2−5 「超えられない、壁なんだよ。君は」
前回の粗筋。
不味いと評判の『興龍』では何と、相川が店員として働いていた。一体どうした事かと問いただすと、興龍は相川の母親が他界した父の代わりに切り盛りしている店であると言うではないか。
松井は、どうやら相川目当てで訪れていたようだが、彼自身のセクハラ的言動によって、野田と松井は店を追い出されてしまう。
「全く、酷い目にあったな」
「先輩のせいっすよ」
俺達は商店街を出て、近くの公園のベンチに腰掛けていた。既に辺りは真っ暗。月も星も薄雲に隠れて見えない。うすら寂しい公園の街灯と、隣の自販機の明かりのみが俺達の視界を確保してくれていた。
「すまなかったね。お詫びにコーヒーでもどうだい?」
「頂きます」
ハンカチで杏仁豆腐のシロップまみれだった顔を拭き終わった松井先輩は、自動販売機から購入した冷たい缶コーヒーを俺に手渡して、鼻筋を掻いて苦笑い。俺はそれを黙って受け取り、封を切って渇いた喉に一気に半分程流し込んだ。
「今日は色々と、悪かったね。お礼のつもりが逆に迷惑をかけてしまった」
「……いえ、別に気にしてませんから」
気にしていない事はないんだけどな。相川とはどう足掻こうとも明日、教室で顔を合わせる事になるのだ。明日には機嫌を直してくれているといいけど、どうかなぁ。無理かもなぁ。
缶コーヒーを手の中でクルクルと持て余しながら、松井先輩は空を眺めていた。まるで空模様を窺えないその暗黒を見つめる松井先輩の目は、何だか先程とは随分毛色の違うものだった。先程のセクハラ男の色欲溢れた目ではない、どことなく寂しそうな目。
俺はコーヒーの残りを全て飲み干してから、隣に座る先輩の背中を軽く叩く。
「松井先輩、気にする事はないっすよ。相川だって単にビックリしただけですって。
次店に行った時はまた……何でしたっけ、そう、天使みたいな笑顔で迎えてくれます」
「ああ、ありがとう。でも別に今考えてたのはその事じゃないんだ」
ありゃ?なら、どうしてそんな顔をしているのだ。
「先週の大会の事を考えていてね」
「先週の大会って……クリスタル……ナントカ杯?」
「クリスタルファントムジェネレーションズ杯」
「そう、その大会の……何で終わった大会の事を」
「過去を反省するのは、テニスプレーヤーとして、いやスポーツマンとしては当然の事さ。
まぁ、僕らはあまり出番がなかったけどね」
確かに個人戦では、他の出場者であるテニス部員達は大体一、二回戦で敗退してたっけ。
「……そ、そうだ。そう言えばあの大会、助っ人頼む程大切な大会だったんですか?
全国に繋がる様な大きい大会でもない、一日で個人団体全部終わる様なちっちゃな大会でしたけど」
「……大切と言えば大切……だな」
松井先輩は缶コーヒーのプルタブに漸く手をかけ、ポツポツと語り出した。
「アレはインターハイに繋がる大会じゃないし、規模も大きくない。
ただ……ウチの高校は毎年あの大会は優勝しているんだ。
優勝しないとOBが五月蝿くってね……今回は恥を忍んで桐生にお願いしたんだ。
こんな愚痴を聞かせてしまって申し訳ないけど……今年はあまり部員に恵まれてないんだよ。
去年までの部員の約半数は既に地区予選敗退で引退した三年だ。
俺達二年は部員が少ない上に不真面目な奴が多くてね、練習にあまり出てこない奴も居る。
一年にも経験者が殆ど居なくてさ、この時期一線を張れる奴はあまり居なかったんだ。
それに加えて……野田君、君が決勝で当たった選手を覚えているかい?」
「覚えてますよ」
表彰式の時にも、それが終わってからもずっと泣きながら俺を呪い殺さんと睨んでいた奴。ソイツが決勝の相手だった。あそこまでムキにならんでもいいだろうに。
「アレは藪蛇中学の頃から全国的に有名だったプレイヤー、虻蜂高校一年生の青山だ。
何度もテニスの雑誌に特集されていて、第二の松岡とすら呼ばれている。
彼に加えて他にも有力な選手を迎える事で、虻蜂高校は随分戦力を強化した。
覆水高校も元プロの佐藤がコーチに加わったお陰で、既存の選手の実力が飛躍的に伸びてきている。
我が部が優勝する確率は……まぁ、極めて低かっただろうな」
「そうだったんですか……」
俺に相手の強さなんてよく分からなかった。俺がしたのはテニスではなく、来た球を打ち返す作業なんだから。
「今回は君のお陰で救われたよ。
OBの連中は今の所何も言ってこない。どうにか言い訳ができそうだ」
そう言って松井先輩は缶コーヒーの中身を啜るように飲んで溜め息をついた。俺は俺で、残った空き缶を手で弄んでいた。
「ただ、来年も厳しい戦いになるだろうな。
県大会優勝はおろか、地区大会すら勝ち残れないだろう」
「だろうって……諦めてるんですか、来年の話なのに?」
「ははは、まさか。この一年で何とか戦力は整えるつもりさ、当然ね」
「そうだ。そんときはまた助っ人部に来て下さいよ。
ウチの部長に頼むのは気が進まないかも知れませんけど、俺個人は手伝う気はありますし」
「それは出来ないな」
啜るように飲んでいたコーヒーの缶を一気に垂直に傾けて、松井先輩は吐き捨てた。その時の大人びた迫力と悲愴の表情は、この人が一つ上の先輩である事を改めて認識させる。暫しの静寂の後、松井先輩はこちらを見やった。
「君には分かるだろう、野田君」
「……何がですか?」
こちらをまるで睨む様な鋭い目つきの松井先輩に、俺は驚きを隠せなかった。先程までの優男はすっかり影を潜めていた。見るものに威圧感を与えるその目に、俺はスッカリ畏怖の念を抱いてしまう。
「努力だけではどうにもならない事があるんだよ」
「え……?」
「分かると思うんだけどな。
あのテニス界の新星と呼ばれた青山に、テニスのテの字も知らないまま完全勝利を収めた君には」
「………………」
「才能、だよ」
俺は部長の射抜く様な視線を受け止め切る自信が無く、目を空に向けた。畜生、なんで今日に限って空には何も見るものが無いんだよ。
松井先輩は俺の様子を気にかける事もなく、そのまま話を続けた。
「この世界には絶対に覆らない差というものが存在する。
その差は確実に存在する。才能と言う形をとって。
そしてそれを覆す事の出来る人間はごく僅かだ。
運か実力か努力か……それが何であれ、才能を覆すには余程の力が必要になる。
だから大半の人間は、例えどんな運命の下で生まれようとも、それを受け入れるしかない」
「松井先輩は……」
「……僕は才能には恵まれていなかったらしい。
努力はしたつもりだよ。朝も夜も無くテニスに打ち込んだ日だって数え切れない。
部内ではそこそこの実力もあったお陰で、部長になる事もできた。
でも、一昨日の君を見て僕は確信してしまった」
「確信って」
「フォームの基本もポジション取りもまるで出来ていない。
ラケットの握り方、サーブの打ち方も全く知らない。
相手の動きは見ないし、自分の打った球の行く末さえ全然分からない。
それでも君は勝利した。……才能と言う、ただ一点のみのアドバンテージで!」
松井先輩は手にしたスチール製のコーヒーの缶を握りしめ、へこませて悔しそうに顔を歪めていた。そして俺を見る目には、憎悪にすら近い程の黒い感情を浮かべている。俺は気圧され、すくみ上がる。肩が、軽く震えた。
「君は才能の前には凡人の何年もの努力なんて、何の意味もない事を証明してしまったんだ!」
俺は何も言えなかった。松井先輩が言った言葉が頭の中に反響していた。それでも、頭の中には、自分でも把握し切れない程の無数の思考が展開される。
違う。違う違う!俺は別に、努力を否定している訳じゃなし、そんなつもりだって無かった。俺だって努力してるんだ。頭が悪いなりに、必死に補おうって、勉強しようって努力してるんだ!それを、そんな……この世が才能だけが、天才だけが勝ちを得る様な世の中だなんて、俺は認めない。認めてたまるか!
溢れてくる言葉が上手くまとまらない。口が何を喋れば良いか、戸惑っているようだった。
部長は尚も言葉を続ける。
「超えられない、壁なんだよ。君は」
「………………」
「……君には感謝している。これは本当だ。
でも、覚えていて欲しい事がある。
誰かに勝つと言う事は、自分以外の誰かを蹴落とすと言う事。
つまり、敗者の力を否定すると言う事なんだ。
君の負かしてきた対戦相手の努力は、きっと並々ならぬものだっただろう。
同じ立場にある僕は自信を持ってそう言い切れる。
今回僕らが手にしたのは勝利は、努力の末につかみ取った勝利ではなかった。
まぁ、少し込み入った事情があったからやむを得なかったけれど……。
試合と言うのは単なる勝敗を決する場ではない。
それまでの『努力』の成果を正々堂々と示すべき場であると、僕個人は思っている。
だから僕は、今の部活のメンバーで戦いに臨みたいと考えているんだ。
共に切磋琢磨し合った、共に努力を重ねてきた仲間達とね。
……君に助っ人を頼む事は……もうきっと無いな」
「そう……ですか」
松井先輩はそこで漸く顔をほころばせた。そして十メートル程離れた空き缶入れに、握りつぶした缶を投げ入れた。カランカラン、と寂しい音が夜の誰も居ない公園に響き渡る。
「すまないね。君を責めているつもりはなかったんだ、そんなに縮こまらないでほしい。
それに厳しい戦いではあるが、まだ負けが決まった訳じゃない。
さっきも言ったけど地区大会まではまだ一年も有る。
来年の話をすると鬼が笑うって言うしな。
時間は沢山あるんだ。才能の差や環境の違いは大きいけれど……出来る限りの事はしてみようと思う」
「……頑張って下さいね。俺、応援してますから」
結局マトモに動いた口が発した言葉は、当たり障りのない激励の言葉だった。
心の底から、俺はこの人に頑張って欲しい。そして、自分の言葉を、凡人の努力が無駄だなんて言った事を自分自身で否定してほしい。
「ありがとう、野田君。……さて、随分遅くまで付き合わせてしまったね!帰ろうか!」
そうですね、と立ち上がろうとして俺は今更ながら違和感に気がつく。……昨日と合わせて二回目のうっかりだ。自分が嫌になってくるね、全く。
鞄を部室に忘れてきたようだ。
「……す、すみません。俺、学校に鞄忘れてきたみたいなんすけど……」
「ん、そうか。じゃ、すまないけどここでさよならで良いかい?
電車の時間がそろそろギリギリなんだ」
「はい、じゃここで!あと、テニス用具も家に忘れたんで明日返します!」
「君はホントに忘れてばっかりだな。
何を忘れても、女の子との約束だけは忘れちゃ駄目だぜ!」
そう言ってウィンクしてみせる松井先輩。
何だかコロコロと機嫌の変わりやすい人だな。
俺はそんな事を考えながら、駅の方角へ一目散に駆けて行く松井先輩の背中に大きく手を振った。
俺がとんぼ返りした部室では、薄ピンクのパジャマを着た部長がテレビを見ながらビールで晩酌をしていた。
ちゃぶ台の上にはやりかけの宿題らしきものと、空っぽのカレー皿、食いかけのプリンカップが置いてある。
……実は前から疑問だったんだ事が一つあるんだ。訊いてもいいかな?よし、訊こう。
「もしや部長ってここに住んでるんですか?」
「そーだよ。あれ?知らなかった?」
ワオ。マジかよ。夜分遅くにお邪魔します。って、そうじゃない。
「家は?」
「無いからこんな狭いとこで我慢して住んでんじゃんかー」
これ以上突っ込んだ話を聞くのは面倒くさい事が確実に起こるので止めておく。今の俺に課せられたミッションは部長の私生活の調査ではなく、飽くまでも鞄の回収だ。
「部長、俺の鞄ありませんでしたか?」
「鞄?……あー、ごめん。そう言えば置いてったね。
連絡入れようと思ってたんだけど、いつの間にやら忘れちゃってたみたい」
そう言って部長はちゃぶ台上の物を畳の上に置き、俺の鞄を乗せた。部長は酒臭い息を吐きながらプリンを口に掻き込む。まだ食ってんのかよ。
「あのテニス部部長、ムカついたでしょ?」
「ムカついたって言うか、あの人も結構変な人でしたね」
主にセクハラっぽい言動とか、面倒な台詞回しとかが特に。……まぁ、さっきの公園での出来事に関して言えば、テニス好きで正々堂々とした好青年って感じだったけど。
「そうなんだよ。女好きだし。だけど顔が良いから人気は高いんだよなー。
普段は結構真面目で厳しい性格らしいしね。ストイックって言う感じ」
「ストイック、か」
勝利は自分たちの努力で手に入れたいって、言ってたっけ。公園での会話が未だに心の真ん中で燻っていた俺は、いつの間にか口を開いていた。
「部長は、努力ってどう思います?」
松井先輩は凡才と天才の間に有る大きな壁にぶつかって苦しんでいた。
そして俺だって、己の努力と才能のチグハグさに悩んでいる。
部長の持っている情報収集・操作能力は幼少の頃から既に開花していた筈だ。それも普通の人間が到底到達し得ない程の高みへと。呆れる程才能に恵まれていた部長は、努力なんてしたんだろうか。そして俺達の手の内に有るこの奇妙な才能を、部長はどう思っているのだろうか。
俺は部長の回答を、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて待った。
「努力、かー……どうでもいーと思うな、私は」
俺の真剣な眼差しをどう受け止めたのか、細く絞られた彼女の目には、喜色すら浮かんでいた。
「そうですか……じゃぁ、才能ってどう思います?」
「どうでもいーもの」
……駄目だ。部長は真面目に答えてはくれない。この様子だと相当酔っぱらってるみたいだし仕方ないな。素面でもちゃんと答えてくれないかもしれないし。部長はへらへらと笑いながら俺の前髪を上げて、空いた額にデコピンを放った。意外と痛いな。爪が尖ってるからな、この人。
「部長、酔ってるんすね」
「えー?酔ってるかなー……うーん。酔ってるなー」
「高校生の癖に晩酌なんてしちゃ駄目っすよ。明日も学校なんだし。
じゃ、俺帰りますから」
「……野田君」
鞄を手にし、腰を上げて靴を履き始めた俺の背中に、急に冷静な声がかかった。振り返った先に居た部長はひゃっくりを上げつつも、姿勢を正して真っ直ぐこちらを見ていた。目は少しトロンとして焦点があってなさそうだったけど。
「努力とか才能とか、そんなのはどうでもいいの。
大事なのは今自分が持っている実力だけ。それ以外は全て言い訳に過ぎない。
……わかった?」
「え?えっと……」
「あー……やべ、気持ち悪くなってきた……。
野田君、早く帰るか、耳塞いであっち向いてて……!」
胸の辺りを抑え出した部長が青い顔をして立ち上がった。俺は少し迷った挙げ句、急いで靴を履いて部屋の外に逃げた。少し経った後にドア一枚を隔てて聞こえてくる、ビチャビチャと言う汚い水音と部長の苦しそうな咳と呻き声。
……平日に高校生が吐くまで飲むか、普通?
普通、なんて言葉はこの人に通用しないけれど、そう思わずにはいられなかった。俺は再び部室に入って、酩酊した部長を寝かせるまで一緒に居る事にした。なんか放っておけない気がするんだよな、この人は。世話が焼けるね、全く。
俺は先程の部長の言葉の真偽と真意を問いたかったが、結局その日、部長は以降一言も口を聞かず寝てしまった為に、聞く事は叶わなかった。
かつてないレベルのシリアスパートにして前半の山場……のつもり。
これで漸く月曜日終了。
次回からは火曜日の出来事です。