丸めれば中に入れそうな程度には。
「……まさか!」
神体を収める為の観音開きを開くと、木っ端が少し飛んだ。
そして俺の目に飛び込んできた光景は……予想していた通り、と言うべきだろうか。
救出に随分と手間をかけさせてくれる麗しの姫君って奴は、救われる側であるからして意外と呑気だったりするもので。目の前で体調不良のまま獣道を駆け抜けた筈のその女も……或いは例外ではないのかも知れない。
「相川……こんな所に……」
静かに寝息を立てる、相川真見が身体を丸めてその中に収まっていたのだった。