2−4 「松井先輩、セクハラも程々にして下さいよ」
前回の粗筋。
放課後部室でグダグダしていた野田と桐生のもとに、テニス部部長の松井が訪れる。松井は野田に、世話になった礼として飯を奢ると言うのだが、その行き先は不味い事で評判の中華料理屋『興龍』であった。
今の時間は六時を過ぎていて、商店街で買い物をしている主婦も疎らになっている。どちらかと言えば今並んで歩いている俺や松井先輩のように、部活帰りの学生の方が多い。
中華料理屋『興龍』は、学校から五分程歩いた所にあるこの商店街の隅っこに位置している。商店街自体は、近所に新しく建った商店街を潰しにかかってきた大手企業のスーパーマーケットを、逆に潰しかねない程賑わっているのだが、この店は例外だ。門構えは中々立派なもんで、『興龍』と無駄に達筆すぎて一般人には読めない木製の看板を掲げている。
玄関前の掃除だって出来ているし、窓だって曇り一つない。だがその窓の中に客がいるかと言えば別にそんな事は無い。この時間なら早めの夕食を摂っている家族連れや部活帰りの野郎共が居てもいいだろうに。如何に店が不人気であるかがよく分かる。
俺達はそこだけ妙に空いたその玄関先で、何となく看板を眺めていた。
「さて、ここだ。君は来た事はあるかい?」
「去年一回だけ、ですね」
当時から評判は悪かったのによく潰れないな、ここ。実際美味くない。その時は家族三人で来たが俺も親父もお袋も全員同じ評価を下した程だ。松井先輩は引き戸を開けて中に入り、俺はそれについていく。
中はテーブルが三つとカウンター席が八つ程の、こじんまりとした佇まい。床が油汚れで滑りやすくなっていたり、壁が煤けて黒くなっていたりもしない、そこそこ店内は清潔。
でも味はB級以下だ。清掃業かなにかに鞍替えしたらいいのに。
「いらっしゃいませぇ!」
店の奥の方で漫画雑誌を読んでいた店員が慌てて顔を上げた。……今の声、聞き覚えがあるな。いつ聞いたんだろうか……。疑問の答えは店員の顔を見れば一瞬で解決出来た。
「あれ?松井先輩と……シッキー?」
店員の正体は、昼間強引な取材を申し込んできた同級生の相川真見だった。まさかこんな所で再会を果たすとは、俺も彼女も予想していなかった。
「あ、相川さん……バイト?」
「……この店にバイト雇う余裕、あると思う?」
言われなくてもそんな事は百も承知だ。こんなに客が居ないのだからそもそもバイトなんて必要無い。でもそうでなければ説明がつかないじゃないか。エプロンを身に着けた彼女が客である可能性はそれこそゼロなんだし。
俺が説明を求めると、彼女は小さく呟いた。
「ここ、ウチの店なんだ」
……ウチって、家のウチ?……マジ?
「うん、マジ。私のお母さんの店兼、私とお母さんの家」
相川はそう言うと、恥ずかしそうに頭を掻いて苦笑いを浮かべていた。
「では、青椒肉絲定食と酢豚定食と杏仁豆腐が一人前ずつ。
以上でよろしかったでしょうか?」
相川に連れられてテーブル席につかされた俺は未だ混乱しつつもメニューを選んでいた。伝票に略字を書き込んでいく相川は、中々どうして様になっていた。
さて、ここで料理のチョイスが重要になってくる。辛い料理が外れなのは前回の麻婆豆腐で学習済み。ならば元々甘めの味付けの料理ならマシだろうと俺は酢豚を選択していた。
松井先輩は定食メニューとしては一番値の張る青椒肉絲に杏仁豆腐まで付けて注文。金持ってんなぁ、この人。
「松井先輩、あの店員さんって」
「あれ?君と相川は同級生って聞いてた気がしたけど」
それに間違いは無い。きっと今日の接触が無ければ気づかなかったろうけれど。
「聞いてたって?」
「言葉の通りさ」
つまり、松井先輩と相川は既知の仲だったと言う事か。相川が松井先輩の名を出した時は新聞の取材か何かがあったからだと思っていたが。
「なるほど、そう言う事か」
「……?」
「松井先輩、相川さんと仲良いんですか?」
「あー……別に今はそんなに仲良くないな」
今は、か。……妙な邪推をしたくなるが、ここでそれを言うのは早計過ぎるな。以降俺達は先日の大会についての会話を交わすばかりだった。正直テニスの話題を振られても俺はあまり分からないので、適当に相槌を打つばかりだったけれど。
「お待たせ致しました、青椒肉絲と酢豚でぇす」
会話のネタも俺の相槌のバリエーションも尽きかけた頃に、ようやく注文の品が届いた。学校が近い事もあって学生向けを意識しているのだろう。量は結構多い。特に米の量。茶碗と言うか、殆どドンブリで盛られてきた。
「さて、頂きます」
「頂きます」
酢豚の匂いを恐る恐る嗅いでみる。……ふむ、匂いは及第点だ。口に入れてみる。……うん、やっぱりここ、評判通りだ。食えなくはないんだが、変な味だ。酢豚なのに酸っぱくない。回鍋肉と間違えてるんじゃないかと思う程味が濃く、しょっぱい。だが具には、酢豚の豚肉よりも酢豚の証として認知されているパイナップルが入っている。前回の麻婆豆腐ほどじゃないけれど美味いかと聞かれればNOと思わず手で×を作ってしまう程度には不味い。
それでこの量か……。食い切るのは至難だな。
顔を上げて松井先輩の方を見る。酢豚並みに量の多い青椒肉絲を実に美味そうに食っている。もしやこっちはアタリなのか?この店、実は青椒肉絲だけはメチャメチャ美味いとか。
「先輩、ちょっと貰っていいっすか?」
「ああ、君の酢豚も少し分けてくれ」
ピーマンと牛肉をつまんで口に運ぶ。……さっきよりきつい。なんて言うか、薄い。さっき濃ゆ過ぎる酢豚を食ったせいかも知れないが、それにしても薄い。しょっぱさのしの字もない。そして後味が何故か酸っぱい。味付け取り違えたんじゃないかって位酸っぱいぞ。
俺は思わず眉間に皺を寄せて松井先輩を眺めた。
松井先輩は相変わらず美味そうに食べている。余らせたらこの人に食ってもらうか。
「いやぁ、しかし不味いって評判になってるウチにシッキーが来るとは」
口直しに食っていた唯一マトモな味の米を思わず吹き出しそうだった。テーブルに相川が手をついていた。慌てて周りを見る。この席から厨房の様子は窺えない。中に居る人に聞こえやしないだろうかと俺は声のトーンを落として相川に言った。
「おい、そんなこと言っていいのかよ。仕事しろ、仕事」
「仕事ったって、お客さん今二人しかいないし」
「それより……不味いって評判だなんて」
普通自分の母親の飯をまずいなんて言うか?
「でも実際不味いでしょ?」
「いや、そんな事は」
「正直に言ってよ」
そんな乞う様な目で見ないでくれ。松井先輩は居辛そうな表情で相川から目を逸らす。必然的に俺が相川の視線を一縷に背負う羽目になる訳だ。俺は諦めて真実を吐いた。ヒソヒソと声を小さくして。
「……あんまり美味しくない」
「やっぱりね」
「ぼ、僕は嫌いじゃないけどな」
冷や汗を流しながらそう言う松井先輩。ならさっき素直に言えば良かったじゃないか。来る前も好きだって言ってたし。
「まぁ松井先輩は常連だから、きっと口に合うんでしょうね……」
「で、でも美味いと思うぞ、僕は」
何故かしどろもどろな松井先輩。……この人、単なる馬鹿舌じゃないのだろうか。でもこの人、不味いと思ってるのに常連?何で?いよいよ先程の邪推が真実味を帯び始めてきた。
「お母さんもいい加減諦めればいいのに……。
父さんが死んじゃってからも無理に店続けるって言った結果がこれじゃ、父さんも浮かばれないわ。
それ、残しちゃっても良いからね、シッキー」
「ははは……」
分かったとも言えず、俺は奥に引っ込んでいく相川に誤魔化しの笑みを浮かべてみせた。相川が完全に姿を消した後、俺は青椒肉絲を摘む松井先輩に声をかけた。
「松井先輩、なんで嘘ついたんです?」
「う、嘘だなんてそんな……」
「だって不味いと思ってるんでしょ、先輩も」
じゃなきゃ素直に言える筈だし、どもる事も無いだろう。疑念を抱くと先程の実に美味そうに食べる彼の様子もわざとらしく見えるから不思議だ。
「むうぅ……そこまで看破されるとなると誤魔化せないか。
確かに、同じ値段でもっと美味い店は知っているよ」
松井先輩は案外あっさり吐露した。
「なら目当てはやっぱり」
「……相川だよ」
後は勝手に口を開いて聞いてもいないのにベラベラと話し出した。
「その日僕は特に考え無しにこの店に入った。
ここの評判は耳にしていなかったからね、特に抵抗もなかった。
客は誰も居なかった。そして彼女は今日と同じように雑誌を捲っていた。
そして僕にいらっしゃい、と眩しい笑顔を向けた。
……天使だと思った」
何この人キモイ。素直で率直な感想だったが、これはきっと真理だ。松井先輩は止まらない。身振り手振りで俺に彼女の素晴らしさを説き始める。
「まずはあの声。よく通る透き通った、夏風の様な爽やかさ。
そして気の強そうな瞳。あれはきっと小型ブラックホールに違いない。油断していると吸い込まれてしまう。
そしてあの三日月型の唇。遠目で見ても、鮮やかに映える美しい赤色。
そして」
まだ何か言ってたけど、俺はもう何を聞いたか覚えていない。まぁ身体の頭頂から足先に至るまで彼女の素晴らしさを説いていたように思う。そこまで注視するとか割とド変態な人だ。なるほど、部長がこの人を嫌う理由がよく分かった。女性の立場からしてここまで事細かに見られたらそりゃ嫌悪するわ。部長がそれの対象に成ったかどうかは知らないけど。
……あと、チョコレートに砂糖をぶっかけた様な甘い言葉は相川に直接吐けよ。俺にそれを言って何がしたいんだろうね、この人は。酢豚の攻略に戻らせてもらおう。先輩は勝手に喋らせときゃいいや。
「松井先輩、セクハラも程々にして下さいよ」
「何を言っているんだい、野田君。僕は単に」
「杏仁豆腐、もうとっくに来てますよ」
バッと効果音すら聞こえる様な勢いで俺の指差した方向をみる松井先輩。その先には顔を赤くして片手に杏仁豆腐、もう片方の手で胸の当たりを隠す相川。ブルブルと唇の辺りを奮わせている。よく見れば涙目で俺達を睨みつけているようだった。
「……彼女、いつから?」
「胸とか腰とか言ってる頃には居ましたよ」
「…………この……」
「あ、相川!違うぞ、これはその、あれだ」
相川は手にした杏仁豆腐のガラスの器を、中身が溢れないように振りかぶった。
「このスケベ野郎オオオォォォォ!」
「ぐっへああぁぁぁ!」
Nice control.杏仁豆腐のシロップが綺麗に頭にかかるように投げられた器。プリンは防御できた松井先輩でも、今度は手を出す事は出来なかった。中華料理、恐るべし。白い寒天と蜜柑を顔面に喰らい、止めのサクランボだけが口に飛び込んだ。最後に器が逆さに先輩の頭に乗っかり、フィニッシュ。とても美しい、模範的杏仁豆腐のかぶり方。満点でございます。未来永劫競技種目に成り得ないのが残念だ。写真撮って良いかな、これ。
「馬鹿!馬鹿馬鹿!良い人だって思ってたのにぃ!帰れぇ!」
相川の怒りはまだ収まっていなかった。先程からメニュー表、爪楊枝、お絞り、割り箸等、手当り次第にぶん投げてきやがる。
俺まで巻き込む形で。巻き込むと言うか、幾つかは明らかに俺を狙っている。
「お、俺もかよ!」
「話に相槌打ってたでしょ!」
いや、記憶にございません。そんな言い訳が通用する状態である事は百も承知である。俺達は店内の物品に追われるように慌ただしく店を後にした。
ぶっちゃけ要らなかった気もするパート。
だが書く。
タイトルは「このスケベ野郎オ(ry)の方が良かったかなぁ……。