5−8 「いいじゃない、識君。これも貴重な体験だと思えば」
前回の粗筋。
柳橋の霊が居る、と言う発言により、相川家の居住スペースに足を踏み入れた野田達。
柳橋のみに聞こえた音無き声に導かれた先にあったのは、仏間だった。
そして柳橋が言う。亡き相川の父親が話したがっている、と。
前言撤回。
今、俺は生まれてきた事を後悔する勢いで猛反省していた。
「いいじゃない、識君。これも貴重な体験だと思えば」
「茶香子、なんなら代わってやってもいいぞ?」
「それは死んでも嫌ですわ」
「ぐぅ!……剛志!お前はどうだ!?」
「俺には適正無しって言ってただろ、実?先輩だっけ?……その実先輩がさ。
はは、まさか一番霊感とか縁遠そうなお前が、一番適正があるなんてなぁ」
「くそぅ、人事だと思いやがって……」
「ちょっと静かにしてくんない?」
「す、すみません」
暴れないように手足を麻縄で縛られて胡座を掻かされた俺は、俺の正面に正座して目を固く瞑り精神を集中させている実先輩の後ろに居る二人を睨みつけた。
身体にはノートの切れっ端になにやら複雑な文様を刻み付けた即席のお札を数枚貼られていて、とどめに五芒星がしこたま描かれたポストイットを鼻に突っ込まれた。こんな放課後の教室で寝てる奴にする悪戯みたいな儀式の様相に、不安を抱かない奴はいない。見ている分にはかなり笑ける光景だろうがな。お前ら二人は本当に楽しそうで羨ましいぜ。死んだら呪ってやるから覚悟しろよ。お前らは別に見てるだけなんだから良いだろうが、何故か身体を貸す側になってしまった俺の身にもなってみろよ。
つーか何で俺が相川の親父さんの霊を身体に憑かせなきゃならんのだ。自らに霊を憑衣させるのが降霊術じゃないのか?
実先輩、自分の身体に霊を憑かせればいいんじゃないですか?
と言ってはみるものの、実先輩は至って真剣な顔つきで俺の質問に答えてくれた。
「出来ない事はないよ?でも、君たちだけで、霊と会話する自信はあるかい?
人が人ならざる者と会話すると言う行為には、精神が傷つく可能性を孕んでいる。
至って普通の会話を繰り広げていてもいつの間にか気が触れている事もあるし、ボクらの業界ではよくある話だ」
「……そ、それは怖いっすね」
剛志が少し脅えた声をあげる。
その人ならざる者に一時的にでも身体を預ける俺の精神は大丈夫なんだろうか。この縄が解けた途端に逆立ち歩きで学校の裏山に火星人を捜しにいかないって保証は何処にもない。
「そう。だから野田君、ボクの指示にはくれぐれも忠実に従ってくれ。
もし手順や方法を誤れば、君の精神に重大な損傷が発生しかねない。
最悪、呼吸の仕方や心臓の動かし方すら忘れて……死に至る」
実先輩の冷静な声が、俺の不安を更に煽り立てた。
おいいぃぃ!今の俺の置かれてる状況って、実は相当危険なんじゃねぇの!?この縄解いてくれ!いつもの俺の力なら麻縄ごとき屁の河童なのに、何でこれは解けないんだ!?
「施術済みだから」
そっかー、ならしかたないなー。
理解を超えた世界に放り込まれて半ば呆然としつつも、俺は覚悟を決めた。こうなりゃ一蓮托生。実先輩をどこまでも信頼して、一言一句聞き逃さずに指示に従う忠僕となり、無事に帰還する事だけを考えよう。実先輩は、静かに目を開き、静かに呟くように言葉を発した。
「……よし、始めよう。
茶香子ちゃん、電気消して」
「はい」
ほぼ真っ暗闇に包まれた部屋の中で、カチリ、と音が聞こえた。実先輩のライターだった。そして彼はそのまま仏壇に備蓄されていた蝋燭に火をつけた。
「まずは野田君。君の魂を身体から抜き取る」
「……はい」
「この火をじっと見て……瞬きくらいはしても良いけど、出来るだけ控えてくれ」
親の仇でも見る様な眼力で、静かに揺らめく炎を真っ直ぐに注視した。それが左右にフラリフラリと揺れる。俺はそれに付随して、視線を左右に動かす。
目の前の実先輩は何か呪文の様な、聞き取れない言葉をブツブツと呟いていた。十秒もした頃だろうか。急に瞼が重くなって来た。まるでまつげに重りでも釣り下げたみたいだ。
や、やばい。開始してまだ一分も経っていないのにもう指示から外れてしまいそうだ。何とか耐えつつ、そんな簡易視力検査みたいな儀式をおよそ五分ほど行なった頃。実先輩が漸く人間の言語で俺に話しかけてくれた。
「よし、野田君。目を瞑って楽にしていいよ。ただし、絶対寝ないように」
「はい」
「今から君の魂を抜き取る。首を俯けて、下を向いて」
「……こうですか?」
「うん、上出来。これから暫く、ボクが良いと言うまで決して、何があっても目を開くな」
「はい」
今まで以上に厳しい忠告に、俺の心臓が少し縮み上がる。黙って首を下に向ける。不意に耳の当たりに、柔らかい手が当てられた。実先輩の冷たいその手が俺の頭の辺りを二三撫でたかと思うと、フッと首の後ろの方に手が動く。そしてそのまま、実先輩の手で、持ち上げられるかの様な浮遊感を味わった。離陸した直後の飛行機に乗っている様な奇妙な感覚に捕われつつも、俺は必死で目を閉じていた。
「もう、目を開けてもいいよ」
実先輩の言う通りに目を開けてみると、そこには思わぬ光景が広がっていた。
……眼下に俺が居る。
いや、正確には身体を前のめりに傾けた、拘束された俺の身体がそこにあった。その正面には『俺の身体』ではなく『俺』の方を見上げる実先輩と、『俺の身体』を見つめる茶香子と剛志がいた。肝心の『俺』には身体がなく、手も足もない。視覚と聴覚だけが切り離されたかのように、ただ周りの状況を感じ取るのみだった。
幽体離脱って言ったっけ、こういう現象。まさか金縛りにかかった事すらない俺がこんな事になるとはな。どことなく現実離れしたこの現状を、少し客観的に考えながら、俺は眼下の光景をマジマジと見つめるばかりだった。
やがて、剛志が口を開く。
「あれ?……おい野田、目を開けろよ」
「し、識君……?」
ピクリとも動かない俺の身体によろうとした二人を、実先輩が手で制した。
「大丈夫。身体から彼の魂を抜いただけだ。
……野田君、聞こえるか?聞こえたら返事してくれ」
「……聞こえてますよ。耳がないのに聞こえてくるのはなんか妙な気分ですけど。
ついでに言えば、口がないのにしゃべれるのも妙な気分ですね」
「それだけ軽口が叩けるなら、あんまり心配いらなかったね。
じゃ、次の手順にうつる。君の隣に、何かいないかい?右隣だ」
目を使わない視線を右に向けると、確かに白い光の小さな球が八の字を描いていた。大きさはビー玉くらい。自発的にチカチカと眩くうっとおしい光を放っている。
「います」
「それが真見ちゃんの親父さんだ。彼に向かって、ボクがこれから言う言葉を言って聞かせてあげて」
「了解しました」
ふむ。これが幽霊ってやつなのか。こうして見てみると怖いどころか、愛嬌すら感じるのは今の俺も似た様な境遇だからだろうか。実先輩が喋り始めたので、俺は慌てて無い耳を傾けた。後ろに居る二人に目がいった。キョトンとした表情をしている。……俺の声が聞こえないなら、それが当然だけど。
「これはボクの身体です」
「これはボクの身体です」
「どうか大切にお使い下さい」
「どうか大切にお使い下さい」
「そして必ず返して下さい」
「そして必ず返して下さい」
俺の言葉を聞くときは、騒がしく動き回っていたビー玉もぴたりと動きを止めていた。そして言葉を切ると、ビー玉は一目散に俺の身体に飛んでいき、消えるように吸い込まれていった。
実先輩もそれを確認したのだろうか、小さく首を縦に振り、
「……貴方は誰ですか?」
数秒後、実先輩が口を開く。
それに答えたのは、他でもない俺だった。いや……正確には。
「相川 登……と申します」
俺の身体が、俺の声で噛み締めるように静かにそう言ったのだ。