5−4 「も、もしかしてこの赤ちゃんって……桐生さんですか?」
前回の粗筋。
助っ人部三年、柳橋実にロリコンを看破された根本は、泣きながら部室を飛び出してしまった。そして思わぬ形で柳橋のトンデモな力を目撃してしまった野田は、一応彼の言う霊力というものを信じる事にしたのであった。
俺に与えられた仕事は、実先輩の代わりに本棚を整理することであった。実先輩は体格の通り力仕事を苦手としているので俺に任せるとの事。仕事を押し付けた当の本人は流し台の水垢取りに躍起になっているようだった。……クレンザーで泡遊びしてるようにしか見えないが、きっと気のせいだろう。
別に熱心になる必要も無いしな。言い出しっぺの学先輩はどっか行っちゃったし。適当にやっときゃいいんだ、こんなのは。
茶香子は高所の掃除を終え、畳の掃除に取りかかっていた。こちらは手際が良い。元々手先の器用さが売りだからな。
俺もさっさとこんな面倒な仕事を終えてしまいたい所だ。剛志にも申し訳ない。一応連絡はしておいたのだけれど。
「しかし……多いな、何処にこんなに入ってたんだ?」
明らかに本棚の体積を上回る量の書籍の山。俺はそれに面食らいながらも実先輩に習って本を並べていく。どうやらタイトルはアルファベットの後にアイウエオ順にしているようだが、このミミズがのったくった後みたいな文字の奴はどうすりゃいいんだろうか。
「あー、それボクの本なんだ。
あんまり勝手に見ない方が良いよ。イワクツキだからね」
慌てて顔を背けて本を閉じた。
「読めない奴は脇にどけときな。後でボクがまとめておくから。
……まさかとは思うけど、アルファベットは」
「流石に分かります!」
「……だといいけど」
ゴム手袋(これも水色だった)を付けてシャボン玉作りに専念していた実先輩は、何故か俺を訝しげに見る。これでも一応高校生やらせてもらってんだからな。アルファベットなんて造作も無いわ。と、俺が口の中で愚痴を零していると、またしても分類不能な書物を発見してしまった。
「あの、実先輩?」
「お?やっぱり読めなかったか?アルファベット!」
「なんで楽しそうなんすか。そうじゃなくて、これ」
俺は薄いクリーム色をした大判のハードカバーを実先輩に見せつけた。
「タイトルがないんすけど、これは?」
絵も図柄も何も無い、完全にまっさらな表紙だった。元々クリーム色だった訳では無く、どうも軽く日に焼けてしまった白い本だったようだ。所々、色むらが激しく、表裏で濃淡も違う。
怪しい書物は開かないと決心していた俺としては、実先輩に意見を頂いたと言う訳だ。実先輩は一瞬訝しげな表情を浮かべてから、神妙な声を出した。
「ボクのじゃないなぁ……ちょっと貸して」
手袋を外して流し台に投げ捨てた先輩は、その本を茶香子が掃除中にも関わらず畳の上にバタンと置き、広げだした。迷惑そうな茶香子の視線を無視しながら実先輩が固くて分厚い表紙を一枚捲ると、そこには『成長の記録』と大きく書かれていた。
「お、これまさか……」
学先輩がニヤリと唇を三日月型に歪め、更に一枚ページを捲った。そこには一枚の大きな写真が貼付けてあった。
真っ赤な顔をこっちに向けた、タオルにくるまれた赤ん坊が、目を丸くしてこちらを興味深そうに見ている写真。写真の上にある僅かなスペースには『199X年2月2日誕生!おめでとう!』と丸字で走り書きがされている。
「なんか、アルバムみたいっすかね」
「だろうね。しかもここにあるって事はつまり」
「も、もしかしてこの赤ちゃんって……桐生さんですか?」
俺はもう一度写真を見直した。……正直生まれたての赤ん坊ってのは全然違いがわからねぇよなぁ。コレがもし剛志の生まれた頃の写真だよ、なんて言われても信じてしまうかも知れない。
「生誕時の体重は5000グラムか……女児としては相当巨大だな」
「学先輩のじゃないっすか?あの人なら頷ける。
生誕直後の赤ん坊の性別って見分けつきませんし」
「野田君、学は7000グラムあったらしいぜ」
さいですか。でもまぁ、うん、それ位は平気でありそうな気がする。あの人の体型を考えれば、むしろそれが妥当だ。きっと相当な難産であっただろう。可哀想に、学先輩のお母さん。
「ふむふむ、隼弥にもこんな時期があったんだなぁ」
「あ、これカワイイ♪」
いつの間にか箒をほっぽり出していた茶香子を交えて、アルバムを食い入るように見つめる二人から一歩引いた位置で、俺は写真をボーッと眺めていた。
そりゃあの人だって人間なんだから、生まれた直後はこんなもんだろうよ。
しかしページが進むに連れて、赤ん坊が段々とあの部長の面影を手に入れていく。髪は黒いけど、肌の浅黒さは生まれつきらしいな。目の細さも全然変わってない。今の部長を幼く、というかスケールダウンしたような姿ではしゃぐ写真内の少女は、きっと間違いなく桐生隼弥なのだろう。純真な瞳でこちらに満面の笑みを浮かべる女の子には、一切の邪気が感じられない。
何処でどう間違えたら高校生の分際で酒と煙草と甘いものを愛する外道じみたあの女に成長してしまうんだろう。時の流れとは残酷だ。少し泣けてきた。実先輩が一枚の写真を指差して、俺を見上げた。
「見ろよ、野田君。隼弥のセクシー水着ショットだ。どう思う?」
「庭のゴムプールで遊ぶ女の子でどうも思う事はありませんよ。
……いや、一人いるかもしれないけど、考えなかった事にしましょう」
「こっちの人って、桐生さんのお母さんですかね?」
同写真内で茶香子が指差した先には、明朗な笑みを浮かべたホースを部長に向けていた白い無地の半袖Tシャツにホットパンツ姿の若い女性が映っていた。髪は黒く、肌も部長のように黒く焼けていて、穏やかなだけでなく快活な様子が写真の向こうからも溢れ出てくる。
何となく面影がある、と言う程度には部長に似ている。少なくとも目は部長そっくりの糸目だ。だが、ボディラインだけは間違いなく似ていない。対照的って言葉はきっとこの為に生み出されたんじゃないかって位ハッキリと違いが見て取れる。
ついでに言うと、豊満な胸とか長くて綺麗な脚線美に目がいってしまうのは最早男の性だ。穴が空く程見てしまうのは仕方ないんだよ。ね、だからあんまり俺を睨むなよ、茶香子。俺に穴が空く。比喩ではなく。
「た、確かに目は部長にそっくりだけど、随分若いっすね……」
「だってこの桐生さんまだ3才くらいでしょ?
それくらいならこんなもんじゃない、お母さんって言ってもさ」
そんなのは分かってるが……だってこれ、大学生くらいに見えるぞ。お隣さんの長女の女子大生が今現在こんな感じだ。大人の女性って言うよりは気のいいねーちゃんって言葉の方が似合いそうだ。
「年の離れた姉か、従姉妹かもね。
……そういえば隼弥の家族構成って聞いた事無いな」
「実先輩も知らないんですか?」
「アイツは自分から言い出した事は無いぜ。
やんごとなき事情ってのがあるんだろうって思ったから、ボクも訊かなかったし」
現状が部室を改造してそこで一人暮らしだからな。両親が身近に居ないのは分かりきった事だ。親の都合があって離れて暮らしてるとか……いやいや、それなら何で部室なんだよ。普通だったらこんなとこに娘を住まわせないで、何処かのマンションでも借りるだろう。俺が親ならそうするね。
ならもしかして……と俺が良からぬ想像をしていると、茶香子が一つ声を上げた。
「あれ?もう終わりですよ?」
ちっこい部長に浴衣を着せてながら困ったように微笑んでいる写真を最後に、以降は全てまっさらなページが続くのみ。右下の年月日を見る限りでは、この時の部長は4、5歳ってところだろうか。
「本当だ……随分少ないな」
「……あんまり気持ちのいいもんじゃないな、この写真」
のどかな空気に似合わぬ、真剣な声を上げた実先輩が目を細めて口を押さえていた。まるで忌避すべき物を見る様な鋭い視線の先にあるのは、最後の浴衣姿を写した二人の写真である。
「気持ちいいもんじゃないって?」
「……一昔前に呪いのビデオって流行ったろ?
特に意味や脈絡が無い映像が映ってるだけなんだけど、見ると一週間後に死ぬって奴」
似た様な話だったら腐る程訊いた事がある。
都市伝説にもフィクションでも訊いた様な、有名な怪談だ。
その手の噂にはあんまり興味ないし、ホラー映画も見ないから詳しくはよく分からんけど。
「あれ、完全なフィクションじゃないんだ。昔一騒動あって……いや、それはいい。
ちょっと前にボクにもお鉢が回ってきてね。一度除霊したんだけどそれはもう大変でさ……。
ま、その話はいいや。で、その時のビデオってのが相当に禍々しい霊気を発していてね。
常人には感知出来ないけど、ボクみたいな特殊な人にしてみれば近くにあるだけで吐き気がする様な代物だったんだ」
実先輩は血の気の無い顔を更に青くさせて、アルバムから一歩分程後ろに下がった。
「この写真からも似た様なものを感じる」
「似た様なものって……禍々しい霊気って奴ですか?」
「うん……。例のビデオと同じくらいに、何か強い訴えを感じる。
ビデオと違って憎悪や苦痛の念ではない、もっと別の感情が伝わってくる。
ボクの見込みが間違いじゃなけりゃ、無念とか悲哀とか……そんな悲しい感情だ。
そして恐らくその発生源はこの写真の……」
実先輩は静かに写真の女性を指差す。茶香子のヒッ、と言う息を呑む音が聞こえた。
俺も思わず唾を飲み込んだ。喉が鳴ったのが自分でも分かる。
「恐らく、もうこの世にはいない。
彼女……隼弥の母親、そして撮影しているであろう父親も、だ」
「この人、母親なんですか?」
「そうでなければこれほど強烈な思念は残せないよ。
娘を置いて黄泉へ旅立つ無念……人の想いの中で、これほど強烈な感情は稀だしね。
悪いけど、閉じてくれないか?吐き気が酷くなってきた。
折角掃除したシンクやトイレを汚すのは勿体ないしさ」
言われるがままアルバムを閉じると、実先輩は力無く肩を落として溜め息を一つ吐く。さもしい一人芝居にしては随分と大仰に肩を震わせている。霊感なんてものがどうすれば身に付くのか知らんが、自分にはその素養がないのは幸いな事だな。
「……大丈夫ですか?」
「ありがとう、茶香子ちゃん」
茶香子に背中を擦られながら、実先輩は少し横になる、と言って畳に身体を横たえた。アルバムは大判で、国語の教科書くらいの厚みを持っていると言うのに、ページはまだ半分程残っている。
以降の空白を意味なくペラペラと捲りながら、俺は茶香子に耳打ちした。
「実先輩の言った事、どう思う?」
部長の両親は既に他界している……正直はいそうですかって、いきなり信じろってのは無理な話だ。最も、根拠も無しに人を勝手に亡き者にすると言うのはよっぽど酷い。しかし、だったらそれが真実だ、なんて俺に言いきれはしない。茶香子は一瞬の逡巡の後に、声を潜めつつ答えた。
「私はまだ信じられないけど……でも、写真、もう無いんだよね?」
「ページは余ってるけどな」
「少なくとも、写真はもう撮らなかったって事だよね。
カメラが無くなったとか、面倒になったとか……撮る人がいなかったとか。
桐生さんがご両親と一緒に住めない様な環境にいるのは間違いないと思う」
「部長も大変なんだな」
俺にはそれ以上はなんとも言えなかった。いつもは弱みの欠片も見せない部長の生涯は、俺にしてみたら謎だらけだ。しかし恐らく、真っ当と言える幼少期を過ごした訳ではなさそうである。
再び、最後の写真を見る。写真の中の部長は、浴衣を身に着けてご満悦の様子で、可愛らしくピースサインをしている。
あの捻くれ切った性格はきっとこの写真の頃には部長にはなかっただろう。……一体何があったのか。興味が無い訳では無い。しかし興味本位でそれを部長に聞くのは間違っている。俺は少なくともそう思っている。
こんなアルバムを見つけてしまった以上、今後少し部長に遠慮してしまいそうだ。見つけたくなかった……とまで言うつもりは無いけど。
「……暗い話はもうおしまいにしよ!これ以上話してても意味無いわ!
掃除、早くやろ?もう時間も遅くなってきたし」
自身を叱咤するように顔を二、三度はたいてから、茶香子は立ち上がって箒を手にする。
確かにそうだ。今ここで俺達が額付き合わせて唸りながら議論を重ねた所で、解決する事は何も無い。部長が今の部長たる所以は、きっとおいおい知る機会もあるだろう。俺達が部長の為に頭を働かせにゃならんのは、部長が俺達を頼りにしてきた時だ。
だから今は……しょうがない。あの人の為に部屋を綺麗ししておいてやろうじゃねぇか。
アルバムを本棚に丁寧にしまった後で、俺も掃除を再開すべく、薄暗くなり始めた部室に明かりを点けるため立ち上がった。
コメディのコの字もない回。
ここからしばらく実先輩無双。新キャラだから仕方ないね。うん。仕方ないんだよ。