3−8 「茶香子!」
前回の粗筋。
玄関先で相川と割とマジな喧嘩を繰り広げてしまった野田は、教室の鞄の中の携帯電話に届いていた二通のメールに目を通す。一件は剛志からの謝罪、もう一件は茶香子からのお誘い。それを断った野田だが、今度は茶香子から不可解な電話がかかってくる。野田は真相を確かめるため、結局茶香子の元へ。
「よう、精が出ますね、整備士さん?」
日もスッカリ落ち月明かりが煌煌と照らす中で、俺は自らの記憶を頼りに先日訪れた木下家の庭のガレージを訪れていた。肝心な時に当てにならない俺の記憶はやっぱり今回も頼りにはならず、少し迷ったが為に随分と遅い時間になってしまった。もう修理も終わってしまったのではないか、と懸念したんだが杞憂だったようだ。
「……何で来たの?」
こちらを背にしゃがみ込んでガチャガチャと喧しい音を立てながら、茶香子は今も尚作業の真っ最中だった。しかしその手際は素人目に診ても非効率的なもので、作業のスピードこそ早いが細かい部品は投げ捨てるわ工具は落っことすわで随分無駄な動きが多い。背中を見ているだけでも、イライラなんて擬音が聞こえてきそうだ。
それでも例のMUSCLEPOWER号は、既に殆ど原型を留めた形に戻っていた。ドリルもパトランプもウィングも既に撤去されていて、普通の銀色の乗用車がそこにあった。……あれ?黒くなかったっけ?やっぱり塗装してたのか?
「無理に来たなら帰っていいよ。邪魔だから」
黙々とキャタピラを外してタイヤ交換を行なっていた茶香子はこちらを見ずに、続けて呟くようにぼそりと言った。えらく機嫌が悪そうな、低い声だ。流石に拳銃持ち出した時の声よりはマシだが。横顔にかかる長い髪、薄暗くなり始めたガレージ内の光度のせいで、その表情は中々窺い知れない。いきなりのドギツイ言葉の槍による先制攻撃を俺はまともに喰らうが、俺は努めて明るい声を出した。
「いや、お前の声聞いてたら元気になったからな」
これは割と本当だったりするが、冗談めかした口調でしかこういうことを言えない自分が少し情けない。俺はそのまま茶香子の返答を待つが、彼女は黙ったまま。
うぅむ、女の機嫌の遷移はよく分からんな。さっきまで泣きそうだったくせに、今はお怒りモードか?
「さて、俺は何を手伝えばいい?」
「…………じゃ、向こうに置いてあるタイヤ、持ってきて」
一つ大きな溜め息をついた茶香子が指差す先には、まるでタイヤショップかと思う程に綺麗にタイヤが詰まれていた。量的な意味でも本当にタイヤショップみたいだ。四つずつ綺麗に積まれたタイヤの列がずらりと並んでいる。サイズやタイヤの溝の構造が微妙に違うものが、ざっと見てもおよそ五十近くある。
これ、どれでも良いのか?全部同じにしか見えないけど。適当に幾つかを担いで持って行くことにした。案外重たいな、タイヤって。
「これでいいか?」
「じゃ、そこに……いや、これ、スパイクタイヤ……」
「……えっと、何がどう違うんだ?」
生憎我が家には車なんて無い。親父もお袋も免許もってないらしいし。旅行は全て新幹線や電車だ。だからスケジュールがガッチガチで、正直家族旅行でそこまで楽しめた思い出は無い、って今はどうでもいいな。
だからナントカタイヤとか言われてもなんのこっちゃ。
「スパイクタイヤってのは冬用のタイヤ。
道路を削っちゃうから、今は規制がかかってて使えないの」
「……そうなのか」
「そうなの」
「……でも何で規制がかかってるようなタイヤをお前は持ってるんだよ」
尋ねてみてもまた茶香子は黙りだ。……気を取り直して行こう。ここで下手に刺激しても意味はない。タイヤの山にとってかえした俺は、今度は別口の山からタイヤを持ってくる。
「じゃ、これでいいかな?」
「んっと……これはスタッドレスじゃん」
「スタッドレスって?」
「これも冬用のタイヤ。季節考えてよ、馬鹿」
「……冬用もなにも、殆ど同じじゃねぇか。これでもいいんじゃねぇの?」
「これだから素人は……こっちに比べて溝が深くなってるでしょ。
あと、よく見るとこっちより細かい溝がいっぱいあるの、見えます?」
「……お、本当だ」
「こういう構造のお陰で、道路に雪が降った時に、その雪を噛んでグリップが掛けられるの。
それからほら、このゴムの触り心地。ちょっと違うのよ、ほら、触ってみて。
どう?なんか柔らかいでしょ?」
「そうなのか?……あんまり分からんな」
「まぁ、柔らかいんですよ。んでね、スタッドレスにも色々あるの。
あ、ちょうどいっぱい持ってきたね、識君。
こっちは……ブリザックか。うん、この子は五年くらい使える、長持ちなタイヤなのよ。
んでこれはアイスガードか。これは面白い子でね、氷を引っ掻くんじゃなくて、水を吸い取って摩擦を強める事で……」
「……やっと笑ったな、木下」
「え?」
漸く俺の方を見てスッカリいつもの調子に戻った茶香子は、ハッと目を見開いて息を呑む。ホント、話が長いよな茶香子は。しかも得意げにマシンガントークを繰り広げるから、中々口を挟む暇がなかった。
そしてこのチャンスに、俺は一気に話を切り込んだ。
「なぁ、今日のさっきの電話は一体なんだったんだ?
迷惑とかもういいとか言われても、俺には何の事やらさっぱりだったぜ」
「あれは……」
そのまま茶香子の目を見つめて言葉を待っていると、茶香子は言葉に詰まって、終いには俯いてしまった。
……あれ、ここは話してくれるシーンじゃなかったのか?再びゆっくりと背中を向けてしまった茶香子に、俺はどうすべきか困惑していた。
「……ねぇ、識君」
「ん、なんだ?」
「私って、普通じゃないでしょ?」
よく分からない上に返答しにくい質問が飛んで来た。それをちゃんと答えるにはまず普通の定義が必要だ。……なんて曖昧模糊な返答ではぐらかせる程、茶香子は抜けていなかった。
「識君がどう思っているか、教えてよ」
「あー……そうだな。正直に言っちまえば、普通の女子高生とは言えないな」
「そう。私、普通じゃないのよ。
……私ね、昔虐められてた事があるの」
茶香子は静かに、それでいて苦しそうに話した。その虐められていたと言う話は、俺も知っている。日曜日、部長が俺に話してくれた過去のトラウマの事だろう。茶香子は言葉を一つ一つ噛み締めてポツリ、ポツリと言葉を漏らし始めた。
「名前がチャカ子って読めるからって、小学校の頃、私の事を虐める男の子がいたの」
「……そうなのか」
俺はわざと知らない振りをして、話を詳しく聞く事にした。好奇心……なんて言い方をすれば身も蓋もないが。
「私、やめてって言えなくて……あのときは毎日が辛かった。
周りの男の子もそれに乗っかって囃し立てて……それが原因でいじめの対象になっちゃったの。
特別何をした訳でもないのに、なんとなくクラス全体がそんな空気になっちゃって」
よくある話とは言えないが、いじめられる理由なんて、そんなどうでもいいものなんだろう。いじめられる側に原因のあるいじめなんて、この世には存在しない。まして小学生の頃なら尚更だ。
「はじめのうちは筆箱隠されたり、靴隠されたり……酷いとは思うけど可愛いもんだった。
でも何も反論しない私に、いじめは段々エスカレートしていったわ。
席を立てば足を掛けられ、水を飲みに行けば水を掛けられ、授業中にミスすれば、必要以上に罵声を掛けられたりね。
私の友達も、始めこそ注意してくれたけど……巻き添えが嫌だったんだろうね、徐々に話す回数も減って、終いにはいじめる側に回ってた」
小学生はいじめの手段こそ稚拙だが、子供である分一切の容赦や妥協がない。ここまで、と言うラインが存在しないが故により残酷で壮絶ないじめが行なわれるのは想像に難くない。
「そんな経緯があって……私は学校に行くのも嫌になって、何日も休んだ。
お父さんもお母さんも、私を無理矢理引っ張って学校に連れて行こうとしたけど、それも拒否してね。
でも、これじゃ駄目だって……当時の私なりに考えたんだと思う。
気付けば私は、自分の部屋で一人、誰にも言わずにエアガンの改造に着手してた。
そして、その完成品を持って学校に行った。
あの日の事はまだ、ハッキリと覚えてます」
茶香子の声は、まるで感情を破棄したかの様な淡々とした物であった。弱々しい常夜灯の光がガレージを照らす中、俺は静かに耳を傾けるのみだった。
「登校してまず、教室で挨拶をしてきた、私を虐めた男子生徒を撃った。
一発や二発じゃないわ。何発も、何発も撃った。急所を狙って。
男の子が血を流しながら泣き叫んで床に倒れ伏した。
それで漸く皆がこっちを見て、私に気がついたわ。
その後、慌てて止めに入った担任の先生を撃った。
にわかに教室が騒がしくなった。阿鼻叫喚って、きっとああ言うのの事だと思う。
喧しく喚く頼子ちゃんを撃った。腰を抜かしてガタガタ震えていた雅幸君を撃った。
騒ぎを聞きつけて飛んで来た隣の担任の梅田先生を撃った。
失禁しながら鼻水を垂らして涙を流して命乞いをした、親友だった美紀ちゃんを撃った。
動くものを見つけては、私は引き金を引いた。その度に、悲鳴が鼓膜を揺らし、人が倒れて床が赤く染まっていった。
暫くして、教室が静かになって動くものが全て居なくなってから、私は教室をグルリを見渡した。
机も椅子もメチャメチャに散らかって、窓ガラスは全部割れていた。
私以外の人は皆、血を流して床に倒れていた。
それで私、何を思ったか、分かる?」
漸くこちらを振り向いた茶香子は、うっすらと微笑んでいた。 普段とは別人のような、暗く無機質な笑いだった。光の宿らぬ目をこちらに向けて、茶香子は更に続けた。まるで機械のように抑揚の無い声で。
「……いい気味だって、思った。
私を虐めるからこうなるんだ、ざまぁみろ……って思ってしまった」
身体が動かなかった。手の震えが止まらないので、拳を握りしめて震えを抑える。室内が暗かったのが救いだった。明るかったら茶香子に俺の恐怖を悟られてしまう。
正気じゃない。俺の正直な感想だ。
「全てが終わって、教室で一人立っていると、どこからともなく桐生さんがやってきた。
あの人は部屋の様子を見て一瞬固まったけど、すぐに私に声を掛けた。
『大丈夫、なんとかするから』って、はきはきとした優しい声で。
あの人はあの頃から小ちゃかったけど、頼りになる人だった。
私はその後、桐生さんと一緒に居た黒いスーツの人達に連れられて、家に帰らされた。
両親は、返り血塗れの私を見て仰天していたわ。
そして私は全てを両親に話した。二人とも脅え切った目をしてたけど、話は全部聞いてくれて、私は嬉しかった。
でも、次の朝。
私たち家族は毎朝全員で朝食を摂っていたのに、その朝から私の食事は私の部屋の前に置いてあったわ。
……まぁ、それも何年も前の話。
家庭環境は随分改善されて、今では二人とも私と普通に接してくれているわ。……少なくとも表向きは。
それでも何かが変わった。
厳格だったお父さんが妙に優しくなった。私を気遣うようにね。
優しかったお母さんは、露骨に私を避けるようになっていった。
気を引こうとして、家財道具を改造したりしても、二人ともやんわりとそれとなく注意するだけ。
今でもそう。二人とも、まだ私を怖れている。もう何年も前の話なのに」
俺は口を開き拱いていた。いや、開く事が出来なかったのかも知れない。何だか目が渇いてきた。ついでに言えば喉も。額を拭うと、汗をかいていたようで、手がべったり濡れた。正直に言ってしまえば、俺は今、茶香子に恐怖している。でも、それだけではない。茶香子の事を助けてやりたいと、恐怖を感じる以上に思っていた。
「……普通じゃないでしょ?
これだけの事件を起こして、それでも平然としている私は。
生まれ持った才能で沢山の人を傷つけ、恐怖させて尚、こうして発明をする私は。
ふとしたことでキレて、皆を……識君さえ傷つけてしまう私は。
……お父さんもお母さんも、普通じゃない私を拒んだ。
だから、私は普通にならなきゃいけないの。いけなかったの。
でも、どうしても駄目。機械を見ると衝動が抑えられないの。
チャカ子って呼ばれると抑えが効かないの。
どうすれば私は普通になれるの?
明るく振る舞う?自分を人に合わせる?周囲とわだかまりも諍いもない、八方美人になればいいの?
……こんな才能、生まれもってこなければよかった。
そうすれば私はいじめを経験した事の有る、ただの気弱な……普通の女子高生になれた。
ただの普通の、何処にでも居る女の子になれ……た……の、に……!」
茶香子は膝をついて、そのままうずくまり、声を上げて泣き出した。俺は未だに頭の中が白いままだった。話は全て聞いた。理解もした。
しかし、俺の勝手に抱いていた茶香子に対するイメージとはまるで逆の茶香子がそこにいたのだ。自らの才能を誇り、慢心とさえ言える不遜な態度で嬉々として自分の発明を語る茶香子の内面が、こんな重い悩みを抱えていたなんて、俺には想像もつかなかったんだ。
だけど……このままじゃ駄目だ。
目の前で好きな女が泣いているのに、いつまで俺は棒立ちをしているんだ。俺の頭はかつてない程に激しく回転し、状況を打破する為の言葉を必死で紡いでいた。……駄目だ。俺の頭はやっぱりポンコツだ。なんにも浮かんでこねぇ!どうすればいい!?
と、一つだけ妙案が浮かんだ。……これをやるのかよ脳味噌様、と身体が訴えるが脳味噌は他の指令を出そうとしない。
ええぃ、ままよ!
「茶香子!」
俺はうずくまる茶香子の身体を無理矢理起こして、正面から抱きしめた。そして、片手で茶香子の力の入っていない首を固定して、もう片方の手で撫でてやった。ピッタリくっついているせいで茶香子の表情は窺い知れないが、茶香子は不意をつかれた為に素っ頓狂な、裏返った声を上げた。
「ひゃぁ!し、識君!?一体何を」
「……こうして頭を撫でてやると人は安心するって、部長に教わった」
「いや!頭を撫でるって言うか、その……だ、抱きついてますけど……」
「こうした方がより効果的かなって思って、自分なりにアレンジした」
かれこれ数十秒程もそうしていた。俺は茶香子に、出来るだけ優しい声色を作って話しかけた。正直頭の中が混乱しまくってるのは茶香子だけじゃなくて俺も、だったりする。見れば分かるか。何やってんだ俺。嫌われたらどうすんだよ、馬鹿。と思いつつも身体は姿勢を変えようとしない。
「……落ち着いたか?」
「む、無理だよ、そんな、い、いつまでこうしてるの?」
「茶香子が落ち着いたって言うまで」
「お、落ち着いた!落ち着いたから!」
ちぇっ。茶香子の背中に回していた手を離して、俺は立ち上がった。茶香子ははぁ、はぁ、と整わない呼吸をしながら、朱に染まった顔を俺に向けていた。俺は未だに膝をついたままの彼女に目線を合わせるようにかがみ込んで話を続けた。
「俺もさ、たまに思うんだよ。
俺みたいな異常な奴が、普通の人間の枠に居ていいのかなって」
テニスの大会といい、今日の喧嘩といい、俺は明らかに普通の枠から外れていた。
でもだ。そもそも普通って何だ?
普通になりたい、なんてのは『普通』の意味を良く知らなければ不可能な夢である。さっき俺が考えたようにな。
「……剛志って、誰の事か分かるか?」
「識君の前の席の人でしょ?流石に覚えたよ、もう」
「アイツの事、普通だと思うか?」
「うん」
「でもアイツ、昼休み、いっつも教室に居ないんだぜ。
何でか分かるか?」
「分かんないけど……あの、何の話?」
「アイツ、毎日昼休み、サッカーの練習してるんだ。
しかも休みの日は、朝から晩までサッカー漬け。
信じられるか?茶香子は昼休み、機械弄りなんてしないだろ?
休みの日は買い物に行ったり、友達誘ってカラオケ行ったりするだろ?
さて、もう一度聞くけど、アイツの事、茶香子は普通だと思う?」
「えっ?えーと……」
「『普通じゃない』って思うだろ?な?
普通じゃない奴なんてのは、見方を変えれば何処にだっているんだ。
アイツは勉強は普通、人並みに良い奴で人並みにうっとおしいけどサッカーへの情熱は異常。
茶香子は性格は気弱だけど、機械を弄る技術とかが、ずば抜けてる。
……どうだ、同列に聞こえないか?
だから、普通か普通じゃないかなんて、気にする事じゃないんだ。
確かに茶香子は普通じゃないかも知れない。でも、俺だって剛志だって普通じゃない。
普通の人は禿げてないけど、家の親父はつるっ禿。普通じゃないな。
普通の人は眼鏡なんか掛けないけど、家のお袋は眼鏡を掛けてる。こっちも普通じゃない。
どうだ?普通であるって事が、逆にどれだけ異常なことか。
もしかしたら、お前の目指す『普通』なんて、この世にないかも知れない。
それにな?
タイヤの話で盛り上がれる女子高生はお前くらいだろうけど、その時のお前の表情はありふれた女子高生のそれだったぜ」
自分が普通かどうか、なんてのは俺だって今現在抱えている悩みだ。だから根本的な解決策だとか、悟りとか真理とかそんなものは全く知らん。俺は口から次々と溢れ出てくる言葉の嵐に翻弄されつつも、ベラベラと演説をした。
自分で言っている事が、正しいかどうか、真実かどうかなんてのにはこれっぽっちも興味はない。今は茶香子が納得さえしてくれればそれでいいんだ。コイツを安心させられれば、自分は今のままでいいんだって思わせれば、その手段が嘘でもなんでも、構う事はないんだ。
「納得いったか」
「えーっと……」
まだ言葉が足りないらしい。俺は考えの纏まらない頭の中を垂れ流すように更に言葉を続けた。
「茶香子にそう言う特殊な才能が無きゃ、俺と茶香子が仲良くなる事もきっとなかったさ。
たまに声をかける事があるくらいの、ただのクラスメイトになったかも知れない。
俺はそんなの嫌だぜ。今更お前と疎遠になれ、何て言われても無理な話だ」
「……そ、それって」
「茶香子はそれでいいのか?俺と仲良くなったことも、無かった事になった方がいいのか?」
「そんな事無いよ!」
「じゃぁ、何も問題は無いだろ?
お前が悩むのも分かるけど、もっと簡単に考えようぜ」
「……………………うん。分かった」
俺の強引極まる理論と津波の様な言葉の波状攻撃によって、長い沈黙の後、茶香子は漸く首を縦に振ってくれた。よろしい。これにて一件落着……と言いたい所けど、俺の中にはまだ疑問が一つあったりするんだ。そもそも何でこんな事になったか、の原因の話である。
「で、よ。結局今日の電話の意味、あれを聞いてないんだけど」
俺がそれを聞くと、茶香子は少し小首を傾げた後、アッと小さくこぼしたのち照れ笑いをした。
「そ、そう言えばそだったね。……あ、でも……」
フリーズする茶香子。死にかけの魚みたいに口をぱくぱくしたと思ったら、すぐに閉じる。と思いきやまたぱくぱくし始める。一体なんだ、そりゃ。新種の遊びか?しばらく待っていると、茶香子は意を決したように俺を見つめた。
「あの、識君!」
「は、はい。なんでございましょうか」
突然居住まいを正した茶香子に釣られて、つい俺も背筋を伸ばしてしまった。そして挑み掛かる様な大声で俺に言う。
「げ、玄関先で……あ、ああ言う事は良くないと思います!」
「……何だ、ああ言う事って」
「だから、その……真見ちゃんと……くんづ、ほぐれつ、を」
恥ずかしそうにモジモジとしながら、茶香子はそれでも聞き取れる声でそう言った
。フラッシュバックする、本日午後五時半頃の出来事。俺が鞄を奪い取って中を確認しようとしたら、相川が飛びかかってきたんだっけ。そんでもって俺は足の怪我の痛みに耐えられずに後ろにこけて、相川が覆いかぶさってきた。そう、誰かに見られたら誤解するような体勢の典型である。よりにもよって一番見られたくない人に見られるとは、なんともはや。
そしてベタな展開をベタに誤解してしまった初心な迷える子羊が約一名。導いて差し上げよう、真実へ。
「アレはそう言う事じゃないんだ。
ええっと、なんて言うか説明しにくいけど……事故みたいなもんだ。そう、事故事故。
とにかく、俺と相川の間には何もないからな」
「でもでも!
識君、真見ちゃんと仲良しだし、もしかしたら……付き合ってるかもって……そう思ってそれでメールして……。
元気無いって……やっぱり真見ちゃんと仲良いから、私がお邪魔虫になるかもって思ってたけど、でも我慢出来なくて……」
なんか最後の方は段々声が小さくなって、茶香子は最終的に俯いてしまった。
……なんか、もしかして……。体育の時間に剛志の言った通りになってないか?バカな……あの男の言動で浮かれっぱなしだった俺が言うのもなんだが、正直あの論法通りに行くなんて欠片も信じちゃいなかった。
……あれ。や、やばいぞ。なんでこんな心臓バックンバックン鳴ってるの、俺。こういう時どうすればいいんだ。剛志、教えてくれよ。
「べ、別に付き合ったりはしてないぞ。相川に限らず……だ、誰ともだ!」
俺は何を言ってるんだよおい!気が動転してしまった俺は今、何を言ってしまうか自分でも分からないびっくり箱みたいな奴になってしまっている。茶香子は俺のそのテンパリ具合を見て、逆に落ち着きを取り戻しているようで、クスリと笑った。
「……ねぇ、識君」
「な、なんだ?」
「識君、前に心臓に優しい友達も欲しいって言ってたよね?」
……言ったっけ?そんな事考えてた事はあった気もするけど。まぁ、忘れてるだけで茶香子にそんな話をしたのかも知れないけど。
「やっぱりそんな人が良い?」
「な、何がだ?」
「心臓に悪い女の子が識君の事好きだって言ったら、迷惑……かな」
そう言って茶香子は顔を逸らして俯いた。首まで真っ赤になって、囁くようにそう言ったのだ。
これは……まさか……まさか!
心臓が、かつてない程に激しい脈を打つ。全身の肌がざわざわして、俺は思わず身震いした。歓喜の震えというものは信じていなかったが、限界を超える喜びを得ると本当に身体がブルブル震えるんだな。
おっと、浸っている場合ではない。茶香子だって平常心ではあるまい。ここは男である俺がしっかりせねば。ええと、今は質問されてるんだよな。よし、答えよう。
「いや……そ、そんな事はないぞ。うん。
心臓に優しかろうが優しくなかろうが、好きな人は好きだ」
「そう……良かった」
そう言って茶香子はこっちを見つめて、ニッコリと微笑んだ。バックに牡丹の花が確かに見えた。幻覚だなんて俺は認めん。ねぇ、今、良かったって言ったよ、この子!こりゃぁもう間違いないっしょ!いくしかねぇ!そして俺は更に言葉を、そのまま一気に告白までしてしまう気概だった。……んだが。
「さてと、さっさと車直しちゃおっか」
「……は?」
茶香子はそう言って一つ大きく伸びをして、デジタル式の腕時計を見て目を剥いた。
「あ、やだ、もうこんな時間。識君、急がないと今日中に終わらないよ!」
「え?いや、ちょっと」
「取りあえずスタッドレス向こうに返してきて!
んで、はい!……これと同じのを三つ持ってきて下さい」
「ま、待ってくれ!俺の話はまだ」
「そんなの後、後!まだ全然作業進んでないんだから!もう徹夜は嫌だしね!
さ、早く行った行った!」
……どうしてこうなった!無駄のないてきぱきとした動きで作業を始めた茶香子の背中を見ながら、俺は泣きそうになりながらタイヤを担ぐ羽目になってしまった。
こればっかりは本当に、心の底から畜生って叫びたいね。
危うくラブコメになる所だったぜ……。
これは普通の、至って普通のシリアスです。シリアスなんだよ!
とても長くなっちゃった。切る所無かったから仕方ないですね。